第66話「盾将の願い」
その女性は、凛とした佇まいで、店に入ってきた。
背筋の伸びた立ち姿。鍛え抜かれた体。だが、その目には、静かな優しさがある。忘れるはずもない、見慣れた顔だった。
【SOMA】――零。リーナ・クロード将軍だ。久しぶりの来店だな。北部の防衛が、忙しかったんだろう。
「久しぶりだな、店主」リーナは、カウンターに腰を下ろした。「今日は、客としてではなく、頼みがあって来た」
「お久しぶりです、将軍」俺は、頭を下げた。かつて、部下を亡くした夜、この店で、二十年ぶりに涙を流した人。それからも、彼女は、変装もせず、幾度となく、この店に通ってくれた。会員の席に座り、静かに一杯を傾けていく、大切な常連の一人だった。「お変わり、ないようで。まずは、一杯、いかがですか。話は、それからでも」
「……相変わらずだな」リーナが、口の端を、わずかに緩めた。「初めて来た夜も、お前は、そう言った」
俺は、彼女の前に、まず、水を置いた。リーナは、それを一口飲み、静かに、話し始めた。
「北部の、防衛線の話だ」彼女は言った。「今、国境の砦に、大勢の若い兵士が、詰めている。魔物の襲撃に、備えてな。だが、装備が、古い」彼女の眉が、曇った。「王都から回ってくる剣も、鎧も、質が悪い。安く仕上げた、粗悪品だ。あれでは、若い兵たちが、危ない」
【SOMA】――零。将軍が、直々に、装備の話をしに来た。よほど、切実なんだろう。
「あなたほどの将軍が、なぜ、うちのような、裏路地のギルドに」俺は尋ねた。
「お前のところの、剣の話を、聞いたんだ」リーナは、まっすぐに俺を見た。「星霜鉄、といったか。この店の地下で採れる、特別な鉄。その剣が、恐ろしく、いいものだと。ある冒険者が、言っていた。『あの剣は、命を、預けられる』と」
俺は、静かに頷いた。ガルダの打つ、星霜鉄の武具。その評判が、こんなところまで、届いていた。
「頼みたいのは、これだ」リーナは、続けた。「北部の若い兵たちに、星霜鉄の防具を、打ってほしい。剣でなくていい。せめて、盾と、鎧だけでも」彼女の声が、少し、震えた。「あの子たちを、死なせたくないんだ。……もう、二度と」
その言葉の重みが、店の中に、静かに、広がった。
二十年間、負け知らずの将軍。だが、その勝利の陰で、彼女は、幾人もの若い部下を、見送ってきた。かつて、この店で、亡くした一人の新兵のことを、話してくれたことがあった。彼女は、その一人ひとりの名を、今も、覚えているのだろう。
【SOMA】――零。この人の願いは、本物だ。将軍としての、命令じゃない。一人の人間として、若者を守りたいと、願っている。
俺は、しばらく、考えた。それから、口を開いた。
「ルナ。すみませんが、ガルダさんを、呼んできてもらえますか」
「うん!」ルナが、地下へ、駆けていった。
しばらくして、煤だらけのガルダが、ルナに連れられて、階段を上がってきた。
「なんだい、店主。仕事の、途中だよ」
俺は、リーナの依頼を、かいつまんで、ガルダに伝えた。北部の、若い兵たちのための、星霜鉄の防具。その話を聞くうちに、ガルダの目の色が、変わっていった。
「……なるほどな」彼女は、リーナを、まっすぐに見た。「北部の、若い兵の、防具か」
「打てるか」リーナが、尋ねた。
「打てる」ガルダは、即答した。「星霜鉄は、軽くて、丈夫だ。若い兵が、身につけても、動きを、邪魔しない。それでいて、生半可な魔物の爪じゃ、貫けん」彼女は、腕を組んだ。「ただし、数がいるなら、時間がかかる。俺一人じゃ、限界がある」
入口のヴァルドが、静かに口を開いた。元・騎士団副団長として、戦場を知る男だ。
「将軍。防具の設計は、俺にも、相談させてくれ」彼は言った。「若い兵の、動きの癖は、俺が知っている。実戦で、命を守る形が、ある」
リーナが、ヴァルドを見て、頷いた。
「……お前は、確か、王国第一騎士団の」彼女は、目を細めた。「その男が、いるなら、心強い」
さらに、奥から、アリシアも進み出た。
「防具に、私の魔法を、施すこともできます」彼女は言った。「メイザさんの魔法薬と、同じ要領で。軽い防護の魔力を、鎧に宿らせれば、とっさの一撃を、和らげられます」
俺は、少し考え、一つの案を、口にした。
「ガルダさん。レンさんを、覚えていますか」俺は言った。「剣聖ガルドの、弟子の。彼は、鍛冶にも、興味を持っていました」
「ああ、あの若いのか」ガルダが、頷いた。「筋は、悪くなかった」
「彼に、手伝いを頼めないか、聞いてみましょう」俺は言った。「それに、王都のオスカーさんに、資材の手配を。他国のセルジオさんにも、鉄の調達を頼めば、数を、揃えられるかもしれません」
ギルド・ゼロの、人脈が、また、動き出す。ガルダの腕。ヴァルドの実戦の知恵。アリシアの魔法。レンの若い力。商人たちの、調達網。ばらばらの点が、一つの目的のために、線で、結ばれていく。
「ただし、将軍」俺は、リーナに向き直った。「一つ、条件があります」
「言ってくれ」
「これは、商売として、受けます」俺は言った。「適正な代金を、いただきます。慈善では、ありません。いいものを作るには、正当な対価が、必要ですから」俺は、続けた。「その代わり、必ず、命を預けられる防具を、お作りします。若い兵の、一人ひとりを、守れるものを」
リーナは、しばらく、俺を見つめていた。それから、深く、頷いた。
「……助かる」彼女の声には、安堵が滲んでいた。「代金は、いくらでも払う。あの子たちの、命に代えられるものは、ない」
俺は、リーナのために、一本のボトルを取り出した。
透き通った、澄んだ酒。地の文で、俺だけが知っている。獺祭。前の世界の、日本は山口県の、小さな酒蔵の酒だ。かつて、その蔵は、山あいの、傾きかけた、小さな造り酒屋だった。だが、米を磨いて磨いて、雑味を削ぎ落とし、ひたすら、質を追い求めた。派手な宣伝も、大きな後ろ盾もない。ただ、真面目に、いいものを造り続けた。その実直さが、いつしか、世界に認められた。実直さだけで、頂に昇りつめた酒だった。
俺は、グラスに注ぎ、リーナの前に置いた。
「これは、遠い国の、小さな酒蔵の酒です」俺は言った。「米を、ひたすら磨いて造られます。飾り気は、ありません。ただ、実直に、いいものを、追い求めた。その真面目さが、この澄んだ味を、生みました」
リーナは、グラスを傾け、一口飲んだ。
「……澄んでいるな」彼女は、目を細めた。「濁りが、ない」
「あなたに、似ていると思いました」俺は言った。「派手な武勲を、誇るでもなく。ただ、実直に、部下を守り続けてきた。その生き方が、この酒の、澄んだ味に、重なります」
リーナの目が、わずかに、揺れた。
「……買いかぶりだ」彼女は、静かに言った。「俺は、何人も、死なせてきた。守れなかった者の、顔ばかりが、浮かぶ」
「だからこそ、今、守ろうとしている」俺は言った。「守れなかった悔いを、抱えたまま、それでも、次の若者を、守ろうとする。それが、あなたの、強さです」
リーナは、しばらく、黙って、酒を見つめていた。その横顔は、将軍ではなく、一人の、優しい人間の顔だった。
そこへ、ノアが、皿を運んできた。
温かい、肉の煮込みだった。骨つきの肉を、じっくりと煮込み、根菜と一緒に、深い味に仕上げてある。湯気とともに、力の湧くような、濃い香りが立ち上った。
「戦う人間は、しっかり、食え」ノアは、ぶっきらぼうに言って、皿を置いた。「腹が減っては、守るものも、守れん」
リーナは、その皿を見て、ふっと、笑った。
「……お前の店は、変わらないな」彼女は、肉を口に運んだ。そして、目を見開く。「うまい。兵糧とは、大違いだ」
その様子を、ルナが、そばで見ていた。そして、首から下げた星霜鉄の飾りを、そっと、リーナに見せた。
「これね、ガルダさんが、星霜鉄で、作ってくれたの」ルナは、誇らしげに言った。「すっごく、あったかいんだよ。将軍さんの、兵隊さんたちの防具も、きっと、あったかいよ」
リーナは、その小さな星を、じっと見つめた。淡く光る、星霜鉄の飾り。
「……そうか」彼女は、優しく言った。「あの子たちも、こんな温かいものに、守られるのか」その目が、少し、潤んだ。「ありがとう、お嬢さん」
リーナが、帰り支度を始めた。
「防具ができ次第、連絡します」俺は言った。「北部まで、責任を持って、届けます」
「頼む」リーナは、頷いた。それから、ふと、店の中を、見回した。「不思議な店だ。将軍の俺が、ここでは、ただの一人の客になる。二十年、張り詰めていた肩の力が、ここでだけは、抜ける」
「それが、この店の、役目です」俺は微笑んだ。
リーナは、扉の前で、振り返った。
「店主。お前は、剣も持たず、戦場にも出ない」彼女は言った。「だが、お前の作るものは、確かに、戦場の若者を、守る。お前は、俺とは違うやり方で、人を、守っているんだな」
「ええ」俺は、頷いた。「俺は、俺の場所で、できることを」
リーナは、満足そうに頷いて、夜の街へと、去っていった。その背中は、来た時より、少しだけ、軽く見えた。
閉店後、店に、いつもの団欒が戻った。
ガルダが、腕まくりをして、意気込んでいた。
「久しぶりに、燃えるねえ」彼女は、にやりと笑った。「若い兵の、命を預かる防具だ。手は、抜けん。あの一枚岩のそばの、いちばんいい星霜鉄を、使わせてもらうよ」
「頼みます」俺は頷いた。「レンさんにも、明日、話を通しておきます」
【SOMA】――零。ギルド・ゼロの力が、また、遠くまで、届こうとしているな。北部の、国境の砦。会ったこともない、若い兵士たち。その命を、この裏路地から、守る。
俺は、内心で頷いた。バーのカウンターから、鍛冶場の炉から、二階の作業場から。この店の力が、少しずつ、遠くの誰かの、命に、繋がっていく。
ルナが、星霜鉄の飾りを、そっと握った。
「みんなの防具、いいのが、できるといいね」
「ええ」俺は、頷いた。「きっと、できますよ」
飾りが、ルナの手の中で、淡く、光った。まるで、遠い北の若者たちの、無事を、祈るように。
夜が、静かに更けていく。明日も、この場所は、続いていく。誰かの命を、静かに、守りながら。
≪第66話・了≫
次話――北部への防具作りが、始まった。ガルダの鍛冶場に、剣聖の弟子レンが加わり、炉の火は、いっそう、赤く燃える。だが、大量の星霜鉄を打つには、一つ、問題があった。「零。鉄が、足りん」ガルダが、難しい顔で言った。「あの一枚岩に、手をつけずに、これだけの数を打つのは……正直、厳しい」。地下の、あの光る岩が、静かに、関わり始めていた。




