第91話「二度目の春」
コハクが仲間に加わって、数日が経った。
この小さな光の竜は、すっかり店に馴染んでいた。昼はカウンターの隅で酒瓶の香りに包まれて丸くなり、夜は客の肩から肩へと、ふわふわ飛び回る。俺にだけ届く念話で、無邪気なおしゃべりを聞かせてくれる。看板娘ならぬ、看板竜だった。
そんな、ある夜のことだった。
店の扉が、勢いよく開いた。入ってきたのは、リーナだった。北部防衛の総司令官にして、「鉄壁の盾将」の異名を持つ女将軍。だが、その顔には、いつもの凛とした鋭さがなかった。どこか、思い詰めたような影がある。
「店主。……少し、いいか」低い声だった。「折り入って、頼みがある」
【SOMA】――零。リーナの様子、ただ事じゃないな。戦場でも動じないあの人が、あんな顔をするとは。
「もちろんです」俺は静かに頷いた。「どうぞ、おかけください」
リーナは、カウンターに腰を下ろした。だが、なかなか本題を切り出さない。めずらしいことだった。いつもの彼女なら、単刀直入に用件を告げる。それが、今日は、言葉を探すように黙り込んでいる。
その時だった。コハクが、ふわりと飛んできた。そして、リーナの目の前のカウンターに、ちょこんと降り立った。つぶらな瞳で、彼女を見上げる。
《このひと、かたいにおいがする。……でも、おくのほうは、やわらかいよ》
俺にだけ届く、コハクの声。俺は、内心で小さく笑った。この竜は、時々、驚くほど人の心を言い当てる。
リーナは、その小さな竜を見て、張り詰めていた表情を緩めた。
「……ほう。めずらしい生き物だな」そっと、指を伸ばす。コハクは、嫌がりもせず、その指に頭をすり寄せた。「ふふ。人懐こいやつだ」
強張っていたリーナの頬が、ようやくほどけた。コハクが、場を和ませてくれたのだ。
「新しい仲間です」俺は微笑んだ。「コハクといいます。……不思議と、人の心を和ませるんですよ」
「そうか」リーナは、コハクを指先で撫でながら、ぽつりと呟いた。「……こういう、穏やかな時間が。わたしには、縁のないものだと思っていた」
その言葉に、俺は、彼女の相談の糸口を感じた。
「リーナさん」俺は静かに切り出した。「今日は、どうされたのですか」
リーナは、しばらく黙っていた。そして、意を決したように口を開いた。
「……わたしは、軍を退こうと思っている」低く、はっきりと告げる。「引退だ」
【SOMA】――零。引退か。20年、無敗の将軍が。……大きな決断だな。
「後継者のティルダも、もう立派に育った」リーナは続けた。「わたしがいなくとも、北部の守りは大丈夫だろう。……潮時なのだ」
その口ぶりは、淡々としていた。だが、俺にはわかった。彼女の心は、少しも定まっていない。
「潮時、ですか」俺は静かに問いかけた。「ですが、その割には。あまり晴れやかな、お顔ではありませんね」
リーナの肩が、わずかに揺れた。
「……ばれていたか」彼女は苦笑した。それから、深いため息をついた。「情けない話だ。20年、戦場に立ち続けた、このわたしがな」拳を見つめる。「いざ、退くと決めたら。……怖くなった」
「怖い?」
「ああ」リーナは頷いた。「わたしは、戦うことしか知らん。剣を握り、兵を率い、国を守る。……それが、わたしのすべてだった」その声が揺れた。「その剣を置いたら、わたしは、いったい何者になる。……『鉄壁の盾将』でないわたしに、何の価値があるというのだ」
【SOMA】――零。……そういうことか。長く一つの役割を生きてきた者ほど、それを手放す時が怖い。自分が空っぽになる気がして。
俺は、しばらく、彼女の言葉を受け止めた。
長い間、「鉄壁の盾将」として生きてきた人。その鎧は、彼女を守ると同時に、彼女そのものになっていた。それを脱いだ後の自分が、わからない。……その不安は、とても深いものだった。
俺は、静かに、棚から一本の酒を取り出した。
淡い桜色の酒。この酒は、この世界のものだ。二度咲きの花の酒。この酒は、とても珍しい花から造られる。その花は、一度、春に美しく咲く。そして、役目を終えたように散っていく。……普通なら、それで終わりだ。だが、その花の古い株は長い時を経て、秋の終わりにもう一度、そっと花を咲かせる。誰に見られるでもなく、ただ静かに、二度目の花を。その二度目に咲いた花びらだけを集めて、じっくりと醸したのが、この酒だった。
俺は、その酒をグラスに注いだ。淡い桜色の液体が、静かに揺れる。ひとくち含むと、まず、優しく熟した甘みが広がる。一度目の春の勢いはない。だが、その代わりに、時を重ねた者だけが持つ、じんわり心に染みる味わいがあった。二度目だからこその、静かな豊かさ。そんな酒だった。
「この酒を造る花は」俺は静かに語り始めた。「一度、春に咲いて散ります。ですが、その株は、時を経て、秋にもう一度、花を咲かせるんです」
リーナが、その桜色の酒を見つめた。
「一度目の花は、若く勢いがあって、人々の目を引きます」俺は続けた。「ですが、二度目の花は違います。静かで、目立たない。……けれど、その花から造ったこの酒には、一度目にはない深く穏やかな味わいがあるんです」
俺は、リーナの目を見た。
「リーナさん。あなたのこれまでの人生は、一度目の春でした」穏やかに続ける。「戦場で剣を握り、誰よりも勇敢に咲き誇った。……見事な、一度目の春です。ですが、花は、一度咲いて終わりではありません。……あなたには、二度目の春があるんです」
リーナの瞳が、揺れた。
「二度目の、春……」彼女が、その言葉を繰り返した。
「ええ」俺は頷いた。「剣を置いた、その後の人生。それは、空っぽになることではありません。一度目とは違う。もっと静かで、穏やかな。……あなただけの二度目の花を、これから咲かせていく。そういうことなんです」
「だが……」リーナは迷うように言った。「わたしは、戦うことしか知らん。二度目の花など、どう咲かせればいいのか」
「それは、これから見つければいいんです」俺は微笑んだ。「焦る必要はありません。一度目の花が散ってから、二度目の花が咲くまでには、ちゃんと時間があります。その間に、ゆっくりと。……あなたが本当にやりたいことを、探せばいいんです」
リーナは、じっと、その酒を見つめていた。
《このひとの、かたいにおいが。すこし、とけてきた》
コハクの声が、俺にだけ届いた。その通りだった。リーナの纏っていた張り詰めた空気が、少しずつ和らいでいく。
リーナは、そっと、その二度咲きの花の酒を口に運んだ。
「……ああ」彼女の口から、感嘆が漏れた。「深い味だ。……派手さはない。だが、じんわりと、心に染みてくる」しみじみと言う。「これが、二度目の春の味か」
「ええ」俺は微笑んだ。
「不思議だ」リーナは、グラスを見つめた。「この味を知ったら。……少しだけ、怖くなくなった。一度目とは違う、新しい自分。……それを探すのも、悪くないかもしれん」
彼女の顔から、来た時の影が消えていた。
「あなたは、もう十分に戦いました」俺は優しく言った。「これからは、あなた自身のための時間です。そして、その道の途中で疲れたら、いつでもこのカウンターに来てください」微笑んで続ける。「ここは、鎧を脱いで、ただの一人のあなたに戻れる場所ですから」
リーナは、その言葉に、ふっと笑った。今度は、心からの笑顔だった。
「……そうだな」彼女は頷いた。「鎧を脱げる場所か。……ありがたいものだ」
その時、コハクがふわりと飛んで、リーナの肩にとまった。そして、彼女の頬に、そっと頬ずりする。
《このひと、もうだいじょうぶ。やわらかいにおいに、なった》
俺は、その言葉に微笑んだ。
「コハクも、あなたを気に入ったようです」通訳するように伝える。「『もう大丈夫』だと、言っていますよ」
「そうか」リーナは、コハクをそっと撫でた。その手つきは、剣を握る将軍のものではなく、慈しむ一人の女性のものだった。「……ありがとうな。小さな竜どの」
店に、穏やかな時間が流れた。「鉄壁の盾将」が、ここでは、ただ一人のリーナとして静かに酒を味わっている。それは、俺がこの店で、いちばん見たかった光景の一つだった。
その夜。リーナは、ゆっくりと時間をかけて、二度咲きの花の酒を味わっていった。
帰り際。彼女は、扉の前で振り返った。
「店主。世話になった」その顔は、来た時とは別人のように晴れやかだった。「わたしは、二度目の春を探してみることにする。その最初の一歩を、ここで踏み出せた。……礼を言う」
「いってらっしゃい」俺は微笑んだ。「二度目の春も、きっと素晴らしいものになりますよ」
リーナは、力強く頷いて、夜の街へと去っていった。その背中は、もう、何にも怯えてはいなかった。長い戦いを終えた者の、清々しい後ろ姿だった。
【SOMA】――零。いい見送りだったな。あの人の二度目の春は、きっと穏やかで、豊かなものになるだろう。
俺は、内心で頷いた。人生は、一度咲いて終わりではない。散った、その後にも、もう一度花を咲かせる季節が来る。……それを信じられたら、人は、いくつになっても前を向いて歩いていける。
リーナが帰った後。コハクが、俺の肩にとまった。そして、いつものように、酒瓶の香りをすんすんと嗅いでいる。
《ねえ、おにいさん。あのひと、いいにおいになったね》
「ええ」俺は微笑んだ。「あなたのおかげでもありますよ、コハク」
《えへへ。ぼく、やくにたった?》
「もちろん」俺は、そっとコハクの頭を撫でた。「あなたがいてくれると、この店は、もっと温かくなります」
コハクは、嬉しそうに「きゅうう」と鳴いた。そして、満足げに、俺の肩で丸くなった。
窓の外では、夜が更けていく。今夜も、この裏路地の小さなバーは、誰かの心の鎧をそっと脱がせ、明日への一歩を後押しする。一杯の酒と、小さな竜の無邪気さと、変わらぬ灯りとともに。
夜が更けていく。二度目の春を探しに行く一人の将軍を見送って、店は、今夜も静かに扉を開けていた。
≪第91話・了≫
次話――リーナを見送り、店には、また穏やかな日々が戻ってきた。だが、俺は忘れてはいなかった。地の底で眠る、古い存在のことを。そして、その目覚めの時が、着実に近づいていることを。ある夜、コハクが、そわそわと地下の方を気にし始めた。……何かが、また動き出そうとしていた。




