第83話「一度きりでは、ない」
ノアの炊き出しの準備は、着々と進んでいた。
ガルダが簡単な竈をこしらえ、アリシアが栄養のある薬草を選び、ヴァルドが道具を運び込む。ノアは毎晩、安くて滋味深い料理の試作に没頭していた。店の誰もが、この新しい試みに心を躍らせていた。
そんな、ある夜のことだった。
店の扉が開き、恰幅のいい男が入ってきた。上等な身なり。太い眉。人を値踏みするような、鋭い目。ただの客ではない、と一目でわかった。
「ここが、ギルド・ゼロか」男は、どっかりとカウンターに座った。「わたしは、グスタフ。料理組合のまとめ役をしている」
【SOMA】――零。料理組合の重鎮か。この街の食堂や料理屋を束ねる組織の幹部だな。何か言いたいことがあって来たようだ。
「まずは、一杯いかがですか」俺は穏やかに尋ねた。
「けっこう」グスタフは、ぴしゃりと断った。「用件だけ、言わせてもらう」彼は俺を睨むように見た。「ギルド・ゼロが、貧しい者にタダで飯を配ると聞いた。……商売の邪魔をしてくれるなよ」
その高圧的な物言いに、厨房から出てきたノアが、むっと眉を寄せた。
「邪魔だと?」ノアが低い声で言った。「困ってる人を助けようっていうのが。なんで邪魔なんだ」
「甘いな、若造」グスタフは鼻で笑った。「タダより怖いものはない。お前たちが無料で飯を配れば、街の食堂には客が来なくなる。……小さな食堂は潰れる。そこで働く者も、路頭に迷う」
ノアが、言葉に詰まった。
【SOMA】――零。なるほど。一理はある。だが……この男の目。単に商売を守りたいだけの目じゃないな。もっと奥に、何か抱えている。
俺はしばらく、グスタフを観察した。そして、静かに口を開いた。
「グスタフさん」俺は言った。「あなたのおっしゃることは、わかります。ですが……本当に伝えたいことは、それだけですか」
グスタフの眉が、ぴくりと動いた。
「……どういう意味だ」
「あなたの目は」俺は言った。「商売敵を追い払いに来た目では、ありません。……もっと深い、何かを憂えている目です」
店に、沈黙が流れた。グスタフはしばらく、俺を睨んでいた。だが、やがて深いため息をついた。
「……食えない男だな、お前は」彼は呟いた。それから、ゆっくりと語り始めた。「二十年前の話だ」
「昔、わたしも若くてな」グスタフは遠い目をした。「今のお前たちと同じことを考えた。貧しい者にタダで飯を配ろう、とな」彼は言った。「組合で金を出し合って、炊き出しを始めた。大勢の貧しい者が集まった。みんな、喜んでくれた。……いい気分だったよ」
彼の顔が、曇った。
「だが、続かなかった」彼は静かに言った。「金が尽きた。組合の面々も、だんだん熱が冷めていった。そして、一年ほどで……炊き出しはやめてしまった」彼は拳を握った。「その時、どうなったか、わかるか」
俺は静かに首を振った。
「炊き出しをあてにしていた者たちが」グスタフの声が震えた。「行き場を失った。中には……働く気力すら、なくしてしまった者もいた。『どうせ、また誰かが恵んでくれる』とな」彼はうつむいた。「わたしたちの中途半端な善意が、かえってあの者たちを駄目にしてしまった。……あの時の彼らの顔が、今でも忘れられん」
【SOMA】――零。そういうことか。この男の横やりは、悪意じゃない。……過去の後悔から来ているんだ。
店に、重い沈黙が落ちた。
「だから、わたしは」グスタフは顔を上げた。「安易な善意が嫌いだ。一時の自己満足で、人を助けた気になる。だが、その後始末を考えない。……そういうのは、かえって人を不幸にする」彼は俺とノアを見た。「お前たちの炊き出しも、どうせ長くは続くまい。だったら、最初からやらない方がいい。……それが、わたしの忠告だ」
ノアが、何か言おうとした。だが、その顔には、もうさっきの怒りはなかった。グスタフの言葉の重さを、受け止めていた。
俺はしばらく考えた。それから、静かに口を開いた。
「グスタフさん。教えてくださって、ありがとうございます」俺は頭を下げた。「あなたの後悔は、とても大切な教訓です」俺は続けた。「ですが……だからこそ、俺たちは続けます。あなたが続けられなかった、その先を」
グスタフが、俺を見た。
俺は棚の奥から、一本の酒を取り出した。
深い琥珀色の酒。この酒は、俺がこの世界に来てから出会ったものだ。千古樹の酒。この世界の、深い山の奥にひっそりと生きる、「千古樹」という古木から造られる。千古樹は、何百年もの時をかけて、ゆっくりと育つ。幹は、大人が何人手を繋いでも囲めないほど太い。そして、その木は百年に一度だけ、小さな実を結ぶ。その実を、じっくりと寝かせて造るのが、この酒だ。
俺は、その酒をグラスに注いだ。とろりとした琥珀色の液体が、静かに揺れる。ほんの少し口に含むと、まず、熟した果実のような深い甘みが広がる。だが、それだけではない。その奥に、何百年もの大地の記憶が染み込んだような、複雑な滋味が追いかけてくる。土の香りと、苔むした森の静けさのような、深い味わいだ。飲み込んだ後も、その深い余韻が、長く長く続いた。一朝一夕には、決して生まれない。長い時が育てた味だった。
「この酒は」俺は言った。「百年に一度だけ実を結ぶ、古木から造られます。気の遠くなるような時間をかけて。少しずつ、少しずつ。……一朝一夕には、決して生まれない味です」
グスタフが、その酒をじっと見つめた。
「善意も、同じだと俺は思います」俺は言った。「一度きりの施しなら。それは、あなたの言う通り。かえって人を傷つけるかもしれません」俺は彼の目を見た。「ですが。長く続けること。根を張ること。それができたなら」俺は続けた。「それは、この古木のように、人々の暮らしに根を下ろし、……本当の支えになれるはずです」
グスタフは、黙って聞いていた。
「約束します」俺は、はっきりと言った。「俺たちの炊き出しは、一度きりではありません」俺は言った。「ギルド・ゼロには、鉄を打つ仕事も、薬を作る仕事もあります。……そこで得た力を、この炊き出しに注ぎ続けます。熱が冷めてやめる、なんてことはしません」
ノアも、力強く頷いた。
「俺は料理人だ」ノアが言った。「料理を作るのをやめることは、俺が俺でなくなることだ。……だから続ける。何年でも。何十年でも」
グスタフはしばらく、二人を見つめていた。それから、ふっと、その厳しい表情が緩んだ。
「……本気の目だな」彼は呟いた。「若い頃のわたしとは、少し違う」彼は、俺が注いだ千古樹の酒を手に取った。そして、一口飲んだ。
その目が、見開かれた。
「……深い味だ」彼はしみじみと言った。「長い時が育てた味。……なるほど。一朝一夕では生まれん、な」
彼はグラスを置いた。そして、俺とノアをまっすぐに見た。
「わかった」グスタフは言った。「お前たちが本気なら、……わたしも力を貸そう」
その言葉に、ノアが目を丸くした。
「組合には、長年の知恵がある」グスタフは続けた。「どうすれば続けられるか。どうすれば、人を駄目にせず支えられるか。……そのノウハウなら、わたしが教えてやれる」彼は、少しだけ笑った。「わたしのあの苦い経験を、今度こそ役立てる時が来た、ということだ」
【SOMA】――零。いい着地だな。この男の二十年の後悔が、ようやく報われる。お前たちの本気が、過去に囚われたこの男の心を動かしたんだ。
俺は内心で頷いた。グスタフは敵ではなかった。ただ、深い後悔を抱えた、一人の先達だった。その痛みに寄り添い、同じ志を確かめ合えたなら。彼は、これ以上ない、心強い味方だった。
「ありがとうございます、グスタフさん」ノアが、深々と頭を下げた。「あなたの知恵を、貸してください。……俺たちだけじゃ、きっとあなたと同じ失敗をしていた」
「わかればいい」グスタフは、ぶっきらぼうに言った。だが、その顔は、どこか晴れやかだった。長年抱えてきた重荷を、ようやく下ろせたかのように。
その夜、グスタフは遅くまで店に残った。ノアと二人で、どうすれば炊き出しを長く続けられるか。夜が更けるまで、熱心に語り合っていた。二人の間にあった最初の壁は、もうどこにもなかった。
俺は、カウンターの中から、その光景を眺めた。
料理組合と、ギルド・ゼロ。対立するかに見えた二つが、今、同じ志のもとに手を結ぼうとしている。それは、力でねじ伏せた勝利ではない。互いの痛みを理解し、認め合った末の結びつきだった。
そばで、ルナがうとうとしながらも、二人の話を聞いていた。
「おにーさん」彼女が眠そうに言った。「あのおじさん、こわい人かと思ったけど。……優しい人だったんだね」
「ええ」俺は微笑んだ。「本当に優しい人ほど、時々、厳しいことを言うんですよ」俺は言った。「その厳しさの奥に、深い優しさが隠れているんです」
ルナは、こくりと頷いて。それから、安心したように目を閉じた。
夜が更けていく。裏路地の小さなバーは、今夜も、一つの新しい絆を育んだ。百年かけて実を結ぶ、あの古木のように。ゆっくりと。だが、確かに。人と人とを繋ぎながら。
≪第83話・了≫
次話――グスタフの協力を得て、ノアの炊き出しは、確かな一歩を踏み出した。組合の知恵と、ギルドの力。二つが合わさり、その計画は、少しずつ形になっていく。そんな中、俺は久しぶりに、月に一度のあの場所への扉を開けることにした。二つの世界を繋ぐ、ゲート。前の世界、東京・銀座への、静かな買い出しの時間だった。




