第73話「もう一度、歌えたら」
その夜、雨が、静かに、降っていた。
こんな夜は、客足が、遠のく。俺が、静かな店で、グラスを磨いていると、扉が、おずおずと、開いた。
入ってきたのは、若い女だった。上等な、けれど、どこか、やつれた身なり。フードを、目深に、かぶっている。その佇まいには、隠しきれない、気品と、そして、深い、憂いが、あった。
【SOMA】――零。この女、ただ者じゃない。所作が、洗練されている。人前に、立つことに、慣れた人間だ。だが、今は……ひどく、憔悴している。
女は、カウンターに、座った。そして、消え入りそうな、声で、言った。
「お願いします……わたしの、声を、取り戻してください」
俺は、まず、彼女の前に、温かい飲み物を、置いた。
「まずは、これを。温まってから、ゆっくり、お話を」
女は、両手で、それを包み、一口、飲んだ。少し、落ち着いたようだった。彼女は、フードを、外した。美しい、だが、疲れ切った顔が、現れる。
「わたしは、セレネと、申します」彼女は、名乗った。「以前は……歌を、歌って、おりました」
【SOMA】――零。セレネ。知っているぞ。「銀の歌姫」と、謳われた、王都一の、歌い手だ。その歌声は、聴く者の、魂を、震わせると。だが、半年前、突然、舞台から、姿を消した。
「ある日、突然」セレネは、俯いた。「声が、出なくなったのです。歌おうとすると、喉が、締めつけられて。一音も、出せない」彼女の目に、涙が、滲んだ。「医者にも、診てもらいました。でも、喉に、異常は、ないと。原因が、わからないのです」
俺は、しばらく、彼女を、見ていた。
「アリシアさん。メイザさん」俺は、二階の作業場へ、ルナを、呼びに行かせた。しばらくして、二人が、降りてきた。
セレネの喉を、メイザが、丁寧に、診た。魔法師のアリシアも、彼女の体に流れる、魔力を、そっと、探る。
「……体には、どこも、悪いところは、ないね」メイザが、言った。「喉も、きれいなものだ。声が、出ない理由は、体には、ない」
「魔力の乱れも、ありません」アリシアも、頷いた。「セレネさん。あなたの声が出ないのは……おそらく、心の問題です」
セレネの、肩が、震えた。
【SOMA】――零。図星、だな。この女、心当たりが、あるんだ。声を失った、本当の理由に。
俺は、静かに、口を開いた。
「セレネさん」俺は言った。「差し支えなければ、聞かせてください。あなたが、最後に、歌ったのは、どんな時でしたか」
セレネは、長い間、黙っていた。それから、ぽつり、ぽつりと、話し始めた。
「……最後に歌ったのは、母の、葬儀でした」彼女の声は、震えていた。「母は、わたしに、歌を、教えてくれた人でした。貧しい暮らしの中で、母だけが、わたしの歌を、信じてくれた」彼女は、涙を、こぼした。「わたしが、歌姫と、呼ばれるように、なった時。母は、病で、寝込んでいました。わたしは、忙しさにかまけて……母の、最期に、間に合わなかった」
彼女は、両手で、顔を、覆った。
「葬儀で、わたしは、母のために、歌いました。母が、いちばん、好きだった歌を」彼女は言った。「でも、歌いながら、思ったんです。わたしは、歌のために、母を、犠牲にしたんじゃ、ないかって。母の、最期よりも、舞台を、選んだんじゃ、ないかって」彼女の声が、詰まった。「その日から……歌おうとすると、母の顔が、浮かんで。喉が、締めつけられて。歌えなく、なったんです」
【SOMA】――零。そういうことか。この女は、自分を、罰しているんだ。歌うことに、罪悪感を、抱いている。歌が、母を、奪ったと。だから、無意識に、自分の声を、封じている。
俺は、しばらく、考えた。それから、棚から、一本のボトルを、取り出した。
琥珀色の、深い色合いの酒。地の文で、俺だけが知っている。マデイラ。前の世界の、大西洋に浮かぶ、小さな島で造られる、酒精強化ワインだ。この酒には、面白い、逸話がある。
その昔、大航海時代。このワインは、樽に積まれて、船で、遠い大陸へと、運ばれた。長い航海の途中、船は、灼熱の、赤道を、越える。ワインは、熱に、さらされ、揺られ続けた。本来、熱は、ワインの、敵だ。運ぶ者は、きっと、ワインが、駄目になった、と思っただろう。
だが、目的地で、樽を開けると。ワインは、駄目になるどころか、より、深く、豊かな味わいに、変わっていたのだ。
俺は、グラスに注ぎ、セレネの前に、置いた。
「これは、遠い島の、酒です」俺は言った。「その昔、船で、遠い国へ、運ばれる途中。灼熱の海を、越えて、熱に、さらされ続けました。熱は、ワインには、本来、害となるものです。運ぶ者は、駄目になったと、思ったでしょう」
セレネが、そのグラスを、じっと、見た。
「ですが」俺は、続けた。「駄目になるどころか。その、過酷な試練を、くぐり抜けたワインは、より、深く、豊かな味に、なっていたのです」
セレネは、そっと、グラスに、口をつけた。その目が、わずかに、見開かれる。
「……深い、味」彼女は、呟いた。「甘くて、でも、少し、ほろ苦くて。……悲しいのに、あたたかい」
「試練が、この味を、生んだのです」俺は、言った。「セレネさん。あなたの、その、悲しみも。お母さんを、失った、その痛みも。決して、無駄には、なりません」
俺は、彼女の目を、まっすぐに見た。
「あなたは、歌のために、お母さんを、犠牲にしたのでは、ありません」俺は、静かに言った。「お母さんは、あなたの歌を、誰よりも、信じていた。あなたが、歌い続けることこそ、お母さんの、望みだったはずです」
セレネの、目から、涙が、あふれた。
「あなたが、歌えなくなったのは」俺は、続けた。「お母さんを、忘れられないから、ではありません。お母さんを、深く、愛しているから、です」俺は言った。「その愛を、罪悪感で、封じ込めるのは、もう、やめませんか。……その悲しみごと、歌に、してあげてください。あなたの声は、その試練を、くぐり抜けて、きっと、前より、深く、人の心に、届くものに、なります。このワインの、ように」
セレネは、しばらく、声を殺して、泣いていた。
そして、涙を、ぬぐうと、彼女は、そっと、口を、開いた。
かすれた、小さな声だった。だが、それは、確かに、歌だった。母が、好きだったという、優しい、子守唄のような、旋律。半年間、封じられていた声が、少しずつ、糸のように、紡がれていく。
震えながら。時々、詰まりながら。それでも、セレネは、歌った。母への、想いを、込めて。
【SOMA】――零。……歌ってる。声が、戻ってきた。まだ、かすれているが。この歌には、確かに、魂が、宿っている。
セレネが、歌い終えると。店の中に、静かな、余韻が、残った。
「……歌えた」彼女は、自分の、喉に、手を当てて、呆然と、呟いた。「歌えました……! 半年ぶりに……!」
彼女の顔に、これまでなかった、晴れやかな、笑顔が、広がった。
「まだ、本調子では、ないでしょう」俺は、微笑んだ。「でも、大丈夫です。あなたの声は、封じられていただけ。失われては、いなかった。少しずつ、取り戻していけば、いい」
「ありがとう、ございます」セレネは、深々と、頭を下げた。「あなたが、わたしの、心の、締めつけを、ほどいてくれた。……このご恩は、一生、忘れません」
その時、店の隅で、静かに聞いていた、ルナが、ぱちぱちと、手を叩いた。
「おねえちゃん、すごい! お歌、きれいだった!」
セレネが、ルナを見て、優しく、微笑んだ。純粋な、子どもの賞賛が、彼女の心を、さらに、温めたようだった。
その夜、店は、ささやかな、団欒に、包まれた。
ノアが、そっと、皿を運んできた。喉に、優しい、温かい、はちみつと、生姜の、飲み物と。柔らかく煮た、白い果実の、デザートだ。
「……喉を、使ったんだろう」ノアは、ぶっきらぼうに言った。「これで、労わってやれ」
セレネは、その、優しい心遣いに、また、涙ぐんだ。
「この店の方々は、みんな……本当に、優しい」
「いいえ」俺は、微笑んだ。「あなたが、もう一度、歌おうと、思えた。その、あなた自身の、強さです」
アリシアと、メイザは、セレネに、喉を労わる、薬草茶の、作り方を、教えていた。ヴァルドは、静かに、その光景を、見守っている。ガルダも、いつの間にか、地下から、上がってきて、珍しく、耳を澄ませていた。
「久しぶりに、いい歌を、聞いたよ」ガルダが、ぶっきらぼうに、言った。「鉄を打つ音とは、また、違う、いい響きだ」
夜が更け、セレネが、帰り支度を、始めた。
「また、来ても、いいでしょうか」彼女は、尋ねた。「今度は……お客として。もう一度、歌が、歌えるように、なったら。この店で、みなさんに、聞いてほしいのです」
「ええ、ぜひ」俺は、頷いた。「あなたの、完全に、取り戻した歌声を。楽しみに、しています」
セレネは、晴れやかな顔で、雨上がりの、街へと、帰っていった。その足取りは、来た時とは、まるで、違って、軽やかだった。
俺は、カウンターの中から、その背中を、見送った。
【SOMA】――零。また一人、この店で、心の重荷を、下ろしていったな。声を、失った歌姫が。歌を、取り戻して。
俺は、内心で、頷いた。試練を、くぐり抜けて、より深くなる、あのワインのように。人もまた、悲しみを、乗り越えて、より深く、豊かに、なっていく。セレネの歌声は、これから、きっと、以前よりも、多くの人の、心に、届くだろう。母への想いを、込めて。
ルナが、眠そうに、目をこすりながら、言った。
「おねえちゃんの、お歌。また、聞きたいな」
「ええ。きっと、また、聞けますよ」俺は、微笑んだ。「次は、もっと、素敵な歌を」
雨は、いつの間にか、上がっていた。夜空に、うっすらと、月が、顔を、出している。ルナの首の、星霜鉄の飾りが、その月光を受けて、静かに、光っていた。
夜が、更けていく。裏路地の、小さなバーは、今夜も、一人の、傷ついた心を、そっと、癒やしていた。一杯の酒と、静かな、言葉で。
≪第73話・了≫
次話――声を取り戻したセレネの噂は、静かに、広がっていく。「あの、銀の歌姫が、裏路地のギルドで、復活した」と。そんな折、店に、一人の老人が、訪ねてきた。かつて、セレネの、歌の師であり、今は、引退した、老楽師。「あの子を、救ってくれた礼が、言いたくてな」。老人は、そう言って、古びた、一つの楽器を、取り出した。




