第80話「受け継ぐ者へ」
久しぶりに、その人は現れた。
夜も更けた頃、店の扉が開いた。長身の女性が、堂々とした足取りで入ってくる。北部防衛総司令官、女将軍リーナ・クロード。「鉄壁の盾将」と謳われ、二十年間、戦場で負けを知らない英雄だ。
だが、今日のリーナは一人ではなかった。その後ろに、緊張した面持ちの若い女性が続いている。二十代半ばだろうか。きりりとした顔立ち。だが、その表情には、どこか自信のなさがにじんでいた。士官の軍服を身にまとっている。
「店主。久しぶりだな」リーナは、めずらしく目を細めて言った。「今日は、こいつを紹介したくてな」
【SOMA】――零。リーナ将軍が部下を連れてきたのは初めてだな。しかも、あの顔。将軍が目をかけている証拠だ。
「彼女は、ティルダ」リーナは言った。「うちの部隊の、若い士官だ。剣の腕も、戦術の才も、飛び抜けている。……いずれ、わたしの後を継ぐ器だと見込んでいる」
ティルダと呼ばれた女性は、慌てて頭を下げた。
「ティルダ・ヴェーンと申します」彼女は硬い声で言った。「将軍には、いつも過分なお言葉を……」
リーナは、そんな彼女を見て、小さく笑った。
「ほら、この堅苦しさだ」リーナは言った。「こいつは優秀だ。だが、根を詰めすぎる。少し、肩の力を抜くことを覚えてほしくてな」彼女は俺を見た。「この店なら、と思ったのだ。わたしが、そうしてもらったように」
俺は静かに頷いた。リーナ自身、かつて部下を守れなかった痛みを、この店で少しだけ癒した人だった。その彼女が、今度は育てている部下を連れてきた。
「ようこそ、ティルダさん」俺は微笑んだ。「どうぞ、おかけください。ここでは、階級も肩書きもいりません。ただの一人のお客様として、寛いでいってください」
二人がカウンターに腰を下ろした。
俺はまず、ティルダの様子をうかがった。背筋をぴんと伸ばし、両手を膝に置いている。まるで上官の前にいるかのような、緊張ぶりだった。
「ティルダさん。何か、悩んでいることがおありですか」俺は静かに尋ねた。
ティルダは、はっと顔を上げた。それから少しためらってから、口を開いた。
「……わたしは」彼女は言った。「将軍の後を継ぐ器だと、言っていただいています。光栄です。ですが……怖いのです」彼女はうつむいた。「将軍は、二十年、無敗の英雄です。あの大きな背中に、わたしが追いつけるとは、とても思えない。わたしなんかが、あの方の後を継いでいいのか。いつも、その重圧に押し潰されそうで」
【SOMA】――零。なるほど。偉大な先達の後を継ぐ重圧か。若くして大きな期待を背負わされた者の悩みだな。
リーナが、何か言おうとした。だが俺は、そっと目でそれを制した。今は、ティルダ自身に語らせるべきだった。
「わたしは、将軍のように強くなれない」ティルダは続けた。「あの方のように、大胆な采配もできない。兵たちを、あんなふうに惹きつけるカリスマもない。……わたしは、ただ地道に慎重に、積み重ねることしかできない」彼女は拳を握った。「こんなわたしが、あの鉄壁の盾将の後を継ぐなんて。おこがましいのです」
俺はしばらく、彼女の言葉を受け止めた。それから静かに口を開いた。
「ティルダさん。一つ、お聞きしてもいいですか」俺は言った。「あなたは、将軍と同じにならなければいけないと、思っていますか」
ティルダが顔を上げた。
「継ぐ、というのは」俺は続けた。「同じものになることでは、ありません。……少し、面白いお酒の話をさせてください」
俺は棚から、一本のボトルを取り出した。
琥珀色の深い酒。地の文で俺だけが知っている。シェリー。前の世界の、スペインで造られる酒精強化ワインだ。この酒には「ソレラ・システム」という、独特の造り方がある。何段にも積み重ねた樽。いちばん下の樽から、熟成した酒を少しだけ取り出して瓶詰めする。すると、減った分だけ、すぐ上の少し若い樽から酒を注ぎ足す。そしてその樽には、さらに上のもっと若い樽から注ぎ足す。こうして、古い酒に絶えず新しい酒が加えられていく。何十年、時には百年以上、この継ぎ足しが続くのだ。
俺はその酒をグラスに注いだ。琥珀色の液体が、静かに揺れる。
「これは遠い国の酒です」俺は言った。「面白い造り方をします。古い酒に、絶えず新しい酒を注ぎ足していくのです」俺は続けた。「古い樽の酒が、新しい酒に深みを教える。新しい酒は、古い樽に若い生命力を吹き込む。そうやって何十年、何百年と、味が受け継がれていくのです」
ティルダが、じっとそのグラスを見つめた。
「大切なのは、ここです」俺は言った。「新しい酒は、古い酒と同じにはなりません。古い酒の良さを受け継ぎながら、同時に、自分自身の新しさも加えていく。……そうやって、この酒は変わらぬ味を守りながら、少しずつ進化していくのです」
俺は、ティルダの目をまっすぐに見た。
「継ぐ、ということはこういうことだと俺は思います」俺は言った。「リーナ将軍と同じ将軍になる必要はありません。あなたは、あなたの良さを加えていけばいい」俺は微笑んだ。「将軍の大胆さの代わりに、あなたには、地道に慎重に積み重ねる力がある。それは決して、劣ったものではありません。むしろ、将軍にはない、あなただけの強みです」
ティルダの目が、大きく見開かれた。
「兵を、一人も無駄に死なせない」俺は続けた。「慎重で堅実な采配。それは、多くの若い兵の命を救うでしょう。……将軍が、かつて守れなかった命を。あなたなら、守れるかもしれない」
その言葉に、リーナが、はっと息を呑んだ。
ティルダは、震える手でそのシェリーを口に運んだ。
「……深い味」彼女は呟いた。「古さと、新しさが混ざり合った味。優しくて、それでいて力強い」
「あなたも、この酒のようになればいい」俺は言った。「将軍から受け継いだものに、あなた自身の新しさを加えて。あなたにしかできない、あなただけの将軍に」
ティルダの目から、涙がこぼれた。
「わたし……ずっと、将軍の真似をしなければ、と思っていました」彼女は言った。「同じになれない自分を責めていました。でも……そうじゃなかったんですね」彼女は顔を上げた。その瞳に、もう迷いはなかった。「わたしは、わたしの戦い方で。将軍から受け継いだものを、次に繋いでいけばいいんですね」
「ええ」俺は深く頷いた。「それが、本当の継承です」
リーナが、静かに口を開いた。
「……ティルダ」彼女の声は、いつになく優しかった。「わたしは、お前に、わたしと同じになれと言ったことは、一度もない」リーナは言った。「わたしがお前に惹かれたのは、お前のあの慎重さだ。一人の兵の命もこぼさぬように、隅々まで目を配る。あの優しさだ」彼女は微笑んだ。「わたしにはないものだ。だからこそ、お前に託したいと思った」
「将軍……」ティルダの涙が、あふれた。
「わたしは、多くを勝ってきた」リーナは静かに言った。「だが、その陰で、多くの命も失った。お前は、わたしよりうまくやれる。……そう信じている」
その言葉には、二十年無敗を誇った英雄の深い悔いと、次の世代への確かな希望がこもっていた。
【SOMA】――零。いい光景だな。古い将軍と、新しい将軍。まさに、あのシェリーのようだ。受け継がれ、注ぎ足され、また次へと繋がっていく。
その夜、二人は遅くまで、店で語り合った。
ノアが、シェリーに合う料理を出した。塩気のきいた木の実と、干した果実を盛り合わせた一皿だ。シェリーの深い甘みと塩気が、絶妙に引き立て合う。
「うまいな」リーナが目を細めた。「この店の飯は、相変わらず心がこもっている」
ティルダも、すっかり肩の力が抜けていた。最初のあの硬さは、もうどこにもなかった。ルナが、そんな彼女に近づいて話しかけている。
「おねえちゃん、つよい人なの?」ルナが無邪気に尋ねた。
「……まだ、なりかけ、かな」ティルダは優しく微笑んだ。「でも、いつか、たくさんの人を守れる人になりたいの」
「うん! なれるよ、きっと!」ルナがにっこり笑った。
その無邪気な励ましに、ティルダは心から笑った。
夜が更け、二人が帰り支度を始めた。
「店主。世話になった」リーナが言った。「お前は、また一人、救ってくれたな。……いや、二人か。ティルダと、そして、この国の未来を」
「大げさですよ」俺は微笑んだ。「俺は、ただ一杯の酒を出しただけです」
「その一杯が、大きいのだ」リーナは笑った。
ティルダが、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」彼女は言った。その顔は、来た時とは別人のように晴れやかだった。「わたし、わたしの道を行きます。将軍から受け継いだものを胸に。……いつか、わたしも、誰かにこの背中を託せるように」
二人は夜の街へと去っていった。並んで歩くその後ろ姿は、まるで古い樽と新しい樽のようだった。受け継ぎ、受け継がれる。確かな絆で結ばれて。
【SOMA】――零。今日も、いい仕事をしたな。この国の盾は、こうして次の世代へと受け継がれていく。その大切なはじまりの夜に、お前の一杯が寄り添った。
俺はカウンターの中から、その後ろ姿を見送った。
継承。それは、同じものを繰り返すことではない。受け継いだものに自分自身を加えて、また次へと渡していく。あのシェリーのように。人も、店も、国も。そうやって、少しずつ進化しながら、続いていく。
ふと、俺はルナを見た。カウンターの隅で、うとうとと船をこいでいる。この子も、いつか大人になる。俺が伝えたものを受け継いで、自分自身の新しさを加えて、次の誰かへと渡していくのだろう。
そう思うと、俺の胸に、静かな温かいものが広がった。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も一つの大切な継承を見届けた。古いものと新しいものが混ざり合う、その美しい瞬間を。一杯の琥珀色の酒とともに。
≪第80話・了≫
次話――ティルダとの一夜は、継承という言葉の重みを、俺に教えてくれた。そんなある日の昼下がり。店に、二人の子どもがおずおずと入ってきた。まだ十歳にも満たないだろう。その手には、なけなしの小銭が握られている。「あの……お、お酒じゃないもの、ありますか」。緊張したその声に、俺はそっと目を細めた。




