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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: tatsuya akaike


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第88話「目覚めゆくもの」

宮廷からの誘いを断って、平穏な日々が続いていた。


だが、その平穏に、ふと小さなほころびが生じ始めていた。シロだ。この始まりの守護者の様子が、ここ数日、どこか落ち着かない。しきりに、地下への入口を見つめ、低い声で唸ることが増えていた。


【SOMA】――零。シロの様子、明らかにおかしいな。あの時と同じだ。……いや。あの時よりも、強い。


「ああ」俺は、静かに頷いた。「地下で、また、何かが動き始めている」


あの夜を思い出す。地下の光る岩が鼓動を始め、目覚めかけた。俺は、一杯を捧げてなだめた。だが、あれは一時しのぎに過ぎない。いつか、また、その時が来る。……その予感は、当たっていた。



その夜。店を閉めた後のことだった。


俺は、ふと、胸騒ぎを覚えた。二階のルナの部屋を見に行くと、そこに、ルナの姿はなかった。寝具だけが、もぬけの殻になっている。


「ルナ!?」


俺は、慌てて店を探した。だが、どこにもいない。その時、シロが、地下への扉の前で俺を呼ぶように鳴いた。


【SOMA】――零。まさか。ルナは、また地下へ。……あの岩に、呼ばれたのか。


「行くぞ、シロ」


俺は、シロとともに、地下へと駆け下りた。第一層の鉱脈の、最奥。あの、光る岩の前へ。


そして、そこに、ルナがいた。



ルナは、あの岩の前に、ぼんやりと立っていた。第78話の時と同じ。夢遊病のように。目は、半分閉じている。そして、彼女の首の星霜鉄の飾りが、あの岩と同じリズムで強く脈打つように光っていた。


だが、前回と違うことがあった。


岩の光。それが、以前よりもずっと強く、ずっと速く脈打っていた。まるで、大きな心臓が、今にも目を覚まそうとしているかのように。地下の空気が、びりびりと震えている。何か、途方もなく大きなものが、その岩の奥で身じろぎを始めていた。


【SOMA】――零。前回とは、比べ物にならん。目覚めが、確実に進んでいる。この脈動の強さ。……もう、そう遠くないぞ。この岩の奥のものが、完全に目を覚ます時が。


俺は、ごくりと唾を飲んだ。だが、まずは、ルナだ。


「ルナ」俺は、そっと、彼女の肩に手を置いた。「ルナ。目を覚まして」



ルナは、ゆっくりと目を開けた。そして、不思議そうに辺りを見回した。


「……おにーさん?」彼女は、寝ぼけた声で言った。「あたし……また、ここに来てたの?」


「ええ」俺は、優しく頷いた。「大丈夫ですか」


「うん……」ルナは、こくりと頷いた。それから、脈打つ岩を見上げた。「岩さん。……前より、ずっと大きな声で呼んでる」彼女は、ぽつりと言った。「なんだか……さみしいのかな。ずっと、ひとりで眠ってて。……だれかに、気づいてほしいのかも」


その、子どもの素直な言葉が、俺の胸に深く刺さった。


眠るもの。長い、長い間、この地の底で、たった独りで。……気づいてほしい。その想いが、今、あふれ出そうとしているのだろうか。


【SOMA】――零。ルナには、何かが伝わっているのかもしれん。俺たちには感じ取れない、岩の奥の"声"が。……だが、深入りは禁物だ。まずは、この高ぶりを鎮めることだ。



俺は、静かに、岩と向き合った。そして、いつものように、アイテムボックスから一本の酒を取り出した。


琥珀色の、深い酒。地の文で俺だけが知っている。イチローズモルト。前の世界の、日本の秩父で生まれたウイスキーだ。この酒には、一つの物語がある。かつて、とある古い蒸溜所が閉鎖された。そこには、長い年月をかけて熟成されてきた、数百もの樽が残されていた。だが、それらは、価値のないものとして廃棄される運命だった。ある若い作り手が、その眠れる樽たちを、見捨てられなかった。彼は、必死に奔走し、その樽を守り抜いた。そして、長い眠りについていた、その原酒は。時を経て、世界中を驚かせる素晴らしい酒として、見事に目を覚ましたのだ。


俺は、その酒を、小さな器に注いだ。琥珀色の液体が、静かに揺れる。長い眠りから目覚めた酒。地の底で、目覚めようとしている、この岩に。捧げるには、ふさわしい一杯だった。


俺は、それを、脈打つ岩の根元にそっと供えた。



「聞こえていますか」俺は、静かに語りかけた。「あなたが、長い間、独りで眠っていたことはわかりました」俺は続けた。「ですが、もう、独りではありません。俺たちが、ちゃんと、ここにいます。あなたのことを、気にかけています」


俺は、岩に、そっと手をかざした。


「あなたが、目覚めたいのなら。俺は、それを止めません」俺は言った。「ですが、どうか、焦らないでください。……あなたが目覚める、その時。俺たちが、きちんと迎えられるように。少しだけ、待っていてください」


すると――岩の脈動が、少しずつ、穏やかになっていった。


激しく脈打っていた光が、ゆっくりと落ち着いていく。まるで、俺の言葉に、耳を傾けるように。荒ぶっていた何かが、そっとなだめられたかのように。ルナの飾りの光も、それに合わせて、静かになっていった。


【SOMA】――零。……また、鎮まった。だが、零。前回より、明らかに手強くなっている。お前の一杯が届く、その猶予も。……そう長くは、ないかもしれん。



やがて、岩は、元の静かな淡い光に戻った。供えたイチローズモルトは、いつの間にか消えていた。まるで、岩が、それを受け取ったかのように。


「岩さん……落ち着いたみたい」ルナが、ほっとした顔で言った。「よかった」


俺は、ルナを抱き上げた。その小さな体は、まだ、少し震えていた。


「さあ、戻りましょう」俺は、優しく言った。「今夜は、もう大丈夫です」


だが、俺の心は、穏やかではなかった。


この目覚め。それは、もう、止められない。次に、この岩が鼓動を始める時。その時は、もう一杯を捧げるだけでは、なだめきれないかもしれない。


【SOMA】――零。……どうする、零。この、目覚めゆくものと。いつか、正面から向き合う時が来る。それが、吉と出るか、凶と出るか。……わからんぞ。



地上に戻り、俺は、ルナを寝かしつけた。彼女は、すぐに、安らかな寝息を立て始めた。


俺は、その寝顔を、しばらく見つめていた。それから、静かに部屋を出た。


一人、カウンターに戻る。俺は、水のグラスを傾けながら、考えを巡らせた。


地の底で、目覚めようとしているもの。その正体は、まだわからない。それが、災いをもたらすものなのか。あるいは、何か大切なものなのか。……それも、わからない。だが、一つだけ、はっきりとしていることがある。


俺は、もう、この件から目を背けてはいられない。


【SOMA】――零。腹を括ったか。


「ああ」俺は、静かに頷いた。「逃げるのは、俺の性に合わない」俺は言った。「あれが目覚めるというなら、俺は、正面から向き合う。……そして、あれが何であろうと、ちゃんと一杯を差し出してやる」


それが、俺の生き方だった。相手が誰であろうと、何であろうと、一人の客として、一つの存在として、敬意を持って迎える。……たとえ、それが、地の底で眠り続けた、得体の知れない何かであったとしても。



窓の外では、夜が更けていく。いつもと変わらない、静かな夜。だが、その地の底では、何か大きなものが、静かに、だが確実に目を覚まそうとしていた。


俺は、まだ知らない。それが、この、ギルド・ゼロに。そして、この世界に。何をもたらすのかを。


だが、俺は決めた。何が来ようとも、俺は、このカウンターでそれを迎え撃つ。逃げも、隠れもしない。ここが、俺の場所だ。そして、ここに集う大切な仲間たちを、必ず守り抜く。


一杯の酒と、積み重ねてきた絆と、そして、決して揺るがない覚悟とともに。


夜が更けていく。裏路地の小さなバーの、地の底で。目覚めの時は、刻一刻と、近づいていた。



≪第88話・了≫



次話――地の底で眠るものの、目覚め。その時は、刻一刻と迫っていた。俺は、この避けられぬ運命に、備え始める。だが、その前に。まずは、いつもの日常だ。ある日の午後。店に、一人の風変わりな旅の商人が訪れる。その男が鞄から取り出したのは、見たこともない、不思議な酒の瓶だった。


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