第82話「湯気の向こうに」
トトとミミが帰ってから、数日後のことだった。
いつものように、俺が開店前の仕込みをしていると、厨房からノアが出てきた。だが、その様子が、どこかいつもと違う。ぶっきらぼうな彼が、めずらしく、言い出しにくそうにもじもじしている。
「なあ、マスター」ノアは、ようやく口を開いた。「ちょっと、相談があるんだ」
【SOMA】――零。ノアが改まって相談とは、めずらしいな。あの無愛想な男が。よほど大事な話なんだろう。
「もちろん」俺は手を止めて、向き直った。「聞きましょう。座ってください」
ノアは、カウンターの椅子に腰を下ろした。それから、しばらく言葉を探すように黙っていた。俺は急かさず、静かに待った。
やがて、彼はぽつりと話し始めた。
「この前の、あの子どもたち」ノアは言った。「トトと、ミミ。あいつらのこと、ずっと考えてたんだ」彼は続けた。「親がいなくて。貧しくて。それでも、世話になったじいさんのために、なけなしの金を握りしめて来た」
俺は静かに頷いた。
「あいつらを見てたら」ノアは拳を握った。「昔の自分を思い出したんだ」彼の声が低くなった。「親父が死んだ後。俺も貧しくて。腹を空かせて。……あの頃、たまに恵んでもらえた、温かい一皿の飯が。どれだけ俺を救ってくれたか」
【SOMA】――零。ノアの原点だな。父を亡くし、貧しかったあの頃。料理に救われた。だから、あいつは料理人になった。
「マスター」ノアは顔を上げた。その目には、強い決意が宿っていた。「俺は、この街の恵まれない人たちに、温かい飯を食わせてやりたいんだ」
俺は、その言葉を静かに受け止めた。
「この店の仕事は続ける」ノアは、慌てて付け加えた。「それは変わらない。ここは、俺の居場所だ」彼は言った。「でも、それとは別に。週に何度か。腹を空かせた貧しい人たちに、無料で温かい飯を振る舞う。そういう場所を作りたいんだ」
彼はうつむいた。
「でも……こんなの、ただの俺の自己満足かもしれない」彼は言った。「俺一人の力なんて、たかが知れてる。全員を救えるわけでもない。……こんな考え、甘いかな」
俺はしばらく考えた。それから、棚から一本の酒を取り出した。
「ノア。少し、俺の話を聞いてください」俺は言った。
透き通った、美しい酒。地の文で俺だけが知っている。而今。前の世界の、日本の三重という土地の酒だ。この酒には、一つの物語がある。この酒を造る蔵は、二百年もの歴史を持つ、古い酒蔵だった。だが、時代の流れの中で人々が酒を飲まなくなり、蔵は傾き、存続すら危ぶまれた。そんな時、蔵を継いだ若い後継ぎが立ち上がった。彼は、古い伝統を大切にしながら、同時に新しい造り方に挑戦した。そして、一本の素晴らしい酒を生み出した。その酒に、彼はこう名付けた。「而今」――過去にも未来にも囚われず、今をただ精一杯に生きる、という意味だ。
俺は、その酒をグラスに注いだ。透明な液体が、静かに揺れる。
「この酒には、こういう意味が込められています」俺は言った。「『過去にも未来にも囚われず、今を精一杯生きる』」俺はノアを見た。「傾いた蔵を継いだ若者が、今を精一杯生きて、生み出した酒です」
ノアが、じっとそのグラスを見つめた。
「ノア。あなたはさっき、言いました」俺は続けた。「全員は救えない。自己満足かもしれない、と」俺は微笑んだ。「でも、そんなことはないんです」
俺は、彼の目をまっすぐに見た。
「あなたが昔、恵んでもらった一皿の飯。あれをくれた人は、世界中の貧しい人を救おうと思ってくれたわけじゃないでしょう」俺は言った。「ただ、目の前の腹を空かせた少年に、温かい一皿を差し出した。それだけです。……でも、それがあなたを救った。今のあなたを作った」
ノアの肩が、わずかに震えた。
「全員を救う必要はありません」俺は言った。「あなたの目の前の一人を、温かい飯で笑顔にできれば。それで十分なんです」俺は微笑んだ。「その一人が、いつか、また誰かを救うかもしれない。……あなたが、そうだったように」
ノアはしばらく黙っていた。そして、そっとその而今を口に運んだ。
「……うまい」彼は呟いた。「透き通っていて。でも、力強い。……今を生きる、味だ」
彼はグラスを置いた。その顔から、迷いが消えていた。
「マスター」ノアは言った。「俺、やるよ」彼の声には、静かな確信があった。「過去に囚われるのは、もうやめる。親父のことも。貧しかった昔のことも。全部抱えて。……その上で、今の俺にできることをやる」
「いい決意です」俺は深く頷いた。
「この店で、酒に合う料理を作りながら」ノアは続けた。「その腕を、恵まれない人たちのためにも使う。……料理人として、それが俺の生きる道だ」
【SOMA】――零。ノアの目が変わったな。迷いが消えて。料理人としての新しい覚悟が宿っている。いい顔だ。
「もちろん、店として協力します」俺は言った。「食材の仕入れも。場所も。必要なものは、なんでも」俺は微笑んだ。「うちには、頼れる仲間がたくさんいますからね」
その言葉を聞きつけて、いつの間にか、住人たちが集まってきていた。
「面白そうな話じゃないか」ガルダが、にやりと笑った。「あたしも手伝うよ。竈の一つや二つ、すぐ作ってやる」
「わたしも」アリシアが微笑んだ。「栄養のある薬草を、料理に加えましょう。体の弱った人にも、いいように」
「食器や道具が必要だろう」ヴァルドも言った。「運搬は任せろ」
ルナも、目を輝かせた。
「あたしも手伝う!」彼女は言った。「あたし、配るの得意だよ! お花も、まいたことあるもん!」
ノアは、その温かい輪を見回した。そして、少し照れくさそうに、頭を掻いた。
「……お前ら」彼は、ぶっきらぼうに言った。だが、その声は震えていた。「ありがとうな」
その夜。ノアは、さっそく新しい料理の試作を始めた。
恵まれない人たちに振る舞う料理。安い材料でも、栄養があって、何より心が温まる一皿。彼は真剣な顔で、鍋をかき混ぜた。厨房に、白い湯気が立ちのぼる。
その湯気の向こうに、俺は、ノアの料理人としての新しい姿を見た。かつて、バーを憎み、「この店が嫌いだ」と言ったあの青年は。今、誰よりも温かい料理で、人を救おうとしている。
【SOMA】――零。人は変わるものだな。いや、違うか。ノアは変わったんじゃない。あいつの優しさが、ようやく正しい行き先を見つけたんだ。
俺は内心で頷いた。その通りだった。ノアの中には、ずっと、あの温かい一皿への感謝があった。それが今、形になろうとしている。
「マスター」ノアが、湯気の向こうから言った。「味見してくれ」
彼が差し出した一皿。素朴な、けれど滋味深い煮込み料理だった。一口食べると、体の芯から温まる、優しい味が広がった。
「……美味しい」俺は微笑んだ。「これなら、きっとたくさんの人が笑顔になります」
こうして、ギルド・ゼロは、また一つ新しい取り組みを始めることになった。
裏路地の小さなバーから始まった店。それが今や、鉄を打ち、薬を作り、人の心に寄り添い、恵まれない人々にまで温かい手を差し伸べようとしている。
すべては、一杯の酒と、一皿の料理から始まる。誰かの人生を、ほんの少しあたたかくする。その小さな積み重ねが、いつか大きなうねりとなって、世界を変えていくのかもしれない。
俺は、カウンターの中から、湯気の立つ厨房を眺めた。ノアの背中が、いつもより少し大きく見えた。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、誰かの明日をあたたかくする準備をしている。一杯の酒と、一皿の料理。そして、たくさんの優しさとともに。
≪第82話・了≫
次話――ノアの炊き出しは、静かに準備が進んでいた。だが、その噂を聞きつけたのか。ある夜、店に一人の恰幅のいい男が訪ねてくる。街でいくつもの食堂を営む、料理組合の重鎮だった。「ギルド・ゼロが、タダで飯を配るだと? ……商売の邪魔をしてくれるなよ」。思わぬ横やりが、入ろうとしていた。




