第90話「おかえりなさい」
その夜。俺はシロの瞳を見て、静かに悟った。
地下から戻ってきたシロは、俺の前で一声、低く鳴いた。その金色の瞳が、まっすぐ俺を見つめている。「もう、時が来た」と。そう告げるように。
【SOMA】――零。……ついに、だな。地の底の鼓動。もう、抑えきれる段階を超えている。あの岩が、完全に目を覚まそうとしている。
「ああ」俺は静かに頷いた。「わかっている」
俺は、店の住人たちを集めた。ヴァルド。アリシア。ノア。ガルダ。メイザ。そして、ルナとシロ。この、ギルド・ゼロの仲間たち。全員に俺は告げた。
「地下のあの岩が、目を覚まそうとしています」俺はみなを見て告げた。「今夜、俺はそれと向き合いに行きます」
「向き合うだと?」ヴァルドが眉を寄せた。「危険ではないのか。得体の知れないものだろう」
「わからない」俺は正直に答えた。「だが、これは逃げて済むことではありません。あの岩の奥のものは、長い間この地の底で眠り続けてきた。そして今、目覚めようとしている。……俺は、それから目を背けたくない」
俺はみんなを見渡した。
「これは俺一人の問題ではありません」俺は一人ひとりの顔を見た。「このダンジョンは、俺たちが管理を任された場所です。その地の底で、何かが起ころうとしている。……ギルド・ゼロとして、俺たちはこれに向き合うべきだと思います」
しばらくの沈黙の後。ヴァルドが静かに頷いた。
「……お前の言う通りだ」彼は言った。「逃げるのは性に合わん。俺も、行こう」
「わたしも」アリシアが続いた。「何があるか、わかりません。薬師として、備えておきます」
一人、また一人、みんなが頷いた。誰も、逃げなかった。それが、この仲間たちだった。
俺たちは地下へと降りた。第一層の鉱脈の、最奥へ。
そこに、あの岩はあった。だが、その光は、これまでとは比べ物にならなかった。激しく脈打ち、まばゆいほどに輝いている。地下の空気全体が、びりびりと震えていた。何か途方もなく大きな力が、今にもあふれ出そうとしている。
ルナの首の飾りも、それに呼応して強く光っていた。
「すごい……」ルナが、目を見張った。「岩さんが、もうすぐ目を覚ます」
【SOMA】――零。ルナの飾りが、これほど共鳴するとは。……やはり、あの飾りはこの岩と同じ星霜鉄だ。だから、これほど深く響き合うんだ。
俺はルナのそばに屈んだ。
「ルナ。あなたのその飾りは、この岩と同じ星霜鉄でできています」俺は、優しく言った。「だから、こんなにも響き合うんです。……怖くは、ないですか」
「ううん」ルナは、首を振った。「怖くない。だって、岩さん、ずっとひとりだったんだもん。やっと目を覚ませて。……うれしいんだと思う」
その時だった。
岩の光が、ひときわ強く脈打った。そして――ゆっくりと、岩の表面に亀裂のような光の筋が走り始めた。まるで、固く閉じていた瞼がゆっくりと開いていくように。
地の底に眠っていた何かが、今、目を覚まそうとしている。
「来るぞ」ヴァルドが、身構えた。
だが、俺は手でそれを制した。
「武器を構えないでください」俺は、静かに言った。「これは、戦いではありません」
【SOMA】――零。お前の勘は、どう言っている。
「あれは」俺は、脈打つ岩を見つめた。「敵じゃない。ルナの言う通りだ。……あれは、ただ長い間、独りで眠っていた。そして、目覚めを待っていた。それだけ、なんだ」
俺には、わかった。この地の底から伝わってくる気配。それは、敵意でも、害意でもなかった。ただ、途方もなく深い孤独と、かすかな……喜びの気配だった。
やがて、岩の光が、人の形のおぼろげな輪郭を宙に結び始めた。
それは、シロに、少し似ていた。だが、シロよりもずっと古く、ずっと大きな気配を纏っている。淡く光るその姿は、まるでこの地の大地そのものが意志を持ったかのようだった。
シロが、その光の存在に向かって静かに鳴いた。まるで、旧い知己に挨拶するように。
【SOMA】――零。……シロが、あれを知っている。いや。あの二つは、もしかしたら。
「対をなす存在なのかもしれない」俺は静かに呟いた。「シロが、境界を守る『始まりの守護者』なら。……あれは、この地の根源を守る、もう一つの古い守護者かもしれない」
光の存在は、ゆっくりと俺たちを見渡した。まなざしのようなものが、俺の上で止まった。
言葉は、なかった。だが、俺には伝わってきた。「なぜ、私を呼んだ」と。そして、「お前は、何者だ」と。
俺はそのまなざしの前に、静かに進み出た。
長い間、地の底で独り眠っていた存在。それが今、目を覚まし、俺たちを見つめている。恐れは、あった。だが、それ以上に俺は、この古い存在に敬意を抱いていた。
「はじめまして」俺は静かに語りかけた。「俺は、水無月零。この地の上で、小さなバーを営む者です。あなたが長い間、独りで眠っていたことは知っています。……そして、俺たちが、あなたを呼び覚ましたのなら。それはきっと、俺たちがこの地で日々を積み重ねてきたから、でしょう」
光の存在は、じっと俺を見つめている。
「あなたが、なぜ目覚めたのか。何を望んでいるのか。……俺には、まだわかりません。ですが、一つだけ俺にできることがあります」
俺はアイテムボックスから、一本の酒を取り出した。
琥珀色の酒。地の文で俺だけが知っている。ブッシュミルズ。前の世界の、アイルランドで造られるウイスキーだ。この酒を生む蒸溜所は、今から四百年以上も前。まだ世界のどこにも、ウイスキー造りが正式に認められていなかった時代に、最初にその許しを得た。この世界に現存する、最も古い蒸溜所の一つだ。まさに、ウイスキーの『始まり』を見つめてきた酒。長い長い時を、ずっと変わらぬ製法で受け継いできた。最も古き、始まりの一杯だった。
俺はその酒を、静かに小さな器に注いだ。
最も古い始まりの酒を、最も古く眠り続けた、この存在へ捧げる。それは、俺にできる精一杯の敬意の表し方だった。
「これを、あなたに捧げます」俺はその器を、光の存在の前にそっと掲げた。「長い孤独の眠りから目覚めた、あなたへ。……ようこそ、この世界へ。おかえりなさい」
その瞬間。
光の存在のまなざしが、ふと、和らいだ気がした。
激しく脈打っていた岩の光が、ゆっくりと穏やかな脈動へと変わっていく。荒ぶっていた地の底の気配が、俺の捧げた一杯によって、そっと受け止められたかのように。
【SOMA】――零。……届いている。お前の一杯が、あの古い存在にちゃんと届いているぞ、零。
ルナの飾りの光も、それに合わせて優しく脈打っていた。彼女は、その光の存在を見上げてにっこりと微笑んだ。
「よかったね、岩さん」ルナが、そっと微笑んだ。「もう、ひとりじゃないよ」
その無邪気な言葉に、光の存在の気配がさらに柔らかくなった気がした。
だが――まだ、何も終わってはいなかった。この古い存在が何者で、何を望み、これからどうなるのか。……その答えは、まだ、光の向こうに隠されたままだった。
俺は掲げた器を、そっと岩の根元に置いた。
「焦りはしません」俺は静かに言った。「あなたが、話したくなったら、ゆっくりと話してください。俺たちは、ここにいます。あなたを迎える準備は、できています」
光の存在は、しばらく俺たちを見つめていた。そして、ゆっくりとその輪郭を、再び岩の中へと溶かし始めた。まるで、深く息を吸い込むように。次に、完全に目覚める、その時のために力を蓄えるかのように。
だが――消えゆくその直前。
光の存在から、小さな光の粒がひとつ、こぼれ落ちた。その粒は、宙でくるくると回りながら、少しずつ形を変えていく。そして、俺の手のひらの上にそっと舞い降りた時には、小さな生き物の姿になっていた。
手のひらに乗るほどの、小さな竜だった。星霜鉄のように、淡く光る鱗。つぶらな金色の瞳。背中には、まだ頼りない小さな翼。それは俺を見上げて、「きゅう」と可愛らしい声で鳴いた。
【SOMA】――零。……これは。あの古い存在が、自分の力のほんの一部を分け与えた、のか。
俺には、わかった。この小さな竜は、あの守護者が眠りにつく前に、俺たちに託したものだった。「自分が眠っている間も、この子を通じて、あなたたちと繋がっていたい」。そんな想いが伝わってきた。信頼の証だった。
岩の光は、その小さな竜を残して、静かに、穏やかな脈動へと戻っていった。もう以前のような荒々しさはない。どこか安らいだ、優しい光だった。
【SOMA】――零。ひとまず、峠は越えたか。だが、零。これは、終わりじゃない。あれは必ず、もう一度、完全に目を覚ます。……その時、何が起こるのか。それは、まだ、誰にもわからん。
「ああ」俺は静かに頷いた。「だが、俺はもう恐れない。あれが何であろうと、俺はあれを一人の客として迎える。……それが、俺の生き方だ」
俺たちは地上へと戻った。
長い夜だった。だが、誰の顔にも、安堵の色があった。得体の知れない、何か。だが、俺たちは、それと戦わず、敬意をもって迎え入れる。その第一歩を、踏み出せたのだ。
「零」ヴァルドが、静かに言った。「お前は、また俺たちに大切なことを教えてくれたな。力でねじ伏せることだけが、答えじゃない。……敬意をもって向き合う。それが、お前のやり方だ」
「ええ」俺は微笑んだ。「それが、俺にできる唯一のことですから」
ルナが俺の手を握った。
「おにーさん」ルナが俺を見上げた。「岩さん、きっと、また目を覚ますよね。その時は、みんなで、ちゃんと「おかえり」って言おうね」
「ええ」俺は、優しく頷いた。「そうしましょう」
その時だった。俺の肩に乗っていた、小さな竜が。ぴくりと、鼻先を、動かした。そして、ふわりと、飛び立つと。カウンターに並んだ酒瓶の方へと、まっすぐに向かっていった。
「おや」俺は、微笑んだ。
小さな竜は、一本の酒瓶の前にちょこんと止まった。そして、うっとりと、目を細めて。その芳しい香りを。すんすんと、嗅いでいる。まるで、極上の香りに、酔いしれているかのようだった。
【SOMA】――零。この竜。どうやら、酒の香りが、好きらしいぞ。……まったく。とんだ、のんべえの、相棒だな。
「ふふ。気に入りましたか」俺は、ほんの少しだけ琥珀色の酒を小皿に注いで、差し出した。小さな竜は、嬉しそうに、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。そして、満足げに「きゅうう」と鳴いた。飲むのではなく、香りを、味わうのが。好きなようだった。
その時だった。俺の頭の中に、幼い声が直接響いた。
《おさけ、いいにおい! しあわせ!》
俺は、思わず、目を見開いた。周りを見ると、みんなは、きょとんとしている。どうやら、今の声は、俺にしか、聞こえていないようだった。
【SOMA】――零。今のは、この竜の声だな。頭に、直接、語りかけてきた。……念話、というやつか。しかも、どうやら。お前にだけ、届いているらしい。
小さな竜は、つぶらな瞳で、まっすぐに、俺を見つめた。そして、また、無邪気に、語りかけてきた。
《おにいさん、ぼくのこえ、きこえる?》
「ええ。聞こえていますよ」俺は、静かに、頷いた。他のみんなは、俺が竜に話しかけるのを見て、不思議そうにしている。だが、この声は、確かに、俺の頭の中に、響いていた。
シロがルナにだけ言葉を届ける、静かな守護者なら。この小さな竜は、俺にだけ、心の声を届けるらしい。同じく言葉を持つ存在でも、選んだ相手が、対照的だった。
【SOMA】――零。面白いな。シロは、ルナに。この竜は、お前に。……対をなす守護者から生まれた者どうし。それぞれ、心を通わせる相手を、選んだというわけか。きっと、これも、何かの縁だ。
その様子に、店のみんなが笑った。
「かわいい!」ルナが、目を、輝かせた。「ねえ、おにーさん。この子、お名前は?」
「そうですね」俺は、少し考えた。「ルナ。あなたが、つけてあげてください」
ルナは、うーんと、うなった。そして、その琥珀色の酒にうっとりする竜を見て。ぱっと、顔を、輝かせた。
「コハク!」ルナが弾んだ声を上げた。「お酒の色と、おんなじだから。コハク、が、いい!」
小さな竜は、その名をしばらく、味わうように繰り返した。そして、俺の頭の中に、弾んだ声を、響かせた。
《コハク……ぼく、コハク! いいなまえ!》
「気に入ったようです」俺は、みんなに、通訳するように、微笑んだ。「『いい名前だ』と、喜んでいますよ」
その言葉に、ルナが、ぱっと、顔を輝かせた。コハクも、嬉しそうに、ルナの頬に、すりっと頬ずりする。こうして、ギルド・ゼロに、また一人、新しい家族が増えた。酒の香りをこよなく愛し、俺にだけ無邪気な声を届ける、小さな光の竜が。
シロは、その様子を少し離れた場所から、静かに見守っていた。まるで、新入りを認めるように、ゆっくりと尻尾を振っていた。
その夜。俺はカウンターの中で、静かに水のグラスを傾けた。傍らでは、コハクが酒瓶の香りに包まれて、気持ちよさそうに丸くなっている。
地の底で目覚めようとしている、古い存在。その正体は、まだわからない。それが、この世界に何をもたらすのか。……それも、わからない。だが、俺は決めていた。何が来ようとも、俺はこのカウンターからそれを迎える。逃げも、隠れもしない。
一杯の酒と、積み重ねてきた仲間との絆と、揺るがない覚悟とともに。
【SOMA】――零。長い物語になりそうだな。
「ああ」俺は静かに微笑んだ。「だが、俺はこの物語の続きを見届けたい」
窓の外では、夜が更けていく。いつもと変わらない、静かな夜。だが、その地の底では、今、一つの大きな物語がゆっくりと動き始めていた。
その行く末を、俺はまだ知らない。だが、何が待っていようとも、俺はこの場所で酒を注ぎながら迎え撃つ。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、地の底の大きなまなざしを抱えて、静かに扉を閉じた。
≪第90話・了≫
次話――地の底の古い存在は、ひとまず穏やかな眠りへと戻り、店には、コハクという新しい仲間が増えた。だが、その完全な目覚めの時は、刻一刻と近づいている。俺は、その日に備え始める。だが、まずは、いつもの日常だ。ある日、店にあの女将軍リーナが、深刻な面持ちで駆け込んできた。「零。折り入って、頼みがある」。彼女が口にしたのは、思いがけない相談だった。




