第62話「焚き火のような一杯」
夜明け前。空が、わずかに白み始めた頃だった。
店の扉が、静かに開いた。
【SOMA】――零。帰ってきた。全員、生きている。
俺は、磨いていたグラスを置いた。一晩中、この瞬間を待っていた。
扉の向こうに、泥と汗にまみれた三ツ星とメイザが立っていた。その後ろには、担架に乗せられた冒険者と、付き添う仲間たちの姿。先頭のコルムが、疲れ切った顔で、しかし確かな声で言った。
「ただいま、マスター。……全員、生きてます」
その言葉を聞いた瞬間、店の中の空気が、ふっと緩んだ。ルナが、ぱっと立ち上がる。
「おかえりなさい!」
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俺はまず、帰ってきた全員に、温かい湯を出した。冷えきった体に、湯気が染みていく。担架の冒険者も、意識はしっかりしていた。メイザの手当てが、効いている証拠だった。
「よく、帰ってきました」俺は静かに言った。「話は、体が温まってからで構いません」
人心地ついたところで、ガイが、ぽつぽつと語り始めた。
「縦穴は、思ったより深かった」彼は両手で湯気の椀を包んだ。「底に、骨折した人が倒れてて。毒の霧が、その周りに、たまってた」
「霧は、俺が引き受けた」コルムが続けた。眼鏡の奥の目に、確かな自信が宿っていた。「アリシアさんに言われた通り、吹き飛ばさず、薄い膜を作った。霧を、押しのけるんじゃなくて、倒れた人の周りに、きれいな空気の繭を、こしらえたんです」
アリシアが、奥で小さく頷いた。教えたことを、コルムが、自分のものにしている。その顔には、師としての静かな誇りがあった。
「そこからは、あたしの番さ」メイザが、にっと笑った。「繭の中に、ティナがロープで降ろしてくれてね。骨折を固定して、毒消しを飲ませて。あの新しい傷薬も、塗った。痛みが、すうっと引いたよ。本人が、驚いてた」
魔法薬。アリシアとメイザが、二階の作業場で生み出したもの。それが、命の現場で、確かに働いた。
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「でも、一番すごかったのは、ティナだ」ガイが言った。
ティナが、少し照れた顔をする。
「縦穴の壁は、もろくて。普通の杭じゃ、すぐ抜けた」彼女は、腰に下げた、星霜鉄の登攀具を見せた。淡い光が、まだ残っている。「でも、これは、違った。打ち込んだら、岩を噛んで、びくともしない。これがなかったら、引き上げるとき、全員、落ちてた」
【SOMA】――零。星霜鉄の道具が、命綱になったな。ガルダの仕事が、人を、四人ぶん、生かした。
俺は、内心で頷いた。地下で打たれた一本の道具が、迷宮の底で、命を支えた。鍛冶場を作って、本当に、よかった。
「情報も、助かった」ティナが続けた。「ダリウスさんの地図に、風の通り道が、書いてあって。コルムが、それを読んで、膜を作る場所を、決めたの」
ばらばらの技が、一つに噛み合って、四つの命を、救い上げた。それが、ギルド・ゼロの、二つ目の仕事だった。
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担架の冒険者が、弱々しくも、口を開いた。
「あんたたちは……命の恩人だ」声が震えていた。「どこのギルドも、断った。なのに、あんたたちだけが、来てくれた。礼を、どう言えばいいか」
「礼は、いりません」俺はカウンターから言った。「あなたが生きて、また歩けるようになる。それが、何よりの礼です」
「金は、必ず払う。少しずつでも」依頼に来た男が、頭を下げた。
「では、こうしましょう」俺は言った。「あなたが元気になったら、この店に、飲みに来てください。その時の一杯の代金に、上乗せして、少しずつ。それで、手を打ちます」
男たちが、顔を見合わせ、それから、泣き笑いのような表情を浮かべた。
メイザが、担架の冒険者に、肩を貸す。
「こいつは、あたしが、ちゃんと診てやる」彼女は言った。「骨が、つくまでな。心配するな。あたしの薬は、よく効くんだ。商売だから、高くつくがね」
最後の軽口に、強張っていた空気が、ほどけた。
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冒険者たちが、メイザに付き添われて、休む場所へ向かった後。
俺は、帰ってきた三ツ星に、約束していたものを出した。
棚の奥から取り出したのは、琥珀色の酒。地の文で、俺だけが知っている。タリスカー。前の世界の、スコットランドのスカイ島で造られる、ただ一つの蒸留所の酒だ。荒れ狂う海と、吹きすさぶ風の島。その酒は、潮の香りと、胡椒のような、ぴりりとした刺激を持つ。荒々しい。だが、その奥に、不思議な甘さと温かさがある。嵐の海を越えて、港に帰り着いた者を迎える、焚き火のような温かさだ。
俺は、三つのグラスに注ぎ、三人の前に置いた。
「昨夜、出そうとして、やめた一杯です」俺は言った。「あの時は、一秒が惜しかった。だから、今、出します。無事に、帰ってきた、あなたたちに」
三人が、グラスを手に取った。
「この酒は、荒れた海の島で、生まれました」俺は続けた。「飲むと、最初は、潮と、胡椒みたいに、ぴりっとする。荒々しい。でも、その奥から、温かいものが、じんわり広がる。嵐を越えて、港に帰り着いた人を、迎える、焚き火みたいに」
ガイが、一口飲んだ。目を見開く。
「……ほんとだ。最初、ぴりっとして。でも、後から、あったかい」彼は、ふっと笑った。「今の、俺たちみたいだ」
「ええ」俺は頷いた。「あなたたちは、荒れた夜を越えて、帰ってきた。この温かさは、その証です」
ティナも、コルムも、グラスを傾けた。荒々しくて、温かい一杯が、一晩戦った体に、染み渡っていった。
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そこへ、ノアが、厨房から皿を運んできた。
一晩、とろ火で煮込み続けた、骨つき肉の煮込みだ。肉は、骨からほろりと落ちるほど、やわらかい。深い色のスープに、根菜が、とろとろに溶けている。湯気とともに、濃厚な香りが、店じゅうに広がった。
「冷めてないうちに、食え」ノアは、ぶっきらぼうに言って、三人の前に皿を置いた。「腹が、減ってるだろう」
ガイが、肉を口に運んだ瞬間、ぼろりと、涙をこぼした。
「……うまい。なんだ、これ。うますぎる」
泣きながら、夢中で食べる三人を見て、ノアは、何も言わず、背を向けた。だが、その背中は、少しだけ、嬉しそうだった。一晩中、火を絶やさずに、待っていた料理人の背中だった。
【SOMA】――零。いい店だ。帰る場所が、ある。温かい一杯と、温かい飯が、待っている。それが、どれだけ、人を、強くするか。
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外が、すっかり明るくなった頃。
ルナが、眠そうな目をこすりながら、三ツ星のそばに来た。その首には、星霜鉄の星の飾りが、光っている。
「みんな、おかえり」ルナは、にっこり笑った。「あたし、ずっと、これ握って、待ってたんだよ」
彼女は、首の飾りを、そっと、三人に見せた。
「不思議とね、これ握ってたら、みんな大丈夫だって、思えたの」
ガイが、その小さな星を見て、優しく目を細めた。
「そっか。ルナのおかげで、帰ってこれたのかもな」
ルナが、嬉しそうに笑った。星霜鉄の飾りが、朝の光を受けて、ちらりと、淡く瞬いた。まるで、その言葉に、応えるように。
俺は、その様子を、カウンターから見ていた。
【SOMA】――零。あの飾り、ただの鉄じゃないかもしれんな。
(……ええ。俺も、そんな気がしています)
だが、それは、まだ先の話だ。今は、ただ、みんなが無事に、朝を迎えられた。それで、十分だった。
ヴァルドが、入口で、静かに言った。
「零。いい朝だ」
「ええ」俺は頷いた。「いい朝です」
裏路地のギルド・ゼロに、二つ目の依頼を終えた、穏やかな夜明けが、訪れていた。
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≪第62話・了≫
次話――救助の噂は、また新たな噂を呼ぶ。「裏路地のギルド・ゼロは、どんな依頼も断らない」と。だが、その評判は、良い客ばかりを、呼ぶわけではなかった。ある夜、上等な身なりの男が、ねっとりとした笑みを浮かべて、店の扉をくぐる。「ここのギルドを、丸ごと、買い取りたいのだがね」




