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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: tatsuya akaike


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第87話「動かない、という答え」

王都の騒動が収まって、しばらく経った、ある日のことだった。


店に、見慣れない、身なりの立派な男が訪れた。上等な絹の服。洗練された物腰。ただの客ではない。


「こちらが、ギルド・ゼロで間違いないか」男は、丁寧に尋ねた。「わたしは、宮廷から遣わされた使者です」


【SOMA】――零。宮廷の使者だと。しかも、あの物腰。かなりの高位の者だな。


「ええ、そうです」俺は、穏やかに応じた。「宮廷の方が、こんな裏路地に。どういったご用件でしょう」


使者は、うやうやしく、一通の書状を取り出した。立派な封蝋が押されている。王家の紋章だった。


「陛下からの、招待状です」使者は言った。「先の、王都の騒動。あなたが鮮やかに収めたことを、陛下は、いたく感心されておられます」



俺は、その書状を受け取り、目を通した。


内容は、丁重な感謝の言葉から始まっていた。そして、その先に書かれていたのは、俺への破格の申し出だった。


宮廷に召し抱えたい、という。国の情報を扱う、要職に。あるいは、望むなら、爵位と領地を与えてもよい。城で盛大な宴を催し、褒美を取らせたい、と。


【SOMA】――零。すごい話だな。宮廷の要職に、爵位に、領地。普通の者なら飛びつく栄誉だ。一介のバーの主が、国の中枢に召し抱えられる。……大出世だぞ。


俺は、その書状を、静かに読み終えた。そして、少しだけ微笑んだ。


破格の申し出だった。名誉も、地位も、富も。多くの人が、生涯をかけて求めるもの。それが、目の前に差し出されている。


だが、俺の心は、少しも動かなかった。



「使者殿」俺は、静かに口を開いた。「陛下の、お心遣い。まことに、ありがたく存じます」俺は言った。「ですが……このお話は、謹んでお断りさせていただきます」


使者の顔に、驚きが走った。


「な……なんと」彼は、目を見開いた。「お断りなさると? この破格の申し出を?」彼は、慌てて言った。「あなたは、わかっておられるのか。宮廷の要職ですぞ。爵位も、領地も。……これほどの栄誉は、めったにありません」


「わかっております」俺は、静かに頷いた。「だからこそ、です」


俺は、カウンターの中から、店を静かに見渡した。


古びた木のカウンター。並んだ酒瓶。すり減った床。決して豪華ではない。むしろ、質素な裏路地の小さなバー。だが、ここが、俺の居場所だった。



「使者殿。少し、俺の話を聞いていただけますか」俺は言った。


俺は、一本の酒を取り出した。


淡い黄金色の酒。この酒は、この世界のものだ。地に低く咲く、ある花から造られる。その花は、華やかな花ではない。背の高い木々の足元。日の当たりにくい地面に、ひっそりと根を張って咲く花だ。風が吹いても、嵐が来ても、その花は決して倒れない。地にしっかりと根を張り、同じ場所で咲き続ける。その丈夫な根と花びらを、じっくりと時間をかけて醸して造るのが、この酒だ。


俺は、その酒をグラスに注いだ。淡い黄金色の液体が、静かに揺れる。ほんの少し口に含むと、まず、素朴な土の香りがふわりと広がる。派手さはない。だが、その奥に、しっかりと根を張った力強い滋味がある。どっしりと地に足の着いた味わい。飲むほどに心が落ち着き、自分の足元を見つめ直したくなる。そんな酒だった。


「この酒を造る花は」俺は言った。「決して、華やかな場所では咲きません」俺は続けた。「日の当たらない地面に、ひっそりと根を張って咲きます。ですが、どんな嵐が来ても、決して倒れない。……自分の場所で、咲き続けるのです」



使者は、その酒を口に運んだ。そして、その素朴で力強い味わいに、少し目を見張った。


「俺は」俺は、静かに言った。「この花のような生き方が、性に合っているんです」俺は言った。「華やかな宮廷は、俺の居場所ではありません。俺の居場所は、この裏路地の、小さなカウンターの内側だけです」


「しかし……」使者は、まだ納得がいかない様子だった。「なぜ、です。地位も、富も、求めぬとは。……人は、みな、上を目指すものでは」


「使者殿」俺は微笑んだ。「もし、俺が宮廷に入れば、どうなると思いますか」俺は言った。「この店は、『国の息のかかった店』になります。……そうなれば、もう誰もが、安心してここで本音をこぼせなくなる」


使者が、はっとした。


「この店には、様々な人が来ます」俺は続けた。「身分の高い者も、低い者も。時には、国と対立する立場の者も」俺は言った。「その誰もが、ここでは、ただの一人の客として心を休められる。……それは、俺がどこにも属していないから、なんです」



【SOMA】――零。そういうことだな。お前が力を持てるのは、どこにも属さず、中立でいるからだ。宮廷に入った瞬間、お前の店は、その特別な意味を失う。


俺は、内心で頷いた。その通りだった。


「俺は、表に出るつもりはありません」俺は言った。「このカウンターの内側から、静かに人の心に寄り添う。……それが、俺にできる、ただ一つの仕事です」俺は微笑んだ。「派手な栄誉は、要りません。この小さな居場所さえあれば、俺は、十分幸せなんです」


使者は、長い間、黙っていた。俺の言葉を。そして、この質素な店を。じっと見つめていた。


やがて、彼は、深いため息をついた。だが、それは、失望のため息ではなかった。むしろ、深く感じ入った者のため息だった。


「……見事な、お答えだ」彼は、静かに言った。「陛下が、あなたを気に入られた理由が、わかった気がします」彼は微笑んだ。「地位にも、富にもなびかない。ただ、自分の信じる場所で、人のために働く。……なるほど。あなたのような人だからこそ、あの難しい騒動を収められたのですな」



使者は、立ち上がり、うやうやしく頭を下げた。


「あなたの、お気持ち。しかと、陛下にお伝えいたします」彼は言った。「ですが、これだけは。陛下からの伝言として」彼は続けた。「『そなたが、その場所に居続けてくれること。それこそが、国にとっての宝である』と」


俺は、その言葉に、静かに頭を下げた。


「もったいない、お言葉です」


「それと」使者は、少し砕けた口調で言った。「陛下は、こうもおっしゃっていました。『褒美が要らぬと言うのなら。せめて、また、あの店で一杯飲ませてくれ』と」彼は笑った。「陛下は、あなたの店を、いたく気に入っておられるようです」


「ええ、もちろん」俺は微笑んだ。「いつでも、お待ちしております。……ただの、一人のお客様として」



使者が帰った後。店には、いつもの静けさが戻った。


俺は、カウンターの中から、自分の店を改めて見渡した。豪華さとは無縁の、小さな裏路地のバー。だが、俺には、この場所が、世界のどんな宮殿よりも愛おしく思えた。


そばで、話を聞いていたルナが、俺を見上げて言った。


「おにーさん、すごいね」彼女は言った。「お城に行けたのに、断っちゃった」彼女は、不思議そうに首をかしげた。「お城って、キラキラで素敵なんでしょう?」


「そうかもしれませんね」俺は、優しく微笑んだ。「でも、ルナ。俺にとって、いちばん素敵な場所は」俺は言った。「あなたたちがいる、この店なんですよ」


ルナは、ぱっと顔を輝かせた。


「えへへ。あたしも! この店が、いちばん好き!」


その無邪気な笑顔が、俺の選択が間違っていなかったことを、何よりも雄弁に物語っていた。


【SOMA】――零。いい選択だ。お前は、また一つ、自分の生き方を貫いたな。



夜が近づいてきた。今日も、店は開く。


様々な人が、この裏路地の扉をくぐる。剣聖も、将軍も、国王でさえも。そして、名もなき市井の人々も。その誰もが、ここでは、ただの一人の客だ。俺は、その一人ひとりに、その人だけの一杯を差し出していく。


宮廷の要職も。爵位も、領地も。俺には要らない。俺の王国は、このカウンターの内側にある。ここから、俺は、静かに世界を動かしていく。表には、決して出ることなく。


地に根を張り、動かず咲き続ける、あの花のように。俺は、この場所で、今日も明日も、一杯の酒を注ぎ続ける。


夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、変わらぬ場所で静かに扉を開けていた。



≪第87話・了≫



次話――宮廷からの誘いを断り、俺は、変わらぬ日々を選んだ。だが、そんな平穏な日常に、ふと影が差す。地下から戻ったシロの様子が、おかしい。そして、その夜。ルナが、また、あの地下の岩に呼ばれるように、ふらりと姿を消したのだ。地の底で眠るものが、再び、静かに動き始めていた。


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