第86話「もう一度、やり直せる」
数日後。ダリウスが、再び店を訪れた。
「零。例の、水売りの件だ」彼はカウンターに座ると、静かに切り出した。「調べがついた」
俺は、水のグラスを差し出しながら、続きを待った。
「噂の出所は、やはり、あの水売りの店だった」ダリウスは言った。「店主は、コルネという初老の男だ。だが……」彼は、少し言いよどんだ。「どうも、単純な話ではないようでな」
【SOMA】――零。ダリウスが、歯切れが悪いな。何か、事情を掴んだようだ。
「その男は、どんな人物ですか」俺は尋ねた。
「それが……評判は、決して悪くない」ダリウスは言った。「むしろ、真面目で通っていた。長年、こつこつと水を売ってきた、地道な男だ」彼は腕を組んだ。「そんな男が、なぜ、街を混乱させるような噂を流したのか。……どうにも腑に落ちん」
俺は、しばらく考えた。
真面目な男が、突然、街を騒がす噂を流す。そこには、必ず理由がある。人が、本来の生き方を曲げる時。その裏には、たいてい、切実な何かが隠れているものだ。
「ダリウスさん」俺は言った。「その、コルネさんを、この店にお連れできますか」俺は続けた。「捕らえるのではなく。……ただ、一杯飲みに来る客として」
ダリウスは、少し驚いた顔をした。
「罰する、つもりはないのか」
「まだ、何もわかっていませんから」俺は微笑んだ。「話を聞くのが、先です。……その男が、なぜ、そんなことをしたのか。それを知らないうちは、裁くことも、救うこともできません」
ダリウスは、しばらく俺を見ていた。そして、ふっと笑った。
「……お前は、本当に変わっているな」彼は言った。「わかった。それとなく声をかけて、連れてこよう」
翌日の夜だった。
ダリウスに連れられて、一人の男が店を訪れた。コルネだ。痩せた、初老の男。背中を丸め、目を伏せている。その姿には、疲れと、深い怯えのようなものがにじんでいた。
「いらっしゃいませ」俺は、いつものように穏やかに迎えた。「どうぞ、おかけください」
コルネは、おずおずとカウンターに座った。だが、その手は、かすかに震えている。
【SOMA】――零。この男、怯えているな。だが、悪党の怯えじゃない。……罪の意識に押し潰されそうな、目だ。
俺は、あえて、噂のことには触れなかった。ただ、静かに、一杯の酒を用意した。
透明な、けれど豊かな香りの酒。地の文で俺だけが知っている。グラッパ。前の世界の、イタリアで生まれた酒だ。この酒には、面白い生まれがある。その昔、ワインは、上流階級だけの贅沢品だった。庶民には、手が届かない。そこで、庶民たちは考えた。ワインを造った後に残る、ぶどうの搾りかす。本来なら捨てられてしまう、そのかすに水を加えて蒸留し、自分たちの酒を造り出したのだ。捨てられるはずのものから生まれた酒。それが、やがて人々の工夫と情熱によって、立派な一つの銘酒へと育っていった。
俺は、そのグラッパを、コルネの前に置いた。
「まずは、一杯」俺は言った。「何も聞きません。ただ、飲んでください」
コルネは、戸惑いながらも、そのグラスに口をつけた。強い酒だ。彼は、少しむせた。だが、その香りと味わいが、強張っていた彼の心をほんの少しほぐしたようだった。
しばらくの沈黙の後。コルネは、ぽつりと口を開いた。
「……あんたは」彼は、掠れた声で言った。「わたしが、何をしたか。知っているんだろう」
「ええ」俺は、静かに頷いた。「井戸の噂を流したのは、あなただと」
コルネの肩が、びくりと震えた。彼は、うつむき、両手で顔を覆った。
「……すまない」彼は、絞り出すように言った。「わたしのせいで、街が、こんなことに。……こんなつもりじゃ、なかったんだ」
俺は急かさず、彼の言葉を待った。やがて、コルネは、堰を切ったように語り始めた。
「娘が、病なんだ」彼は言った。「重い病でな。治すには、高価な薬がいる。だが、わたしのようなしがない水売りに、そんな大金はなくて」彼の声が震えた。「藁にもすがる思いだった。……それで、魔が差した」
彼は、拳を握りしめた。
「『井戸が、涸れるかもしれない』。……最初は、ほんの小さな嘘だった」彼は言った。「そう言えば、少しは、水が高く売れる。娘の薬代の、足しになる。そう思ったんだ」彼は顔を歪めた。「だが……嘘は、わたしの手を離れて、どんどん大きくなっていった。気づいた時には、街全体がパニックになっていた」
彼の目から、涙がこぼれ落ちた。
「もう、止められなかった。わたしなんかの手には、負えなかった」彼は嗚咽した。「わたしは、娘を救いたかっただけなんだ。なのに……大勢の人を、苦しめてしまった。わたしは、なんてことを……」
【SOMA】――零。……そういうことか。この男は、悪党じゃない。ただ、追い詰められて、小さな嘘が取り返しのつかないことになった。……哀れな男だ。
俺は、静かに、コルネの話を受け止めた。
彼の犯したことは、決して許されることではない。多くの人が、彼の嘘で苦しんだ。だが、この男は、根っからの悪人ではなかった。ただ、娘を思う一心で追い詰められ、道を誤ってしまった。一人の父親だった。
「コルネさん」俺は、静かに言った。「あなたがしたことは、たしかに、大きな過ちです」俺は言った。「それは、これから、償わなければなりません」
コルネは、うなだれた。
「ですが」俺は続けた。「あなたは、まだ、やり直せます」
彼が、顔を上げた。
「この酒を、見てください」俺は、グラッパを指した。「これは、ぶどうの搾りかすから造られた酒です」俺は言った。「本来なら捨てられてしまう、もの。誰もが、価値がないと思っていた、もの。……ですが、人の工夫と情熱で、それはこんなにも豊かな一杯に生まれ変わった」
俺は、コルネの目を、まっすぐに見た。
「一度、道を誤ったとしても」俺は言った。「そこからどう生きるかで、人は、いくらでもやり直せる。……この酒のように」
コルネは、涙を流しながら、俺の言葉を聞いていた。
「償いたい」彼は、震える声で言った。「どうすれば、いい。……わたしにできることなら、なんでもする」
「では、真実を話しましょう」俺は言った。「『井戸は涸れない』。その本当のことを、あなた自身の口から、街の人々に伝えるのです」俺は続けた。「噂を流した張本人が、勇気を出して、真実を告げる。……それが、いちばん、人々の心に届きます」
コルネの顔に、恐怖がよぎった。
「そんなことをしたら、わたしは……」
「ええ。罰を受けることになるかもしれません」俺は、静かに言った。「ですが、それが償いです。そして……娘さんに胸を張れる父親でいるための、ただ一つの道です」
コルネは、長い間、黙っていた。そして、ゆっくりと顔を上げた。その目には、もう、怯えではない。覚悟の光が宿っていた。
「……わかった」彼は言った。「やる。真実を話す。……娘に恥じない父親でいるために」
「それと、娘さんの薬のことは」俺は付け加えた。「うちの、アリシアとメイザに相談してみましょう。二人は、優れた薬師です。もしかしたら、力になれるかもしれません」
コルネの目が、大きく見開かれた。
「なぜ……そこまで」彼は、掠れた声で言った。「わたしは、迷惑をかけているのに」
「困っている人を、放っておけないだけです」俺は微笑んだ。「それに、娘さんには、何の罪もありません。……病に苦しむ子を救いたい。それは、当たり前の願いです」
コルネは、また涙をこぼした。今度は、後悔の涙ではなかった。救われた者の、安堵の涙だった。
【SOMA】――零。いい仕事だ、零。この男を断罪するのは、簡単だった。だが、お前は、罪を見つめさせた上で……ちゃんと、立ち直る道も示した。それでこそ、本当の解決だ。
俺は、内心で頷いた。人を裁くのは、簡単だ。だが、それだけでは、何も生まれない。大切なのは、過ちを犯した人が、そこからどう立ち直るか。その手助けをすることだった。
数日後。コルネは勇気を出して、街の広場で、自らの口で真実を語った。
「井戸は、涸れない。すべては、わたしの流した嘘だった」と。
もちろん、人々は怒った。だが、彼が深く頭を下げ、娘の病という事情を正直に話すと。次第に、その怒りは、同情と赦しへと変わっていった。同じように、家族を思う者たちが、彼の苦しみを理解したのだ。
そして、ダリウスが、情報省として「井戸に異常はない」と正式に発表した。二つの真実が重なって、人々の心を覆っていた不安の霧は、ゆっくりと晴れていった。
水の買い占めは収まり、値は元に戻った。よそ者への、いわれのない疑いも消えていった。渇きに揺れた街は、再び、静かな日常を取り戻したのだ。
【SOMA】――零。見事だ。一滴の血も流さず、剣を一度も抜かず。……お前は、街を救った。情報と、対話。そして、一杯の酒で。
その夜。店にコルネが、娘を連れて訪れた。
アリシアと、メイザの薬が効いたのだろう。娘の顔には、少しずつ、赤みが戻り始めていた。まだ、本復には遠いが、快方に向かっている。
「本当に、ありがとうございました」コルネは、深々と頭を下げた。「あんたに会えて、わたしは……救われた」
「あなたが、勇気を出したからです」俺は微笑んだ。「立ち直ると決めたのは、あなた自身です」
コルネは、娘の手を握った。その顔には、憑き物が落ちたような穏やかさがあった。罪を償い、真実を話し、やり直す道を見つけた、一人の父親の顔だった。
俺は、カウンターの中から、その親子の姿を見送った。捨てられるはずの搾りかすが、豊かな酒に生まれ変わるように。一度道を誤った人も、きっと、やり直せる。俺は、そのことを、改めて信じることができた。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、一人の人間の新しいはじまりを静かに見届けていた。
≪第86話・了≫
次話――王都を揺るがした騒動も、静かに収まった。零の、情報と対話による、鮮やかな解決。その噂は、いつしか、王城にまで届いていた。そんなある日、店に、意外な人物からの使いが訪れる。この国の頂点に立つ、あの御方からの。……丁重な、招待状だった。




