第78話「地の底の、鼓動」
賑やかな宴から数日が過ぎていた。
だが俺は、あの夜から一つ、気にかかっていることがあった。シロの様子だ。あの地下水脈の揺らぎを感じ取って以来、シロは時折、地下への入口をじっと見つめるようになっていた。何かを警戒するように。あるいは、何かを待つように。
【SOMA】――零。シロの様子、やはりおかしい。あの揺らぎは大事なかったはずだ。だが、まだ何かを感じている。
その夜。店を閉めた後、シロが俺のもとにやってきた。そして地下への扉を、鼻先でそっと示した。まるで「来てくれ」と言うように。
「……何か、あるんですね」俺は静かに言った。「わかりました。行きましょう」
俺はシロとともに地下へ降りた。
第一層の鉱脈の、いちばん奥。あの光る一枚岩の前にたどり着いた。
そして俺は息を呑んだ。
岩の光が変わっていた。
以前は静かに淡く光っているだけだった。だが、今は違う。その光がまるで脈打つように、ゆっくりと強く、弱く、呼吸をするように明滅を繰り返していた。
まるで生きているかのように。
【SOMA】――零。これは……岩の光が鼓動している。生き物の心臓のように。前に見た時とはまるで違う。この岩の奥で、何かが目を覚まそうとしているのかもしれん。
俺はその脈打つ光をじっと見つめた。不穏な、けれどどこか神秘的な光景だった。恐ろしくもあり、美しくもあった。
「シロ」俺は傍らの守護獣に問うた。「これは何だ。危険なのか」
シロはその岩をじっと見つめていた。唸りはしない。だが、その体はわずかに緊張している。シロはゆっくりと首を傾げた。まるで「わからない」と言うように。あるいは「まだ、その時ではない」と。
始まりの守護者であるシロにも、この岩の奥のものが何なのか、はっきりとはわからないようだった。
俺は慎重にその岩に近づいた。そして手をかざしてみる。鑑定の力をそっと向けた。
【SOMA】――零。……ダメだ。読み切れん。前は「星霜鉄の大元」「奥に何かが眠る」まではわかった。だが今は……その眠っていたものが、ゆっくりと動き始めている。それだけは感じる。だが、それが何なのかは、まだ深い霧の向こうだ。
俺は静かに手を下ろした。
焦ってはいけない。この古いものは、力ずくで暴こうとすれば、きっと応えてくれない。俺はそれを知っていた。
その時だった。
背後で小さな光が灯った。
振り返ると、そこにルナが立っていた。眠っていたはずのルナが、夢遊病のようにふらりと地下へ降りてきていた。その目は半分閉じている。まるで何かに引き寄せられるように。
そして彼女の首の星霜鉄の飾りが、あの岩の鼓動と同じリズムで、脈打つように光っていた。
「ルナ……!?」俺は慌てて駆け寄った。「大丈夫ですか。目を覚まして」
ルナはゆっくりと目を開けた。そして不思議そうに辺りを見回した。
「……あれ? あたし、なんで、ここに……?」彼女は寝ぼけた声で言った。「なんだか……呼ばれた気がして」彼女は自分の飾りを見た。「この子があったかくて。ぽかぽかしてて。それで目が覚めて……」
【SOMA】――零。見たか。ルナが岩に呼ばれた。飾りを通して。この二つはやはり深く繋がっている。岩が目覚めかけて、それにルナが共鳴している。
俺はルナの肩をそっと抱いた。
「怖い思いをさせましたね」俺は優しく言った。「もう大丈夫です」
ルナはこくりと頷いた。それから脈打つ岩をじっと見つめた。
「岩さん……なんだか苦しそう」彼女はぽつりと言った。「ううん、苦しいんじゃないのかな。……何か言いたいことがあるみたい。でも、うまく言えなくて。もぞもぞしてる、みたいな」
子どもの素直な感覚。だが、それは案外、核心を突いているのかもしれなかった。この岩は目覚めかけている。何かを伝えようとしている。だが、まだその時ではない。
俺は少し考えた。そして、この古いものと向き合う俺なりのやり方を思い出した。
「ルナ。少し、ここで待っていてください」俺は言った。「この岩に、一杯を捧げてみます」
俺はアイテムボックスから一本の酒を取り出した。
美しい緑色の酒。地の文で俺だけが知っている。アブサン。前の世界のヨーロッパで生まれた酒だ。ニガヨモギをはじめとする様々な薬草から造られる。もとは薬として生まれた酒だった。その鮮やかな緑と神秘的な魅力から「緑の妖精」と呼ばれ、多くの芸術家たちに愛された。だが同時に、幻を見せる魔性の酒として恐れられ、長い間、多くの国で禁じられた。神秘と幻想。魅了と畏怖。その両方を宿した酒だった。この正体の知れない古い岩に捧げるには、ふさわしい一杯だと思った。
俺は小さな器にその緑の酒を注いだ。水を加えると、透明だった緑が白く濁っていく。神秘的な変化だった。
俺はそれを、脈打つ岩の根元にそっと供えた。
「あなたが目覚めようとしているのは、わかりました」俺は静かに語りかけた。「ですが、焦らないでください。俺たちはあなたを急かしません。あなたが話したくなった時に、ゆっくりと話してください。それまで俺たちは、ここで待っています」
すると――岩の鼓動が、少しずつ穏やかになっていった。
脈打つ光がゆっくりと落ち着いていく。まるで俺の言葉が届いたかのように。荒ぶっていた何かが、そっとなだめられたかのように。
ルナの飾りの光も、それに合わせて静かになっていった。
【SOMA】――零。……落ち着いた。お前の一杯が、また、この古いものに届いたんだな。境界の時と同じだ。力ずくでなく敬意を。それがお前の力だ。
やがて岩は、元の静かな淡い光に戻った。供えたアブサンは、いつの間にか消えていた。まるで岩がそれを受け取り、そして落ち着いたかのように。
「岩さん……眠ったみたい」ルナがほっとした顔で言った。「なんだか、さっきより穏やかな感じ」
「ええ」俺は頷いた。「今夜は、これでいいでしょう」
俺はルナを抱き上げて地上へと戻った。シロも静かに後に続く。
その道すがら、俺は考えていた。
あの岩の奥のもの。それが目覚めかけている。今夜は一杯を捧げてなだめることができた。だが、それは一時しのぎに過ぎない。いつか、あれは完全に目を覚ますだろう。その時、何が起こるのか。それが危険なものなのか。あるいは――何か大切なものなのか。
そして、なぜルナがそれに、これほど深く共鳴するのか。
【SOMA】――零。いろいろと動き始めたな。地下の岩。ルナの飾り。すべてが繋がっている。この物語はまだ、俺たちの知らない大きな何かへと向かっている。その予感がする。
俺は内心で深く頷いた。だが今は、まだその時ではない。焦らず見守る。この店を続けながら。日々の一杯を差し出しながら。その来たるべき日を、静かに待つのだ。
翌朝。ルナは昨夜のことを、半分夢のようにしか覚えていなかった。
「なんだか地下で、岩さんとお話しした気がするの」彼女は首をかしげた。「でも、よく覚えてない。夢だったのかな?」
「そうかもしれませんね」俺は微笑んではぐらかした。まだルナに詳しいことを話す時ではない。「でも、その飾りは大事にしてください。きっと、あなたを守ってくれます」
「うん!」ルナはいつものように明るく笑った。飾りは今、静かに淡く光っている。何事もなかったかのように。
俺はカウンターの中から、その無邪気な笑顔を見つめた。この子の中に、そしてこの店の地下に、まだ解き明かされていない大きな謎が眠っている。その謎がいつか明かされる日。それはきっと、この物語のいちばん大切な瞬間になるだろう。
その日まで。俺はこのかけがえのない日常を、一日一日守っていく。
夜が明け、店のいつもの一日が始まる。裏路地の小さなバーは、今日も扉を開ける。地の底で静かに鼓動する謎を抱えながら。
≪第78話・了≫
次話――地下の岩の、かすかな胎動。それは俺の心に、小さな影を落としていた。だが店は、今日も変わらず扉を開ける。そんなある日、一人の女性が訪ねてきた。上品な身なりの、けれどどこか思いつめた表情の客。「こちらでは、どんな酒でも出していただけると伺いました」。彼女が探していたのは、遠い日に亡き夫と分かち合った、思い出の一杯だった。




