第93話「一杯に込めるもの」
地の底の守護者との長い物語が、一つの区切りを迎えた。店には、これまで以上に穏やかな日々が流れていた。
そんな、ある日の昼下がりのことだった。
まだ開店前の店の扉を、誰かが遠慮がちに叩いた。開けると、そこに立っていたのは、一人の若者だった。歳の頃は、十七、八だろうか。緊張で顔を強張らせている。だが、その瞳には、まっすぐな熱があった。
「あの……!」若者が勢いよく頭を下げた。「ここで、バーテンダーの修行をさせてもらえませんか!」
【SOMA】――零。これは、めずらしい客だな。弟子入りの志願とは。
俺は、少し面食らった。だが、そのひたむきな様子に、心を惹かれた。
「まあ、どうぞ。中へ」俺は微笑んだ。「話を聞かせてください」
若者は、カルロと名乗った。街の外れで、親の畑を手伝いながら暮らしているという。
「実は少し前に、王都の大きな酒場で、バーテンダーの人を見たんです」カルロは興奮気味に語り始めた。「その人の手さばきが、もう、本当に鮮やかで。瓶をくるくる回して、炎を上げて、色とりどりの酒を混ぜて。……まるで、魔法みたいで!」
彼の目が、きらきらと輝いていた。
「俺、感動して。あんなふうになりたい、って思ったんです」カルロは続けた。「それで、いろいろ調べたら、この裏路地の店がすごいって評判で。ここで修行すれば、俺も、あんなすごいバーテンダーになれるんじゃないかって」
彼は、まっすぐに俺を見た。
「お願いします! 俺に、あの鮮やかな技を教えてください!」
【SOMA】――零。……なるほど。華やかな技に憧れたか。若者らしい動機だな。だが、零。お前の考えは、少し違うだろう。
俺は、しばらくカルロの熱意を受け止めた。そして、静かに口を開いた。
「カルロさん。その、王都のバーテンダーの技は、さぞ見事だったのでしょうね」俺は微笑んだ。「憧れる気持ちは、よくわかります」
「はい!」
「ですが、一つだけ聞かせてください」俺は、彼の目を見た。「その時、あなたの隣で飲んでいたお客さんは、どんな顔をしていましたか」
カルロが、きょとんとした。
「え……?」彼は戸惑った。「どんな顔って。どうだったかな。……派手な技に、おおっ、て盛り上がってはいましたけど」
「そのお客さんは、なぜその日、その酒場に来ていたのだと思いますか」俺は問うた。「楽しいことがあったのか。それとも、何かつらいことを抱えていたのか」
カルロは、答えられなかった。そんなこと、考えたこともなかった。そんな顔だった。
「……すみません」カルロがうつむいた。「俺、技のことばかり見ていて。お客さんのことなんて、全然」
「いいんです」俺は優しく言った。「今から知れば、いいんですから」微笑んで続ける。「せっかく来てくれたんです。今日一日、俺の隣で、この店を見ていきませんか」
カルロの顔が、ぱっと明るくなった。
「いいんですか!?」
「ええ。ただし」俺は、人差し指を立てた。「技を見るのではありません。お客さんの顔を見てください」
その時、コハクがふわりと飛んできて、カルロの肩にとまった。突然の小さな竜に、カルロが目を丸くする。
《このひと、いっしょうけんめいの、におい。いいこだね》
俺は、内心で微笑んだ。コハクも、この若者を気に入ったようだ。
やがて、店が開いた。
その日も、様々な客が訪れた。カルロはカウンターの端で、俺の言いつけ通り、客たちの顔をじっと見ていた。
最初に来たのは、仕事帰りの職人だった。肩を落として、疲れた顔でカウンターに座る。俺は、彼にすっきりとした軽い一杯を出した。特別な技も、何もない。ただ静かに注いだ一杯。
「……ああ。うまい」職人が、ふっと息を吐いた。その強張っていた肩が、少しずつほぐれていく。「今日は、厄介な仕事で参ってたんだ。……生き返るよ」
カルロが、その様子をじっと見ていた。
次に来たのは、恋人と別れたばかりだという女性だった。俺は、彼女の話を静かに聞きながら、温かくて少し甘い一杯を出した。彼女は、それを両手で包んで、ぽつりぽつりと心の内をこぼしていった。やがて、その顔に、かすかな笑みが戻った。
閉店後。俺とカルロだけが、店に残った。
「どうでしたか」俺は尋ねた。「今日一日、この店を見て」
カルロは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、全然、わかってなかった」彼は静かに言った。「バーテンダーって、ただ、すごい技で派手なお酒を作る人だと思ってました」彼は続けた。「でも、零さんは、一度も派手な技なんて使わなかった」
彼は、顔を上げた。その目に、新しい光が宿っていた。
「零さんは、お客さん一人ひとりの顔を見て、話を聞いて、その人にいちばん合う一杯を出していた」カルロの声が震えた。「疲れた人には、ほっとする一杯を。悲しい人には、心が温まる一杯を。……あれが、本当のバーテンダーなんですね」
【SOMA】――零。伝わったな。この若者に。お前の大切にしているものが。
「気づいてくれましたか」俺は微笑んだ。「そうです。バーテンダーの仕事は、ただ、酒を作ることではありません」静かに続ける。「目の前の一人のお客さんに寄り添うこと。その人が今、何を必要としているのかを感じ取って、その人だけの一杯を差し出すこと。……それが、本当の仕事なんです」
俺は、一本の酒を取り出した。
淡い若草色の酒。この酒は、この世界のものだ。朝露草の酒。この酒は、とても手間のかかる酒だった。朝露草という花は、一晩かけて、その葉に朝露をほんの少しずつ溜めていく。その一滴一滴の露を、夜明け前に、一つずつ丁寧に集める。何百、何千という花から、ようやく一瓶分の雫が集まる。それをじっくりと醸したのが、この酒だった。
俺は、それを二つのグラスに注いだ。ひとつを、カルロに渡す。彼にとって、初めての酒だった。ひとくち含んだカルロの目が、見開かれた。
「……澄んでる。すごく静かな。でも、じんわり深い味」彼は呟いた。「派手さは、全然ないのに。……なんでだろう。すごく、心に染みる」
「この酒はね」俺は静かに語った。「朝露を一滴ずつ、気の遠くなるような手間をかけて集めて、造られるんです」俺は続けた。「華やかさはありません。ですが、その一滴一滴に、作り手の途方もない真心が込められている」
俺は、その若草色の酒を見つめた。
「バーテンダーの一杯も、同じです」俺は言った。「大切なのは、目を引く技ではない。……その一杯に、どれだけの心を込められるか。誰のために、何を思って、その一杯を差し出すのか。……それが、すべてなんです」
カルロは、グラスを見つめながら、何度も頷いていた。その頬に、一筋、涙が伝っていた。
「俺、出直します」彼は言った。「技に憧れて、ここに来ました。でも、本当に大切なものは、そんなところにはなかった」彼は、顔を上げた。「零さん。俺、もう一度、一から学びたい。……人の心に寄り添える、そんなバーテンダーになりたいんです」
俺は、そのまっすぐな言葉に、深く頷いた。
「いい心がけです」俺は微笑んだ。「でしたら、まずは、ここへ通うことから始めましょうか」俺は言った。「弟子、というより、一人の仲間として。この店で、人がどう笑い、どう涙し、どんな一杯に救われるのか。……それを、あなた自身の目で見て、学んでください」
「はい……! はい!」カルロが、何度も頭を下げた。「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
そのひたむきな姿に、店の空気が温かくなった。コハクが、嬉しそうに、カルロの頭の上でくるりと舞った。
《あさつゆそうの、におい。カルロの、においと、にてる。いっしょうけんめいで、やさしい、におい》
俺は、その言葉に微笑んだ。コハクの言う通りだ。この若者は、きっと、いいバーテンダーになる。派手さはなくとも、誰かの心にそっと寄り添える。そんな一杯を、いつか出せるようになるだろう。
その夜。カルロが帰った後。俺は、カウンターの中で、静かに朝露草の酒を味わっていた。
【SOMA】――零。いい一日だったな。一人の若者の、人生のきっかけになれたかもしれん。
「そうだといいですね」俺は微笑んだ。
思えば、俺自身も、前の世界でバーテンダーとして長い時間をかけてこの心にたどり着いた。技術なら、誰でも、時間をかければ身につく。だが、目の前の一人に本当に寄り添う、その心は、技術よりもずっと難しく、ずっと尊い。
カルロが、いつか、それを掴む日が来ればいい。その日まで、俺は、このカウンターで彼に背中を見せ続けよう。言葉ではなく、一杯、一杯を通して。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、誰かの心に寄り添う一杯を静かに差し出し続ける。そして、その灯りは、また一人、新しい担い手の心にもそっと灯り始めていた。
≪第93話・了≫
次話――バーテンダーを志す若者カルロが、店に通い始めた。ひたむきなその姿は、店に新しい風を吹き込んでいく。そんなある日。常連の一人が、少し変わった相談を持ちかけてきた。「実は、大切な人にどうしても渡したい贈り物があるんだ。零さん。力を貸してくれないか」。




