第70話「頂の、孤独」
北部への防具の働きは、静かに、そして確かに、広がっていた。
リーナ将軍を通じて、その評判は、王都の中枢へ。そして、さらに、その上へと、伝わっていったらしい。ギルド・ゼロの名は、いつしか、この国の、頂にまで、届いていた。
その夜は、しんしんと、冷える夜だった。
閉店間際。客も引けた店に、二人の男が、入ってきた。一人は、屈強な、護衛と思しき男。もう一人は、深く、フードを被った、初老の男だった。物腰は、静か。だが、その佇まいには、隠しきれない、気品があった。
【SOMA】――零。気をつけろ。ただ者じゃない。この威、この気配……国の、最上位の人間だ。
フードの男が、カウンターに、腰を下ろした。入口では、ヴァルドが、いつになく、鋭い眼光で、護衛の男と、静かに、視線を交わしている。ただの客ではないと、ヴァルドも、察していた。
やがて、フードの男が、静かに、フードを、外した。
その顔を見て、俺は、息を呑んだ。王都の広場に、肖像が掲げられている顔。硬貨に、刻まれている顔。この国の、頂に立つ人。
国王だった。
俺は、動揺を、表には出さなかった。長年の、情報屋の習性だ。俺は、静かに、頭を下げた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
「……驚かないのだな」国王は、意外そうに、目を細めた。「わしの顔を見て、たいていの者は、腰を抜かすか、平伏するのだが」
「ここは、バーですから」俺は言った。「どんな方も、扉をくぐれば、一人の、お客様です。それ以上でも、それ以下でも、ありません」
国王は、しばらく、俺を見つめた。そして、ふっと、口元を、緩めた。
「……なるほど。リーナや、クレスタが、口を揃えて、褒めるわけだ」彼は言った。「あの、気位の高い盾将が、『あの店では、ただの一人の客になれる』と言った。あのクレスタが、『体温のある店だ』と言った。半信半疑で、来てみたが」
彼は、店の中を、ゆっくりと、見回した。
「まことに、その通りだ」
【SOMA】――零。国王が、忍びで、供も最小限で、ここに来た。よほど、この店に、興味を持ったか。あるいは――何かに、疲れているのかもしれん。
「まず、一杯、いかがですか」俺は、尋ねた。「お疲れの、ように、お見受けします」
「……わかるか」国王は、苦笑した。「さすが、だな」
俺は、棚の、いちばん奥から、特別な一本を、取り出した。
深い、琥珀色の酒。地の文で、俺だけが知っている。ルイ13世。前の世界の、フランスで造られる、コニャックの、最高峰だ。一つのボトルを満たすために、数十年から、百年近く熟成させた、無数の原酒を、ブレンドする。造り手は、自分が生きているうちには、完成を見られない。何世代もの職人が、時を超えて、受け継ぎ、造り上げる。まさに、王のための酒、と称される、一杯だった。
俺は、ごく少量を、美しいグラスに注いだ。芳醇で、複雑な香りが、静かに、立ち上る。
「これは、遠い国で、最も高貴とされる酒の一つです」俺は言った。「一本を造るのに、数十年、時には、百年近く、かかります。造り始めた職人は、その完成を、自分の目では、見られない。何世代もの人が、時を超えて、受け継いで、造り上げるのです」
国王は、グラスを手に取り、その香りを、深く、吸い込んだ。そして、一口、含んだ。
「……見事だ」彼は、深く、息を吐いた。「これほどのものは、王宮の、どんな宴でも、味わったことがない」
「陛下」俺は、静かに、切り出した。「差し出がましいようですが。今宵は、何か、お一人になりたくて、いらしたのでは、ありませんか」
国王の、グラスを持つ手が、止まった。
「……なぜ、そう思う」
「頂に立つ方ほど、本音を、話せる相手が、少ないものです」俺は言った。前の世界で、幾人もの、そういう人間を、見てきた。政界の、財界の、頂点に立つ者たち。彼らは、みな、一様に、孤独だった。「王宮では、あなたは、常に、国王でなければ、ならない。弱音も、迷いも、見せられない。……お疲れに、なりますでしょう」
国王は、しばらく、黙っていた。それから、ぽつり、と言った。
「……この国を、四十年、背負ってきた」彼の声は、静かだった。「決して、間違えられぬ。わし一人の判断で、万の民の、命運が、決まる。誰にも、弱さを、見せられぬ」彼は、グラスを見つめた。「時々、な。ただの、一人の老人に、戻りたく、なる」
「今宵は、戻ってください」俺は言った。「ここでは、あなたは、国王ではありません。ただ、一杯の酒を、楽しみに来た、一人の客です」
国王の目が、わずかに、潤んだように、見えた。
その時、厨房から、ノアが、皿を運んできた。
湯気の立つ、素朴な、けれど、滋味深い一皿だった。根菜と、肉を、時間をかけて煮込んだ、優しい味の、スープ煮だ。飾り気は、ない。だが、体の芯から、温まる、家庭的な、温かさがあった。
「……こんな夜は、これだ」ノアは、ぶっきらぼうに言って、皿を、置いた。相手が誰か、気づいているのか、いないのか。その態度は、いつもと、まるで、変わらなかった。
国王は、その、飾らない一皿を、じっと見た。それから、一口、口に運ぶ。
「……ああ」彼は、しみじみと、言った。「懐かしい、味だ。まだ、王になる前。母が、作ってくれた、あの味に、似ている」彼の声が、震えた。「王宮の料理人は、豪華なものは、作る。だが、こういう、母の味は、作れぬ」
ノアは、何も言わず、背を向けた。だが、その耳は、少しだけ、赤かった。
夜が更けるまで、国王は、店で過ごした。
いつの間にか、シロが、国王の足元に、そっと、寄り添っていた。この、もふもふとした守護獣は、不思議と、深く疲れた者の、そばに寄る。国王は、その柔らかな毛並みを、そっと撫でて、目を細めた。
「……あたたかいな」
ルナが、おずおずと、近づいて、星霜鉄の飾りを、見せた。
「おじいちゃん、これ、見て。きれいでしょ」
護衛の男が、慌てて、止めようとした。だが、国王は、それを、手で制した。
「ほう」彼は、目を細めて、その飾りを、見た。「……美しいな。星の、かけらのようだ」彼は、優しく、ルナに、微笑んだ。「お嬢さん。大事に、しなさい。こういう、心のこもったものは、どんな、王宮の宝より、価値がある」
「うん!」ルナは、嬉しそうに、頷いた。
その、無邪気なやり取りに、国王の顔から、王としての、重い仮面が、すっかり、剥がれ落ちていた。そこにいたのは、ただ、一人の、優しい老人だった。
【SOMA】――零。見ろ。あの、疲れ切っていた顔が。今は、穏やかだ。この店は、国王の、張り詰めた心さえ、ほどいてしまうんだな。
帰り際、国王は、俺に、言った。
「店主。今宵は、久方ぶりに、心が、休まった」彼は、穏やかに言った。「礼を言うぞ。それと……北部の兵への、あの防具。あれは、見事だった。多くの、若い命が、救われるだろう」
「もったいない、お言葉です」俺は、頭を下げた。
「一つ、聞かせてくれ」国王は、扉の前で、振り返った。「お前は、なぜ、権力を、求めぬ。その気になれば、わしに取り入り、いくらでも、地位を、得られように」
俺は、少し、考えてから、答えた。
「俺は、この、カウンターの内側から、見える景色が、いちばん、好きなんです」俺は言った。「人が、疲れた顔で、扉を開けて。一杯、飲んで。少し、笑って、帰っていく。その姿を、見られれば、それで、十分なんです」
国王は、しばらく、俺を見つめた。それから、深く、頷いた。
「……お前のような男が、この国に、いてくれて、よかった」彼は、静かに言った。「また、来る。一人の、客として、な」
「お待ちしております」俺は、頭を下げた。
国王は、フードを被り、静かに、夜の街へと、消えていった。
扉が閉まり、店に、静けさが、戻った。
ルナが、きょとんとした顔で、俺を見た。
「おにーさん。今の、おじいちゃん、誰?」
「……とても、偉い方ですよ」俺は、微笑んだ。「でも、ここでは、ただの、優しいおじいちゃん、でしたね」
「うん! やさしかった!」ルナは、にっこり、笑った。
俺は、カウンターの中から、静かに、扉を見つめた。国の、頂に立つ人が、この、裏路地の、小さな店で、一人の老人に、戻っていった。それは、俺にとって、何よりの、誇りだった。地位でも、権力でも、ない。ただ、人の心を、ほどく、一杯の酒。それが、この店の、力だった。
【SOMA】――零。とうとう、この国の頂まで、お前の店の名が、届いたな。だが、お前は、変わらない。国王が来ても、いつもと、同じ、一杯を出す。それが、お前だ。
俺は、内心で、頷いた。相手が、誰であろうと。この店は、変わらない。扉を開けた人に、その人に、合った、一杯を。それだけを、静かに、続けていく。
夜が、更けていく。裏路地の、小さなバーは、今夜も、確かな温もりを、灯していた。国の頂の、孤独さえも、そっと、包み込みながら。
≪第70話・了≫
次話――国王の来訪は、ギルド・ゼロに、新たな意味を、もたらした。この国の頂が、認めた店。その事実は、やがて、思わぬ余波を、呼ぶことになる。だが、それは、まだ少し、先の話。




