第74話「蜜の月」
セレネが、声を取り戻して、数日が過ぎた頃だった。
店に、一人の、老人が、訪ねてきた。白い、豊かな髭。穏やかな、けれど、深い皺の刻まれた顔。手には、古びた、小さな包みを、大事そうに、抱えている。
「ここが、あの、ギルド・ゼロかね」老人は、柔らかな声で言った。「わしは、ハーゲン。セレネの、歌の師を、務めていた者だ」
【SOMA】――零。セレネの、師匠か。引退した、老いた楽師のようだな。穏やかな、いい気配だ。
「あの子を、救ってくれた礼が、言いたくてな」ハーゲンは、深々と、頭を下げた。「あの子が、また、歌えるように、なったと。泣きながら、報せに来てくれた。……このとおり、感謝する」
「顔を上げてください」俺は、慌てて言った。「セレネさんが、自分の力で、乗り越えたんです。俺は、少し、背中を、押しただけで」
「その、背中を押すことが、いちばん、難しいのだよ」ハーゲンは、微笑んだ。そして、抱えていた包みを、開いた。中から、古びた、けれど、手入れの行き届いた、小さな笛が、現れた。「これは、わしが、長年、使ってきた笛だ。もう、わしの指も、鈍った。この店で、役立ててくれたら、嬉しい」
俺は、その笛を、丁寧に、受け取った。楽器のことは、詳しくないが、大切に、使われてきたことは、伝わってくる。
「ありがたく、頂戴します」俺は言った。「まずは、一杯、いかがですか。長旅で、お疲れでしょう」
「では、遠慮なく」ハーゲンは、カウンターに、腰を下ろした。
その時、彼の顔が、ふと、綻んだ。何か、嬉しいことを、思い出したような、そんな、表情だった。
「実はな」彼は言った。「今日は、もう一つ、めでたい報告も、あるのだよ」彼は、目を細めた。「わしの、孫娘が、来月、嫁ぐことに、なってな。長年、連れ添った妻を、先に亡くして。気がかりだった、あの子の、花嫁姿を、見られる。……これほど、嬉しいことは、ない」
【SOMA】――零。おお、それは、めでたいな。この老人の、幸せそうな顔。孫娘の、婚礼か。
「それは、おめでとうございます」俺は、心から、言った。
「だが、一つ、困っていてな」ハーゲンは、少し、照れくさそうに、頭を掻いた。「婚礼の宴で、何か、特別なものを、孫に、贈ってやりたいのだ。だが、わしは、貧しい、老楽師。大したものは、用意できん」彼は、俺を見た。「この店なら、何か、いい知恵を、貸してくれるんじゃ、ないかと、思ってな」
俺は、しばらく、考えた。それから、一つの、考えが、浮かんだ。
「ハーゲンさん」俺は言った。「高価なものだけが、贈り物では、ありません。……少し、お待ちください。お見せしたいものが、あります」
俺は、棚の、奥から、一本の、古い酒を、取り出した。
黄金色の、とろりとした酒。地の文で、俺だけが知っている。ミード。蜂蜜から造られる、酒だ。この酒は、実は、人類が、最初に、出会った酒だと、言われている。ワインより、ビールより、ずっと、古い。その始まりは、偶然だった。割れた蜂の巣に、雨水が溜まり、蜂蜜と混ざって、自然に、発酵した。それを、口にした狩人が、その、心地よさに、驚いた。まさに、自然からの、贈り物のような、酒だった。
そして、この酒には、もう一つ、素敵な、言い伝えがある。
俺は、そのミードを、グラスに注ぎ、ハーゲンの前に、置いた。とろりとした、黄金色。蜂蜜の、優しい甘い香りが、ふわりと、立ち上る。
「これは、蜂蜜から造る、酒です」俺は言った。「人が、いちばん最初に、出会った酒だと、言われています。とても、古い、酒です」
ハーゲンが、一口、含んだ。その目が、驚きに、見開かれる。
「……甘い。優しい味だ」彼は、しみじみと言った。「まるで、蜜そのものを、飲んでいるようだ」
「この酒には」俺は、続けた。「昔から、婚礼に、まつわる、言い伝えが、あるのです」俺は、微笑んだ。「その昔、結婚した、若い二人は、婚礼のあと、ひと月の間、この蜂蜜の酒を、飲んで、過ごしたそうです。蜂蜜には、力が、宿ると、信じられていた。そして、蜂は、たくさんの、子をなす。だから、家が、栄えるように、子宝に、恵まれるように、と。願いを、込めて」
ハーゲンの、目が、輝いた。
「その、蜂蜜の、ひと月を」俺は言った。「『蜜の月』と、呼びました。……新しい夫婦の、幸せの、始まりを、祝う、酒なのです」
「なんと……」ハーゲンは、感嘆した。「そんな、言い伝えが。まさに、婚礼に、ふさわしい酒では、ないか」
「ええ」俺は、頷いた。「ハーゲンさん。この酒を、孫娘さんの、婚礼に、贈られては、いかがですか」俺は言った。「高価な宝石より、ずっと、心のこもった、贈り物に、なります。『末永く、幸せに』という、いちばん古くて、いちばん、温かい、願いを、込めて」
ハーゲンの、目に、涙が、滲んだ。
「……そうだな」彼は、震える声で言った。「金は、ないが。孫の、幸せを、願う気持ちだけは、誰にも、負けん」彼は、俺を見た。「この酒を、譲って、もらえるかね。いや、それだけじゃ、ない。……この店の、みなに、頼みが、ある」
彼は、意を決したように、言った。
「もし、迷惑でなければ。孫の、婚礼の宴を……この店で、開かせて、もらえないだろうか」
【SOMA】――零。おお、婚礼の宴を、この店で。いいじゃないか。この店は、いつも、誰かの、人生の、節目に、寄り添ってきた。門出を、祝うのも、悪くない。
俺は、少し、考えた。それから、微笑んで、頷いた。
「もちろんです」俺は言った。「喜んで、お引き受けします。この店は、いろんな人の、いろんな夜に、寄り添ってきました。……新しい門出を、祝えるなら、これほど、光栄なことは、ありません」
その言葉を、聞いていた、住人たちが、次々と、集まってきた。
「婚礼! いいねえ」ガルダが、腕まくりをした。「あたしは、二人に、何か、記念の品を、打ってやるよ。星霜鉄で、小さな、お守りでも」
「料理は、任せろ」ノアが、ぶっきらぼうに、言った。だが、その目は、いつになく、張り切っている。「婚礼の宴だ。腕によりを、かける」
「わたしは、会場を、飾る、魔法を」アリシアも、微笑んだ。「花を、美しく、咲かせましょう」
「あたし、あたし!」ルナが、飛び跳ねた。「あたし、お花を、まくの、やりたい!」
ハーゲンは、その、温かな光景に、言葉を、失っていた。そして、深く、頭を下げた。
「……ありがとう。ありがとう」彼は、涙を、こぼした。「妻が、生きていたら、どんなに、喜んだか」
その夜、店は、来たる婚礼の相談で、賑やかな、団欒に、包まれた。
ノアが、試作だと言って、蜂蜜を使った、菓子を、振る舞った。ミードに、合わせたのだろう。蜂蜜の、優しい甘さと、香ばしい木の実が、絶妙に、絡み合っている。
「婚礼の宴にも、これを、出すか」ノアが、呟いた。「甘いものは、祝いの席に、つきものだからな」
「おいしい!」ルナが、頬張って、笑った。「結婚式、楽しみだね!」
ヴァルドは、静かに、笑みを浮かべていた。ガルダは、早速、どんなお守りを打つか、思案している。アリシアと、メイザは、会場を彩る、花の相談を、始めていた。
ハーゲンは、その光景を、幸せそうに、眺めていた。
「不思議な、店だな」彼は、しみじみと言った。「見ず知らずの、老いぼれの、孫の婚礼を。まるで、我がことのように、喜んでくれる」
「この店に、集まる人は、みんな、そうなんです」俺は、微笑んだ。「誰かの、喜びを、自分の喜びのように、感じられる。それが、うちの、いちばんの、宝です」
夜が更け、ハーゲンが、笛の音を、一つ、聞かせてくれた。
もう指は鈍った、と言いながら。その音色は、優しく、温かく、店の中に、静かに、響いた。まるで、これから訪れる、幸せな門出を、祝福するかのように。
俺は、カウンターの中から、その音に、耳を澄ませた。
【SOMA】――零。いい音だ。この店に、また一つ、新しい物語が、始まろうとしているな。今度は、悲しみでも、痛みでもない。……ただ、まっすぐな、祝福の、物語だ。
俺は、内心で、頷いた。これまで、この店には、様々な人が、様々な、痛みを抱えて、やってきた。俺は、その一つひとつに、一杯の酒で、寄り添ってきた。だが、今度は、違う。喜びに、寄り添うのだ。人生の、いちばん、輝かしい瞬間に。
一杯の、蜂蜜の酒とともに。
ルナが、眠そうに、しながらも、婚礼のことを考えて、にこにこ、していた。彼女の首の、星霜鉄の飾りが、笛の音に、合わせるように、淡く、光っている。
夜が、更けていく。裏路地の、小さなバーは、今、新しい門出の、準備に、沸いていた。人類が、最初に出会った、いちばん古い酒とともに。いちばん古くて、いちばん新しい、幸せの、始まりを、祝うために。
≪第74話・了≫
次話――ハーゲンの孫娘の、婚礼の日が、近づいてきた。店は、かつてない、華やかな準備に、追われる。ガルダの打つ、星霜鉄のお守り。ノアの、腕によりをかけた祝いの料理。アリシアの、花の魔法。そして、俺の、蜂蜜の酒。裏路地の小さなバーで開かれる、ささやかで、けれど、この上なく、温かな婚礼。それは、思いがけない、感動の一日に、なろうとしていた。




