第81話「小さなお客様」
穏やかな昼下がりだった。
まだ客もいない静かな時間に、店の扉が、そろりと開いた。だが、入ってきた人影が見当たらない。おかしいな、と思ってカウンターから身を乗り出すと、そこに二人の子どもが立っていた。
まだ十歳にも満たないだろう。男の子と、女の子。よく似ているから、兄妹だろうか。二人とも、擦り切れた清潔な服を着て、緊張した面持ちで店の中を見回している。
男の子の手には、小さな布袋が握られていた。中から、じゃらり、と硬貨の音がする。なけなしの小銭のようだった。
「あの……」男の子が、勇気を振り絞るように口を開いた。「お、お酒じゃないもの、ありますか」
【SOMA】――零。子どもの客か。それも二人。何か事情がありそうだな。緊張しているが、必死な目をしている。
俺は、二人を驚かせないように、穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ」俺は、大人の客に接するのとまったく同じ、丁寧な口調で言った。「もちろん、ございますよ。どうぞ、そちらの席へ」
二人は、顔を見合わせた。追い返されると思っていたのかもしれない。おずおずと、カウンターの椅子によじ登る。足が、床に届いていない。
「ご注文の前に、伺ってもいいですか」俺は優しく尋ねた。「今日は、どうしてこの店に来てくれたんですか」
男の子は、少しためらってから話し始めた。
「ぼく、トト。こっちは、妹のミミ」彼は言った。「あのね……近所に住んでる、モーガンじいさんに、飲ませてあげたくて」
「モーガンじいさん?」
「うん」トトは頷いた。「ぼくたち、親がいなくて。二人で暮らしてるんだ。でも、モーガンじいさんが、いつも気にかけてくれて。パンを分けてくれたり。寒い日は、火にあたらせてくれたり」
その隣で、妹のミミが、こくこくと頷いた。
「でも、モーガンじいさん、最近元気がないの」ミミが小さな声で言った。「体を悪くして。もう、あんまり長くないかもって」彼女の目に、涙がにじんだ。「じいさん、いつも言ってた。『昔は、仕事帰りに、うまい一杯を飲むのが楽しみだった』って。『もう一度、あの贅沢な気分を味わいたいなあ』って」
トトが、布袋をぎゅっと握った。
「だから、ぼくたち」彼は言った。「二人で稼いだお金で、じいさんに、特別な飲み物を飲ませてあげたくて」彼は俺をまっすぐに見た。「でも、ぼくたち子どもだから。お酒は買えない。だから……お酒みたいに特別で。でも、じいさんの弱った体でも飲める。そういうもの、ないかなって」
【SOMA】――零。……なるほど。健気な子どもたちだ。自分たちのためじゃない。世話になった老人のために。なけなしの金を握りしめて。
俺の胸に、熱いものがこみ上げた。
「よく話してくれました」俺は静かに言った。「あなたたちの、その気持ち。しっかり受け取りました」
俺は、二人を子ども扱いはしなかった。この店に来る、どんな客とも同じ。大切な想いを抱えた、一人の立派なお客様として向き合った。
「モーガンさんに、最高の一杯をお作りします」俺は言った。「お酒は使いません。ですが、お酒に負けないくらい特別なものを。約束します」
トトと、ミミの顔が、ぱっと輝いた。
「ほんとう!?」
「ええ。ですが、その前に」俺は微笑んだ。「まずは、あなたたち二人に、味を確かめてもらわないといけませんね。作り手として。……試作品を味わうのも、大切なお仕事ですよ」
俺は厨房の奥から、二つの珍しい素材を取り出した。
一つは、陽だまり果。この世界の、南の日当たりのいい丘で育つ果実だ。太陽の光をたっぷりと浴びて、蜜のように甘くなる。切ると、中から、とろりとした黄金色の果汁があふれ出す。その甘さは、砂糖のようなきつい甘さではない。日向ぼっこをしているような、優しくほっとする甘さだった。
もう一つは、虹泡草。清らかな水辺に生える、不思議な草だ。この草の茎をそっと搾ると、何もしていないのに、しゅわしゅわと細かな泡が自然に湧き出してくる。そして、その泡は光を受けると、七色にきらきらと輝くのだ。
俺はまず、陽だまり果を丁寧に搾った。黄金色の甘い果汁を、グラスに注ぐ。そこに、冷たい泉の水を加えて、優しく割る。最後に、虹泡草の搾り汁を、そっと垂らした。
すると、グラスの中で、しゅわしゅわと細かな泡が湧き上がった。黄金色の液体の中を、七色に輝く泡が無数に立ちのぼっていく。まるで、小さな宝石が踊っているようだった。
俺は、そのきらめく一杯を二つ作り、トトとミミの前に置いた。
「さあ、どうぞ。味見をお願いします」
二人は目をまん丸にして、その七色に輝く飲み物を見つめた。それから、おそるおそる口をつけた。
その瞬間、二人の顔が、ぱあっと輝いた。
「……おいしい!」トトが叫んだ。「あまくて! しゅわしゅわして! こんなの、飲んだことない!」
「きらきら、してる! おくちの中で、はじけるの!」ミミもはしゃいだ。
その無邪気な笑顔を見て、俺も嬉しくなった。陽だまり果の優しい甘さ。虹泡草の爽やかな泡。それが口の中で弾けて、溶け合う。子どもでも、そして弱った体の老人でも、美味しく飲める。だが、その特別な見た目と味わいは、どんな高級な酒にも負けない贅沢な一杯だった。
「気に入ってもらえて、よかったです」俺は微笑んだ。「これを、モーガンさんの分も丁寧にお作りして、お持ち帰りできるようにしましょう」
その時、二階から降りてきたアリシアと厨房のノアも、二人の子どもに気づいた。
「あら、可愛いお客様」アリシアが微笑んだ。話を聞くと、彼女はそっと、小さな包みを用意した。「モーガンさんに。これは、体を温める薬草茶です。おまけですよ」
ノアも、ぶっきらぼうに皿を差し出した。焼きたての、小さな木の実のクッキーだ。
「……これも持っていけ」彼は言った。「甘いものは、元気が出る。飲み物と一緒に食わせてやれ」
トトとミミは、大人たちの優しさに、目を白黒させていた。
「そんな……お金、これしかないのに」トトが、布袋を差し出した。
俺は、その手をそっと押し戻した。
「お代は、そのお金で十分です」俺は言った。ほんの数枚の小銭。だが、それは、二人が一生懸命稼いだ大切なお金だった。それを受け取らないのは、彼らの想いを無下にすることになる。「あなたたちの、その優しい気持ちに。少しだけ、俺たちも力を貸させてください。……それが、この店のやり方なんです」
俺はモーガンさんの分の飲み物を、こぼれないように丁寧に容器に詰めた。虹泡草の泡は、しばらく消えない。家に着いても、まだきらきらと輝いているはずだ。
「モーガンさんに、お伝えください」俺は、容器をトトに手渡した。「『疲れた一日の終わりに。どうぞ、贅沢なひとときを』と」
トトとミミは、その大切な容器を、宝物のように両手で抱えた。
「ありがとう、おじさん!」トトが、満面の笑みで言った。
「おじさん、じゃないですよ」俺は少し笑った。「マスター、と呼んでください。……あなたたちも、今日から、この店の大切なお客様ですから」
「うん! マスター!」二人は、声を揃えて言った。
そして二人は、飲み物を大事そうに抱えて、元気よく店を出ていった。その小さな背中が、とても誇らしげだった。
数日後。トトと、ミミが、また店にやってきた。今度は駆け足で。息を切らして。
「マスター! マスター!」トトが興奮して言った。「モーガンじいさん、すっごく喜んでくれた!」
「あの、きらきらの飲み物を飲んで」ミミが続けた。「じいさん、泣いてたの。『こんな贅沢なものを飲んだのは、生まれて初めてだ』って」
トトの目にも、涙が光っていた。
「じいさん、言ってた」彼は言った。「『あの七色の泡を見てたら、昔の楽しかったことが、いっぱい思い出せた』って。『もう少し、生きてみようって思えた』って」
【SOMA】――零。……聞いたか、零。お前の一杯が、あの健気な子どもたちの想いを乗せて、一人の老人の生きる力になったんだ。
俺は静かに頷いた。胸が、いっぱいだった。
「よかったですね」俺は、二人に微笑んだ。「あなたたちの想いが、届いたんです」
「あのね、マスター」ミミが、もじもじしながら言った。「あたしたち、決めたの。大きくなったら、マスターみたいな人になりたい」
「人を幸せにする飲み物を作る人に」トトも頷いた。「ぼくたちも、いつか、誰かをあんなふうに笑顔にしたいんだ」
その、まっすぐな言葉に、俺は胸を打たれた。
「素敵な夢ですね」俺は優しく言った。「きっと、なれますよ。あなたたちには、いちばん大切なものがありますから」
「いちばん、大切なもの?」
「人を想う、優しい心です」俺は微笑んだ。「それさえあれば、どんな一杯も、特別なものになるんです」
二人は、嬉しそうに顔を見合わせた。そして、また来ると約束して、元気に帰っていった。
俺は、カウンターの中から、その小さな背中を見送った。
そばで、ルナが、その様子をにこにこしながら見ていた。
「おにーさん」ルナが言った。「あの子たち、あたしと似てるね」彼女は言った。「あたしも昔、一人ぼっちで。でも、この店に来て、幸せになった。あの子たちも、きっと幸せになるよね」
「ええ」俺は頷いた。「きっと、なりますよ」
俺はしみじみと思った。この店には本当に、様々な人が来る。剣聖も、将軍も、国王も。そして、なけなしの小銭を握った幼い子どもたちも。だが俺にとって、そのどれもが同じ、大切な一人の客だった。身分も、年齢も、関係ない。ただ、その人の想いに寄り添い、その人だけの一杯を差し出す。それが、俺の仕事だった。
【SOMA】――零。今日も、いい仕事をしたな。小さな二人の大きな優しさが、この店を通して、一人の老人を笑顔にした。
俺は内心で深く頷いた。一杯の飲み物には、不思議な力がある。人の想いを乗せて、運ぶ力が。だからこそ俺は、今日もこのカウンターに立ち続ける。どんな小さなお客様の想いも、決して軽んじることなく。
夜が近づいてくる。裏路地の小さなバーは、今日も、誰かの大切な想いを乗せた一杯を静かに待っている。
≪第81話・了≫
次話――トトとミミの、あたたかな来訪。それは、店に優しい余韻を残していった。そんな折、いつものように店の仕込みをしていると、ノアがめずらしく改まった様子で、俺に話しかけてきた。「なあ、マスター。ちょっと、相談があるんだ」。天才料理人が口にしたのは、彼の料理人としての、これからに関わる大きな決意だった。




