第85話「渇きの街」
その夜、店の扉が、荒々しく開いた。
飛び込んできたのは、ダリウスだった。いつも冷静沈着な情報省の中佐が、めずらしく息を切らし、額に汗を浮かべている。
「零。厄介な話が舞い込んだ」彼はカウンターに駆け寄るなり、言った。「王都が、揺れている」
【SOMA】――零。ダリウスが、ここまで慌てるとは。よほどの事態だな。
「まずは、落ち着いてください」俺は、水の入ったグラスを彼の前に置いた。「一杯飲んで。それから、詳しく聞かせてください」
ダリウスは、その水を一息に飲み干した。そして、ようやく呼吸を整えた。
「……ここ数日」彼は話し始めた。「王都で、ある噂が広がっている。『王都を支える、あの大井戸が、もうすぐ涸れる』とな」
「涸れる?」俺は眉を寄せた。「本当ですか」
「それが問題なのだ」ダリウスは首を振った。「調べた限り、そんな兆候はない。水は、こんこんと湧き続けている」彼は続けた。「だが、噂だけが独り歩きしている。人々は、パニックに陥っている」
彼は、王都の惨状を語った。
人々が水を求めて殺到し、あちこちでいさかいが起きている。金持ちは、高い金を払って水を買い占め、貧しい者には水が行き渡らない。水の値は、日ごとに跳ね上がっていく。さらには。「井戸が涸れるのは、よそ者が水を使いすぎたせいだ」という、根も葉もない噂まで広がり。街の外から来た者たちが、いわれのない疑いをかけられ、追い立てられている。
【SOMA】――零。ひどいな。ありもしない噂一つで、街がこれほど荒れるとは。人の不安というのは、時に、どんな剣よりも恐ろしい。
「なぜ、俺にこの話を?」俺は尋ねた。
「決まっている」ダリウスは俺をまっすぐに見た。「こういう、目に見えない、情報のいざこざ。それを解きほぐすのは。……お前の専門だろう、零」
俺はしばらく考えた。
たしかに、これは剣で斬れる相手ではない。悪党を一人捕まえれば済む話でもない。相手は、人々の心に巣食った「不安」そのものだ。厄介な相手だった。
「ダリウスさん」俺は口を開いた。「その噂は、どこから始まったのか。出所は、わかっていますか」
「それが……はっきりしない」ダリウスは渋い顔をした。「気づいた時には、もう街中に広がっていた。誰が言い出したのか。たどれないのだ」
「なるほど」俺は頷いた。「では、まず、そこからですね。噂の源をたどる」
俺はSOMAに意識を向けた。この脳内のAIと、俺の情報収集の力なら。人の口から口へと伝わった噂の道筋を、逆にたどれるかもしれない。
【SOMA】――零。任せろ。王都で、この噂を口にした者たちの記録をたどる。最初にそれを語り始めた地点を探す。……少し時間がかかるが、できる。
「少し、時間をください」俺はダリウスに言った。「噂の出所を突き止めます。ですが、その前に」
俺は、一本の酒を取り出した。
澄んだ、淡い水色の酒。この酒は、この世界のものだ。澄み花の酒。この世界の、とある水辺に咲く花から造られる。その花は、不思議な花だった。どんなに濁った、淀んだ水辺でも、その花だけは澄んだ美しい花を咲かせる。まるで、周りの濁りを吸い取って、自らの中で澄ませてしまうかのように。その花びらを清らかな湧き水に浸し、ゆっくりとその澄んだ成分を引き出して造るのが、この酒だ。
俺は、その酒をグラスに注いだ。淡い水色の液体が、静かに揺れる。ほんの少し口に含むと、まず、雑味のまったくない澄み切った味わいが広がる。冷たい湧き水のような清冽さ。そして、その後にほのかな甘みと、心を落ち着かせる涼やかな余韻が続いた。飲むと、ざわついた心が静まり、頭の中が澄んでいく。そんな酒だった。
「これを飲んでください」俺はダリウスに差し出した。「あなたも、少し気が立っている。こういう時こそ、頭を澄ませて、冷静になることが大切です」
ダリウスは、その酒を口に運んだ。
「……ほう」彼の強張っていた表情が、ゆるんだ。「澄んだ味だな。……頭のもやが、晴れていくようだ」
「ええ」俺は微笑んだ。「不安や混乱の渦中にいる時、人は正しく物事を見られなくなります」俺は言った。「王都の人々も、同じです。彼らは、悪人ではありません。ただ、不安に飲み込まれて、冷静さを失っているだけなんです」
ダリウスは、静かに頷いた。
「だから、俺たちがやるべきことは」俺は続けた。「悪人を探して罰することでは、ないのかもしれません」俺は言った。「人々の心にかかった、この不安の霧を、そっと晴らしてやること。……澄み花が、濁った水を澄ませるように」
【SOMA】――零。お前らしい見立てだな。剣で斬るのではなく、霧を晴らす。……だが、そのためには、まずこの噂の根を突き止めねばな。
「その通りだ」俺は内心で頷いた。
その時だった。SOMAが、俺に告げた。
【SOMA】――零。一つ、糸口が見つかった。この噂を、ごく初期に広めていた者たちに、奇妙な共通点がある。
「共通点?」
【SOMA】――ああ。噂を最初期に口にした者たちは、みな、ある一つの場所でそれを聞いている。……王都の市場にある、とある水売りの店だ。
俺の中で、何かが引っかかった。井戸の噂を広めた、水売りの店。それは、はたして偶然だろうか。
「ダリウスさん」俺は言った。「一つ、調べてほしい場所があります」俺は続けた。「王都の市場の、水売りの店。そこが、この噂の発信源になっている可能性があります」
ダリウスの目が、鋭く光った。
「……水売り、だと」彼は呟いた。「井戸が涸れる噂が広まって、いちばん得をするのは。……高い水を売る、水売りというわけか」
「まだ、わかりません」俺は慎重に言った。「ただの、噂の通り道かもしれない。決めつけるのは危険です」俺は言った。「ですが、調べる価値はあります。……真実はいつも、小さな糸口の先にあるものです」
「わかった。すぐに部下を動かす」ダリウスは立ち上がった。その顔には、来た時の焦りは、もうなかった。澄み花の酒が、彼の頭を澄ませたのだ。
「ダリウスさん」俺は彼を呼び止めた。「くれぐれも、慎重に。乱暴に踏み込めば、かえって人々の不安を煽ります」俺は言った。「これは、剣の戦いではありません。……情報と対話の戦いです」
「わかっている」ダリウスは頷いた。「だからこそ、お前に相談したのだ」彼は少しだけ笑った。「零。お前がいれば、この見えない敵にも、立ち向かえる気がする」
彼は、夜の闇へと消えていった。
俺は、カウンターの中で、静かに考えを巡らせた。
【SOMA】――零。厄介な事件だな。相手は、人の心の不安だ。剣も、魔法も、通用しない。
「ああ」俺は頷いた。「だが、俺の武器は、もともと剣でも魔法でもない」俺は静かに言った。「情報だ。……そして、一杯の酒だ」
その夜、俺は遅くまで、考えを巡らせていた。
王都に広がる、渇きの不安。それは、たしかに恐ろしい。だが、俺は知っている。どんなに大きな混乱も、その始まりは、ほんの小さな一つの点だということを。
その点さえ見つけ出せば。そして、そこに正しい情報という光を当ててやれば。人々の心を覆う不安の霧も、きっと晴れていく。あの澄み花が、濁った水辺を澄ませていくように。
俺の店は、動かない。俺は、この裏路地のカウンターから情報を手繰り、人を動かす。そして、王都を覆う目に見えない不安の霧を、少しずつ晴らしていく。
【SOMA】――零。始まったな。お前の、いちばん得意な戦いが。
俺は、静かに頷いた。窓の外では、夜が更けていく。その同じ空の下、王都では今も、人々が渇きの不安に震えている。
だが、案じることはない。俺が必ず、この噂の正体を突き止める。そして、人々の心に、もう一度、澄んだ水のような平穏を取り戻してみせる。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーから、一人の元情報屋の静かな戦いが、今、始まろうとしていた。
≪第85話・了≫
次話――噂の源とおぼしき、水売りの店。ダリウスの調べで、その正体が、少しずつ明らかになっていく。だが、事の真相は、俺が思っていたよりもずっと根深く、意外なものだった。この、王都を揺るがす騒動の裏に、隠されていたのは。一体、誰の、どんな想いだったのか。




