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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: tatsuya akaike


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第92話「独りにはしない」

その夜。異変は、コハクから始まった。


いつもはカウンターで酒瓶の香りに包まれてまどろんでいる、小さな光の竜。それが突然、そわそわと落ち着かなくなった。地下への扉の前を、不安げに飛び回っている。


そして俺の頭の中に、震える声が響いた。


《おにいさん。おおきなおともだちが……きえちゃう。たすけて》


【SOMA】――零。消える、だと? 地の底の守護者に、何かが起きている。ただごとじゃないぞ。


見れば、シロも地下の扉の前で、じっと動かない。その金色の瞳に、深い憂いが浮かんでいる。コハクの、その言葉が、俺の胸を締めつけた。「消える」――それは、いったい、どういうことだ。


「行きましょう」俺は住人たちを呼び集めた。ヴァルド、アリシア、ノア、ガルダ、メイザ。そして、ルナ。「地下で、何かが起きています」



俺たちが地下に降りると、あの岩は静かに光っていた。


だが、その光は、弱々しかった。まるで、消えかけた蝋燭の火のように。ゆらゆらと頼りなく明滅している。前に見た、あの荒々しい脈動は、もうどこにもない。


光が、ゆっくりと、一つの姿を結んだ。淡く光る、大きな影。だが、その輪郭は、ひどく薄かった。今にも、闇に溶けてしまいそうなほど。


《……よく、来てくれた》守護者の声が、俺たちの心に、優しく響いた。だが、その声には、力がなかった。《すまぬな。最後に、お前たちの顔を見られて。……よかった》


「最後?」俺は、眉を寄せた。「それは、どういう」


《私は、間もなく、消える》守護者は、静かに告げた。《三百年。傷ついたこの身で、この地の境界を支え続けてきた。もう、力が、尽きたのだ》



俺は、言葉を失った。


《完全に目覚めた今、はっきりと、わかる》守護者は続けた。《私の中の力は、もう、ほとんど残っていない。あの日、お前が捧げてくれた一杯で、束の間、安らいだ。だが、それも、最後の灯火に過ぎなかった》


【SOMA】――零。そういうことか。第90話で穏やかに眠りに戻ったのは……力が尽きる前の、最後の小休止だったんだ。


「待ってください」俺は、思わず、前に出た。「消えるって……あなたが消えたら、この地はどうなるんですか」


《案ずるな。シロが、いる》守護者の声は、穏やかだった。《境界は、あれが支えてくれる。……ただ、私が消えれば、この地の守りは半分になる。かつてのような大きな災いが起きれば、シロ一人では支えきれぬかもしれぬ》


守護者の姿が、また一段、薄くなった。もう、時間がない。それは、はっきりと伝わってきた。


「そんな……」ルナの声が、震えた。「岩さん、消えちゃうの? やだよ。せっかく、会えたのに」



その時。アリシアが、はっと、何かに気づいた。


「零。一つ、方法があるかもしれません」アリシアの表情は硬かった。「守護者様の力を、繋ぎとめる方法。……失われかけた力を、補う"依り代"があれば」


《……気づいたか。魔法に長けた娘よ》守護者が、静かに言った。《確かに、方法はある。私の力の、一部を宿した器。それを依り代とすれば、私は消えずに済むだろう》


俺は、はっとした。守護者の力の一部を宿した器。そんなものが、あるとすれば。それは――


《その通りだ》守護者が、俺の視線を追った。その先には、コハクがいた。《この小さな竜。それは、私が力の一部を分け与えて生み出した者。……この子を、私に還せば。私は、再び、力を取り戻す》


店の空気が、凍りついた。


コハクを、還す。それは、つまり。この小さな光の竜が。俺たちの、大切な家族が。……元の光に還り、消えてしまう、ということだった。



「そんなの、だめだ!」


叫んだのは、ノアだった。普段は穏やかな料理人が、顔を真っ赤にしている。


「コハクは、俺たちの仲間だ! そんなの、認められるか!」


「だが……」ヴァルドが、苦しげに言った。「守護者殿が消えれば、この地は、危うくなる。多くの民の、暮らしが、かかっている」彼は、拳を握った。「一匹の命と、大勢の命。……天秤に、かけるのか」


重い、沈黙が、落ちた。


俺は、動けなかった。守護者を救えば、コハクを失う。コハクを守れば、守護者が消え、この地が危うくなる。……どちらも、選べない。力でも、敬意でも、解決できない。俺は、生まれて初めて、そんな壁にぶつかっていた。


【SOMA】――零。……つらいな。お前が、いつも大切にしてきた、"誰も見捨てない"という生き方。それが今、真正面から試されている。



その時だった。


コハクが、ふわりと俺の肩から飛び立った。そして、守護者の前へと、進んでいく。小さな体を、まっすぐに伸ばして。


《ぼく、おおきなおともだちを、たすけたい》


コハクの、健気な声が、俺の頭に響いた。俺だけに、届く声。だが、その決意は痛いほど伝わってきた。


《おおきなおともだち、ずっと、ひとりで、がんばってきた。さみしかった。……ぼくが、いれば。もう、ひとりじゃない。だから、ぼく、いくよ》


「コハク……!」


俺は、思わず、その名を呼んだ。この小さな竜は。自分が消えることを、わかっていて。それでも、独りぼっちだった守護者を救おうとしている。……その、優しさが。俺の、胸を、貫いた。


《おにいさん。たのしかったよ。おさけの、いいにおい。みんなの、わらいごえ。……ぜんぶ、だいすき》


コハクの体が、淡く、光り始めた。守護者へと、還るために。



「待て、コハク!」


俺は、叫んだ。そして、必死に頭を回転させた。情報屋として、バーテンダーとして、これまで培ってきたすべてを使って。何か、道はないか。誰も、失わずに済む道は。


そして――気づいた。


「そうか……そういうことか」俺は、呟いた。「守護者様。一つ、聞かせてください」俺は、顔を上げた。「あなたが消えかけているのは、力が尽きたから。……いえ、違う。本当は、"独りで背負いすぎた"からじゃ、ないですか」


守護者の光が、揺れた。


「三百年。あなたは、たった独りで、この地を支え続けた。誰にも頼らず、誰にも分けず。……その、孤独が。あなたを、すり減らしたんだ」俺は、続けた。「だったら、答えは、一つです。あなたは、独りで、背負わなくていい」


【SOMA】――零。まさか、お前……!



「コハクを、依り代にする必要は、ありません」俺は、はっきりと、言った。「あなたの力をコハク一人に背負わせるから、消えることになる。……なら。俺たち、みんなで、分かち合えばいい」


俺はアイテムボックスから、一本の酒を取り出した。琥珀色の、竹鶴。二つの蒸溜所の、個性の違う原酒を調和させて生まれた一杯。異なるものが、寄り添い、ひとつになる酒。


「シロ。あなたは、境界を守る、守護者。この方の、相棒だ」俺は、シロを見た。シロが、静かに、頷く。「ルナ。あなたの飾りは、この地の星霜鉄。守護者様と、同じ源を持つ」ルナが、こくりと頷いた。「コハク。あなたは、この方の、力の一部。……そして、俺たちは、この地で暮らす住人だ」


俺は竹鶴を、複数の器に注いでいった。守護者へ。シロへ。そして、俺たち一人ひとりの手にも。


「一杯を、捧げるというのは。ただ、敬意を示すこと、じゃない」俺は、静かに言った。「同じ一杯を分かち合うこと。同じ想いで繋がること。……"あなたは、独りじゃない"と。伝えることなんです」



俺は、器を、掲げた。


「守護者様。あなたの力を、あなた独りに、背負わせません。この地を守る重みを、俺たちみんなで、少しずつ分かち合います」俺は、微笑んだ。「シロと、コハクと、ルナと、この店のみんなと。……そして、この地で暮らす、すべての人と。だから、もう、消えなくていい」


その瞬間。俺の掲げた竹鶴が、金色に、輝き始めた。


シロの体が、淡く光る。ルナの飾りが、共鳴する。コハクが、嬉しそうに、鳴いた。そして、俺たち一人ひとりの手の中の酒も、同じ金色に輝いていく。


《これは……!》守護者の声が、震えた。《温かい……力が、流れ込んでくる。だが、これは、奪うのではない。分かち合う、力……!》


一人では支えきれなかった重みが、多くの手に分けられていく。竹鶴が、二つの原酒を調和させるように。守護者の力が、俺たちみんなの想いと、溶け合っていく。



消えかけていた、守護者の光が。少しずつ、力を、取り戻していった。


薄かった輪郭が、はっきりと濃くなる。弱々しかった脈動が、力強く脈打ち始める。そして――コハクの体を包んでいた、還りの光が。すっと、消えた。コハクは、消えずに、済んだのだ。


《おにいさん!》コハクが、俺の肩に、飛び込んできた。《ぼく、きえない! みんなと、いっしょに、いられる!》


「ええ」俺は、コハクを、そっと抱きとめた。「あなたを、失うわけには、いきませんから」


守護者の姿が、力強い光に、包まれていた。もう、消えかけてなど、いない。三百年、独りで背負ってきた重みから解き放たれた、安らかな光だった。


《……礼を言う、零》守護者の声には、深い、感謝が滲んでいた。《私は、ずっと独りで耐えねばならぬと思っていた。守護者とは、そういうもの、だと。……だが、お前は、教えてくれた。重荷は、分かち合っていい。孤独に耐える必要は、ない、と》



《不思議なものだ》守護者は、しみじみと、言った。《力で、私を従わせようとした者は、いた。敬意を、示す者も、いたかもしれぬ。だが……"共に背負う"と言ってくれた者は、お前が初めてだ》


「重いものは、一人で持つより。みんなで持つほうが、いい」俺は、微笑んだ。「それに、あなたはもう、この店の仲間ですから」


守護者の光が、ふっと、和らいだ。笑ったように、俺には、見えた。


《ならば、私も。この、奇妙な家族の、一員というわけか》


「ええ。大歓迎です」俺は、頷いた。「時々、地の底から。俺の注ぐ一杯の、香りを、楽しんでください。コハクを通して、いつでも語りかけてくれれば、いい」


シロが、静かに守護者に寄り添った。境界を守る者と、根源を守る者。かつて対をなした二つの守護者が。今、再び、共にこの地を守る。だが、もう、どちらも独りではなかった。俺たちが、いる。この小さなバーに集う、みんなが。



俺たちは、地上へと、戻った。


長い夜が、明けようとしていた。誰の顔にも、深い安堵と、温かな満足があった。


「肝が冷えたぞ」ヴァルドが、苦笑した。「コハクを、失うかと、思った」


「俺もです」俺は正直に頷いた。「でも……独りで背負うより、みんなで支えるほうがいいって。それは、この店が、いつも教えてくれたことでした」


ルナが、俺の手を、握った。「おにーさん」彼女が、笑った。「コハクも、岩さんも、消えなくてよかったね」


「ええ」俺は、優しく頷いた。コハクが、ルナの頭の上でくるりと舞う。《みんな、だいすき!》その無邪気な声が、俺の胸を、温かくした。



その日の夜。店は、いつものように、扉を開けた。


何も変わらない、日常。だが、その日常は、いつもよりずっと愛おしく感じられた。地の底では、二人の守護者が、俺たちを見守っている。もう、どちらも、独りではない。


【SOMA】――零。今回は、お前の"いつものやり方"じゃ、通用しなかったな。敬意でも、力でもなく……"共に背負う"。お前は、また一つ、大切なことを掴んだ。


「ええ」俺は、静かに微笑んだ。「敬意を示すだけじゃ、足りない時がある。……本当に大切なのは。その重さを、一緒に、背負うことなんですね」


俺はカウンターの中から、店を見渡した。笑い合う住人たち。肩の上で丸くなる、コハク。そのすべてが、俺の守りたい、かけがえのない日常だった。


夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、独りぼっちの誰かにそっと囁く。「あなたは、独りじゃない」と。一杯の酒と、分かち合う温もりとともに。



≪第92話・了≫



次話――消えかけた守護者を、みんなで支え、真の絆を結んだ。店には、これまで以上に、穏やかで温かな日々が流れ始める。そんなある日。一人の若者が、緊張した面持ちで、店の扉を叩いた。「あの……ここで、バーテンダーの修行をさせてもらえませんか」。思いがけない、弟子入りの志願だった。

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