第79話「あの人と、飲んだ夜」
穏やかな昼下がりだった。
まだ客もまばらな時間に、その女性は訪ねてきた。年の頃は六十を過ぎているだろうか。上品な身なりで、背筋がぴんと伸びている。だが、その表情には、思いつめたようで、どこか懐かしむような、不思議な色があった。
「いらっしゃいませ」俺は迎えた。「どうぞ、お好きな席へ」
女性はカウンターに腰を下ろした。そして少し迷ってから口を開いた。
「こちらでは、どんなお酒でも出していただけると伺いました」彼女は言った。「実は……探しているお酒があるのです」
【SOMA】――零。この人、何か深い事情を抱えているな。だが、悲壮な感じじゃない。むしろ、大切なものを探す、あたたかい目をしている。
「どんなお酒でしょう」俺は尋ねた。
女性は、ふっと遠い目をした。
「わたしはメルアと申します」彼女は名乗った。「探しているのは……夫と若い頃に飲んだ、お酒なんです」彼女は微笑んだ。「夫は、三年前に亡くなりました」
その言葉に、俺は静かに耳を傾けた。だが、メルアの表情に悲愴さはなかった。むしろ、幸せな思い出を慈しむような顔だった。
「いいえ、そんなにしんみりした話ではないんですよ」彼女は俺の様子を見て、くすりと笑った。「夫とは、五十年連れ添いました。喧嘩もしたし、苦労もした。でも、いい人生でした。夫も大往生でね。……ただ、ね」
彼女は懐かしそうに続けた。
「最近ふと、思い出したんです。まだ若い頃、二人で初めて一緒に飲んだお酒のことを」彼女は言った。「あれは、忘れられない味でした。でも、もうどこにも売っていなくて。名前もうろ覚えで。……死ぬ前にもう一度だけ、あの味を飲みたいと思ったんです」
【SOMA】――零。なるほど。故人を悼むというより、人生の締めくくりに、いちばん幸せだった記憶をもう一度味わいたい。そういう望みか。いい依頼じゃないか。
「素敵なご依頼ですね」俺は微笑んだ。「ぜひお力になりたい。……ですが、名前がわからないとなると、少し探偵のような聞き込みが必要です」俺は言った。「覚えていることを、何でも教えてください。どんな小さなことでも」
メルアは少し考えて、話し始めた。
「そうですね……琥珀色のお酒でした」彼女は言った。「強いお酒。でも、とてもまろやかで」
【SOMA】――零。強い酒で、琥珀色で、まろやか。蒸留酒だな。ウイスキーか、ブランデーか。
「他には?」俺は優しく促した。
「夫が、言っていました」メルアは記憶をたどった。「この酒は、遠い東の森で生まれた。二本で、一対になった、珍しい木から採れるのだと」彼女は続けた。「その木は、二本で寄り添って育つ。片方が枯れると、もう片方も、後を追うように枯れてしまう。……そんな、不思議な木の酒だと」
俺の中で、何かが繋がり始めた。
「その若者について、もっと何か覚えていますか」俺は身を乗り出した。
「ええと……」メルアは目を閉じた。「そう、その二本の木の、片方の樹液だけでは、ただ渋いだけなんですって」彼女は微笑んだ。「でも、二本の樹液を、合わせて造ると。渋みが、深い甘さに変わる。二つで、初めて、完成するお酒なんです」彼女はうっとりと言った。「夫は、その話が大好きでね。『俺たちも、あの双樹みたいに、二人で一つだ』って。それが、二人でその酒を飲んだ夜の約束でした」
【SOMA】――零。……間違いない。これは、あの酒だ。この世界の、東の森でしか採れない、双樹の樹液の酒。二本で一対の木からしか、造れない、珍しい酒だ。お前も、この世界に来てから、一度だけ、仕入れたことがあったな。
俺は確信した。彼女が探している酒が、何なのかを。
「わかりました」俺は静かに言った。「あなたが探しているお酒、心当たりがあります」
メルアの目が、大きく見開かれた。
「本当ですか……!?」
「少々、お待ちください」
俺は、アイテムボックスから一本のボトルを取り出した。
琥珀色の美しい酒。この酒は、俺が前の世界から持ち込んだものではない。この世界に来てから、東の森の、小さな醸造所で、一度だけ、仕入れた酒だった。双樹の酒。この世界の、東の深い森にだけ生える、「双樹」という木から造られる。双樹は、必ず二本、寄り添って生える。まるで、支え合う夫婦のように。そして、片方が枯れると、もう片方も、後を追うように枯れてしまう。その、二本の木から採れる樹液は、片方だけでは、渋くて飲めたものではない。だが、二本の樹液を、合わせて醸すと。不思議なことに、渋みが、深い甘みへと変わる。二つで、初めて完成する。まさに、二人で一つの、愛の結晶のような酒だった。
俺はその酒をグラスに注いだ。琥珀色の液体が、静かにゆれる。
「これではないですか」俺は、そっとグラスを差し出した。
メルアは、震える手でそのグラスを受け取った。そして、香りをかいだ。その瞬間、彼女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……これです」彼女は声を詰まらせた。「この香り。間違いありません。あの夜のお酒です」
彼女はそっと一口飲んだ。そしてしばらく目を閉じて、その味を噛みしめていた。
「……ああ」彼女は深いため息をついた。「思い出します。あの夜のこと。二人とも、まだ若くて。お金もなくて。でも、夢だけはたくさんあった」彼女は微笑んだ。涙を流しながら。だが、それは悲しみの涙ではなかった。「あの人が、このお酒を飲みながら言ったんです。『メルア。俺は、この酒を造った夫婦みたいに、お前と生涯添い遂げる』って」
彼女はグラスを、両手で包んだ。
「……約束、守ってくれました」彼女は幸せそうに言った。「五十年。あの人はずっと、わたしのそばにいてくれた」
【SOMA】――零。良かったな。この人は、悲しみを癒しに来たんじゃない。幸せな記憶を、もう一度抱きしめに来たんだ。そして、それが叶った。
俺は静かに頷いた。そして、もう一つ思いついた。
「メルアさん」俺は言った。「もしよろしければ、何かそのお酒に合う軽いものをお作りしましょうか。あの夜、何か一緒に召し上がりましたか」
メルアは、はっと顔を上げた。
「……そういえば」彼女は記憶をたどった。「あの夜、屋台で買った温かい木の実の菓子を、二人で分けて食べました。それがまた、このお酒によく合って」
俺はノアに、そっと目配せをした。厨房で話を聞いていたノアが、黙って頷く。しばらくして、彼は香ばしい木の実の菓子を焼いて持ってきた。
「……こんな感じか?」ノアは、ぶっきらぼうに皿を置いた。
メルアは、その菓子を一口食べた。そして、また涙ぐんだ。
「ええ……ええ。こんな味でした」彼女は微笑んだ。「まるで、あの夜に戻ったみたい」
メルアは、ゆっくりとその思い出の一杯を味わった。双樹の酒を、少しずつ。木の実の菓子とともに。半世紀前のあの夜を、噛みしめるように。
その姿は、とても幸せそうだった。すぐそばに、亡き夫が寄り添っているかのように。
やがて、彼女はグラスを飲み干した。そして、晴れやかな顔で俺を見た。
「ありがとうございます」彼女は深々と頭を下げた。「もう、思い残すことはありません。……いいえ、違いますね」彼女は笑った。「もう少し生きて。この幸せな記憶を抱いて。前を向いて生きていこうと思います。あの人も、きっとその方を喜びます」
「ええ」俺は微笑んだ。「素敵な生き方だと思います」
メルアは席を立った。その足取りは、来た時よりもずっと軽やかで、若々しかった。
「また来てもいいでしょうか」彼女は扉の前で振り返った。「今度は、悲しむためではなく。ただ、あの人との幸せな思い出を肴に、一杯やりに」
「いつでもお待ちしております」俺は頭を下げた。「あなたの思い出話を肴に。何度でも」
メルアが帰った後。ルナが俺のそばにやってきた。
「おにーさん」彼女は不思議そうに言った。「あのおばあちゃん、泣いてたのに。すごく幸せそうな顔してたね」
「ええ」俺は頷いた。「悲しくて泣いていたんじゃ、ないんですよ」俺は優しく言った。「幸せすぎて、涙が出たんです。……いい思い出は、時々そういう力を持っているんです」
ルナはしばらく考えて、それからこくりと頷いた。
「なんだか、わかる気がする」彼女は言った。「あたしも、お母さんと仲直りした時。嬉しくて泣いちゃったもん」
俺は微笑んだ。この子も少しずつ、人の心の機微をわかるようになってきている。
【SOMA】――零。今日も、いい仕事をしたな。一杯の酒が、半世紀前の幸せな夜を、この店に呼び戻した。お前の情報屋の勘とバーテンダーの腕が、一人の女性の人生の締めくくりを、あたたかいものにした。
俺は内心で頷いた。名前もわからない一杯の酒。だが、その断片からたどり着けた。それは、俺が前の世界で培ってきた力だ。人の話を聞き、断片を繋ぎ、求めるものへとたどり着く。その力を、こうして人の幸せのために使える。これ以上の喜びはなかった。
夜が近づき、店にいつもの賑わいが戻ってきた。
俺はカウンターの中から、その光景を眺めた。今日も様々な人が、それぞれの思いを抱えて扉をくぐる。俺はその一人ひとりに、その人だけの一杯を差し出していく。
時には、痛みを癒す一杯を。時には、勇気を与える一杯を。そして今日のように、幸せな記憶を呼び覚ます一杯を。
一杯の酒には、不思議な力がある。人の心のいちばん深いところに触れる力が。俺はその力を信じている。だからこそ俺は、今日もこのカウンターに立ち続ける。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も誰かの大切な一杯を、静かに待っている。
≪第79話・了≫
次話――メルアの依頼は、俺の心にあたたかいものを残していった。人の記憶と寄り添う一杯。それは、この店の原点だった。そんな折、店の常連である、あの女将軍リーナが、久しぶりに顔を見せる。だが、その隣には、見慣れない若い女性士官の姿が。「店主。今日は、こいつを紹介したくてな」。リーナがめずらしく、目を細めて笑った。




