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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第63話「帰ってきた名前」

その日は、穏やかな昼下がりだった。


営業前の店で、俺はいつものように、グラスを磨いていた。ルナはカウンターの隅で、アリシアに文字を教わっている。地下からは、ガルダの鎚の音。二階からは、メイザとアリシアの作業場の、かすかな薬草の匂い。入口には、いつものようにヴァルドが佇み、その足元では、シロが丸くなっている。ギルド・ゼロの、いつもの一日だった。


そこへ、扉が静かに開いた。


【SOMA】――零。客だ。だが、ただの客じゃない。この気配、お前も知っているはずだ。


旅装の若い男が、立っていた。埃をかぶった外套。日に焼けた顔。だが、その目には、以前はなかった、穏やかな光が宿っている。


ルナが、顔を上げた。そして、あっと声を上げる。


「レイ、おにいちゃん!」


椅子から飛び降り、まっすぐに駆け寄った。レイ。かつて、七番の焼印を押された木札を持ち、自分の名前を探していた青年だった。


「久しぶりだな、ルナ」レイは、しゃがんで、ルナと目線を合わせた。「大きくなったか?」


「そんなに、すぐ大きくならないよ!」


レイが、声を上げて笑った。その笑い方は、初めて店に来た、あの雨の夜とは、まるで別人のようだった。



「お帰りなさい、レイさん」俺は、カウンターから声をかけた。


「マスター」レイは、立ち上がって、頭を下げた。「約束通り、帰ってきました」


俺は、彼を、カウンターに座らせた。まず、水を一杯。レイは、それを、ゆっくりと飲んだ。旅の疲れが、その一杯で、少しほどけたようだった。


「母の墓、見つかったんですか」俺は、静かに尋ねた。


レイは、こくりと頷いた。


「見つかりました。港町の、丘の上に」彼の声は、穏やかだった。「小さな、名もない墓標でした。でも、村の古い漁師が、覚えていてくれて。『あの女は、子を手放した後も、毎日、丘から海を見ていた』と」


【SOMA】――零。この男、憑き物が落ちた顔をしている。長い旅の果てに、答えを見つけた者の顔だ。


「俺、墓の前で、名乗ったんです」レイは続けた。「『母さん。俺、レイだよ。あなたがくれた名前で、生きてます』って」彼の目が、少し潤んだ。「そしたら、なんだか、肩の荷が、すっと下りて。ずっと、番号でしかなかった自分が、やっと、人間になれた気がしました」


店の中が、静かになった。ルナが、レイの袖を、そっと握っている。



「ずっと、お礼を言いたかったんです」レイは、俺に向き直った。「あの夜、マスターが、俺の名前を、取り戻してくれた。あれがなかったら、俺は今も、七番のままだった」


「取り戻したのは、あなた自身です」俺は言った。「俺は、少し、手伝っただけです」


レイは、首を振った。それから、ふと、店の中を見回した。地下から響く鎚の音。二階の薬草の匂い。壁にかけられた、真新しい看板。その目が、驚きに見開かれる。


「この店……変わりましたね」レイは言った。「前は、小さな、静かなバーだったのに。今は、なんだか、すごく、賑やかだ」


「ええ。少し、仲間が増えました」俺は微笑んだ。「今は、ギルド・ゼロと、呼ばれています」


「ギルド……」レイは、看板を見つめた。「ゼロ、か。いい名前だ」彼は、しみじみと言った。「何もないところから、始まる。俺も、ゼロから、やり直せた。まるで、この店みたいに」


【SOMA】――零。この男も、ゼロから立ち上がった一人だ。名前を失い、また、取り戻した。ここに集う人間と、同じだ。



俺は、棚の奥から、一本のボトルを取り出した。


琥珀色の、優しい色合いの酒。地の文で、俺だけが知っている。カルヴァドス。前の世界の、フランスはノルマンディー地方の、林檎から造るブランデーだ。豊かな土地ではない。冷たい海風の吹く、素朴な田舎。そこで採れる林檎を搾り、蒸留し、樽の中で、長い時間をかけて、ゆっくりと育てる。派手さはない。だが、飲めば、故郷の果樹園を思わせる、優しく懐かしい甘さが、じんわりと広がる。時間が、素朴な果実を、豊かな味わいへと、育て上げた酒だった。


俺は、グラスに注ぎ、レイの前に置いた。


「あなたに、飲んでほしい一杯があります」俺は言った。「これは、素朴な田舎の、林檎から造られる酒です。豊かな土地じゃない。冷たい風の吹く場所で、採れた果実を、長い時間をかけて、樽の中で育てます」


レイは、グラスを手に取った。


「飲むと、故郷の果樹園みたいな、優しい甘さが、広がります」俺は続けた。「果実は、時間をかけて、豊かな味に育つ。……あなたが、旅の時間をかけて、番号から、レイになったように」


レイは、一口飲んだ。目を閉じる。しばらく、その味を、噛みしめていた。


「……あったかいです」やがて、彼は言った。「なんだか、母さんが、いる気がする。会ったことも、ないのに」


その頬を、一筋の涙が、伝った。今度は、悲しみではない。安らぎの、涙だった。



そこへ、厨房から、ノアが出てきた。無言で、レイの前に、皿を置く。


こんがりと焼いた、パンだった。表面はかりっと、中はふんわり。そこに、とろりと甘く煮た林檎が、たっぷりと添えられている。バターの香りと、林檎の甘い匂いが、ふわりと立ち上った。


「……その酒に、合うと思ってな」ノアが、ぶっきらぼうに言った。「林檎の酒には、林檎の菓子だ」


レイが、驚いた顔で、ノアを見た。


「料理人さん……あの時の。俺が、名前を探していた頃、ここで、飯を出してくれた」


「……覚えてたか」ノアは、ぶっきらぼうに言った。「あの頃のお前は、飯も、喉を通らない顔をしていた。今は、いい顔だ」


それだけ言って、ノアは背を向けた。


レイは、焼きたてのパンと林檎を、口に運んだ。とたんに、顔がほころぶ。


「……うまい。すごく、うまい」彼は、夢中で食べた。「こんな、あったかいもの、久しぶりだ」


その様子を見て、ルナが、嬉しそうに笑った。


「ノアのごはんは、世界一なんだよ!」



その日、レイは、日が暮れるまで、店にいた。


三ツ星のガイたちが訓練から上がってくると、レイは、彼らと、すぐに打ち解けた。同じ、駆け出しの苦労を知る者同士だ。ガルダが地下から顔を出せば、その鍛冶の腕に、目を輝かせた。店は、いつものように、賑やかだった。


夕暮れ時、レイが、帰り支度を始めた。


「これから、どうするんですか」俺は尋ねた。


「港町に、戻ります」レイは言った。「母の墓の、近くで。漁師の見習いを、始めようと思って。母が、生きた場所で、生きてみたいんです」彼は、はにかんだ。「でも、時々、ここに、顔を出します。俺の、もう一つの、帰る場所だから」


「ええ。いつでも、どうぞ」俺は頷いた。「あなたの席は、空けておきます」


レイは、深く頭を下げ、扉に向かった。そして、ふと、立ち止まる。


「マスター」彼は、振り返った。「俺、港町で、誰かが困っていたら、今度は、俺が、手を差し伸べます。あなたが、俺にしてくれたように」


「いい心がけです」俺は微笑んだ。


レイは、力強く頷いて、夕暮れの街へと、歩いていった。その背中は、初めて来た夜より、ずっと、大きく見えた。



閉店後、店に、いつもの団欒が戻った。


ルナが、星霜鉄の飾りを、指でいじりながら、ぽつりと言った。


「レイおにいちゃん、笑ってたね」


「ええ」俺は頷いた。


「前に来た時は、ずっと、悲しそうだったのに」ルナは、飾りを見つめた。「名前があるって、そんなに、嬉しいことなんだね」


アリシアが、お茶を淹れながら、優しく言った。


「名前は、その人が、この世界に、確かにいる、という証です」彼女は言った。「レイさんは、その証を、取り戻した。だから、笑えるようになったのです」


ルナは、しばらく、自分の飾りを見ていた。それから、小さく呟いた。


「あたしの名前も、あたしが、つけたんだ。ルナって」彼女は、にっこり笑った。「だから、あたしも、ちゃんと、ここにいるんだね」


【SOMA】――零。ルナのその言葉、いつか、大きな意味を持つかもしれんな。あの子の、本当の名前が、どこかにあるのだとしたら。


俺は、内心で、頷いた。ルナが、自分でつけた名前。その裏に隠された、本当の名前。それは、まだ、語られる時ではない。だが、いつか。


夜が、静かに更けていく。名前を取り戻した青年が、去っていった。そして、名前を自分でつけた少女が、今日も、この店で、笑っている。それで、十分だった。



≪第63話・了≫



次話――レイが去って、数日後。ダンジョンの第一層で、ガルダが、奇妙なものを見つけた。鉱脈の奥、これまで誰も気づかなかった場所に、淡く光る、扉のような岩がある、と言うのだ。「零。あの岩……ただの岩じゃない。中から、妙な気配がする」。ギルド・ゼロの拠点の、地下深くで、何かが、静かに、動き始めていた。

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