第6話「この店が嫌いだ」
六日目から八日目の三日間で、BAR ZEROは変わった。
正確に言えば、店は何も変えていない。
カウンターの位置も、グラスの並べ方も、開店時間も。
変わったのは、来る客の顔ぶれだ。
エレナの件が上流階級に広まった六日目の朝から、路地の入口に立つ人間の服の素材が変わった。庶民の麻ではなく、貴族の絹が混じり始めた。
六日目。クレスタ侯爵が婚約発表を正式に撤回した。エレナから短い手紙が届いた。「ありがとう」とだけ書いてあった。
七日目。王都の大手商会のギルドマスターが変装して来た。事業の岐路に立っていた。俺はカクテルを一杯出して、情報を添えた。翌朝、そのギルドマスターが取った行動で、三つの商会が連鎖的に動いた。
八日目。お忍びの騎士団副団長が来た。目的は秘匿する。ただ、帰り際に一言だけ言った。
「この店のことは、誰にも言わない」
「ありがとうございます」
「褒めてるわけじゃない。言ったら自分が損をするから言わない、という意味だ」
俺はそれで十分だと思った。
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三日間で、ルナは水の出し方を覚えた。
グラスをカウンターに置く時、音を立てない方法だ。
最初は毎回コツンと当たっていたが、八日目の夜には完璧になっていた。誰にも教わっていない。ただ俺の動きを見て、繰り返して、体で覚えた。
(SOMA)
――わかってる。この子の習得速度は異常だ。
(知ってる)
ヴァルドは九日目の朝、珍しく俺に声をかけた。
「証拠を王都の法務機関に提出する手続きを、昨日終えた」
「動き始めたんですね」
「ああ。結果が出るまで時間はかかる。ただ、動き出した」
男の顔が、来た日より少しだけ軽くなっていた。
「それでいいです」
アリシアの件も、同じ日にSOMAから報告があった。魔法評議会がバルトロの調査に正式に着手したという。
物事は、動き始めると止まらない。
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そして九日目の夜、ガルドが来た。
約束通り、一週間後だ。
ただし、一人ではなかった。
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ガルドの後ろに、若い男がいた。
二十代前半だろうか。中背で細身だが、手だけが妙に大きい。短い赤褐色の髪に、鋭い目をしている。料理人が食材を見る時の目だ、と俺は直感した。服は旅慣れた格好だが、袖の折り返し方が几帳面すぎる。几帳面な人間が、慌ただしく生きてきた痕跡だった。
男はカウンターを見て、店内を見て、俺を見た。
それから、腕を組んで言った。
「この店が嫌いだ」
第一声がそれだった。
「いらっしゃいませ」
俺は微笑んだ。
男の目が、わずかに細くなった。
「今のを聞いて、そう返せるのか」
「いらっしゃいませ以外に返しようがないので」
ガルドが後ろから男の肩を押した。
「まあ座れ、ノア」
「座りたくない」
「お前が座りたいかどうかは聞いていない」
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ノアは渋々カウンターの端に腰を下ろした。
ガルドがその隣に座った。
俺はガルドの顔を見た。
一週間前より、目に光がある。
「先週より、いいですね」
「ああ」
ガルドは右手を開いて、俺に見せた。
先週は小刻みに震えていた指が、今週はほとんど止まっている。完全ではない。でも、確実に変わっていた。
「手の震えが、だいぶなくなった」
「順調です。今週分を作ります」
俺はアイテムボックスに手を入れた。
先週と同じ素材だ。森脈草、霜の雫、蜂蜜、炭酸水、そして麦のウイスキー。ただし今週は森脈草を少し減らした。回復が進んだ体に、先週と同じ量では強すぎる。
シェイカーを振って、グラスに注いだ。
深い翠色の液体が、今週も底から淡く光を帯びた。
ガルドが一口飲んだ。
「……先週と少し違うな」
「素材の量を調整しました。回復が進んでいるので、体の状態に合わせて毎週変えます」
「三ヶ月、毎週変わるのか」
「変え続けます」
ガルドは頷いて、グラスをカウンターに置いた。
それからノアを見て、俺を見た。
「この男の名前はノア・ブラント。二十二歳だ」
「自分で喋れる」
「喋らないから俺が言っている」
ノアは舌打ちして、窓の外に視線を向けた。
ガルドが続けた。
「六ヶ月前まで、王都に『蒼天亭』という店を出していた。俺が十年間、一番通った飯屋だ。毒が体に入り始める前から通っていた。あそこの飯を食ってから、他の飯屋の味が薄く感じるようになった」
ノアが窓の外を向いたまま、低く言った。
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃない。事実だ。六ヶ月前に蒼天亭がなくなってから、こいつは料理をやめた」
ガルドは俺を見た。
「俺は先週ここで救われた。だからこいつも連れてきた。それだけだ」
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ノアが振り返って、俺を見た。
試している目だ。怒っているのではなく、値踏みしている。
「情報屋がカクテルの皮をかぶって商売している店に、俺が来る理由はない」
「バーテンダーです」
「同じことだ。酒と情報で人間を動かしている。料理とは違う」
「どう違うんですか」
ノアが少し止まった。
「料理は誤魔化しがきかない。素材と火と時間だけが正直だ。情報は操作できる。見せ方で印象が変わる」
「カクテルも同じですよ」
俺はグラスを磨きながら、続けた。
「素材の質、温度、タイミング。一つでも間違えれば別の飲み物になる。誤魔化しがきかない点では、料理と変わらない」
ノアは俺を見た。
反論を探している顔だった。
見つからなかったのか、また窓の外に視線を戻した。
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(SOMA)
――詳細を送る。
情報が流れ込んできた。
六ヶ月前。王都の有力飲食ギルド「アクアント」が、蒼天亭の土地と建物に目をつけた。王都の目抜き通りに近い、立地の良い物件だ。アクアントはノアに買収を打診した。ノアが断ると、嫌がらせが始まった。食材の仕入れ先への圧力。常連客への謂れのない噂の拡散。最終的には建物の賃貸契約を地主ごと買収して、強制退去させた。
ノアに残ったのは、調理道具だけだ。
もう一つ。ノアの父親は、ノアが十四歳の時にアルコール依存症で亡くなっている。
だからバーという業態が、生理的に受け付けない。
(他には)
――蒼天亭の看板料理があった。北部産の「蒼天果」を使ったデザートだ。青みがかった柑橘で、この季節にしか採れない。ノアが六年かけて独自のルートを作り、北部の農家と直接契約して毎年仕入れていた。その果物だけで、蒼天亭の名前が王都に広まった。
(今、手に入るか)
――アイテムボックスの中に一つだけある。
俺は手を止めた。
(わかった)
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アイテムボックスに手を入れて、一つの果物を取り出した。
手のひらに収まる大きさ。深い青みがかった黄色。表皮に細かな模様が入っている。空気に触れた瞬間、柑橘に似た香りが広がった。甘みと酸味の奥に、花のような何かが混じっている。
ノアの視線が、窓の外から戻ってきた。
果物を見ている。
俺はそれをカッティングボードに置いて、薄く切り始めた。
断面が空気に触れた瞬間、青白い光のような香りが一層強く広がった。
ノアの体が、わずかに前のめりになった。
気づいていない。無意識だ。
「……それは」
ノアが小さく言った。
「蒼天果です」
俺は答えながら、グラスを一つ選んだ。
背の高い、薄いクリスタルに近いグラスだ。
底に、細かく砕いた氷を敷く。
その上に、蒼天果のスライスを二枚、グラスの内側に沿って貼り付けた。青みがかった果肉が、氷を通して淡く透けて見える。
次に、透明な蒸留酒を少量だけ注いだ。アルコール度数は低い。香りを立てるための量だ。
最後に。
小さな燻製用のチップを取り出して、グラスの上で火をつけた。
細い煙が上がる。
グラスに被せた逆さのグラスの中に、煙が閉じ込められた。
三十秒待った。
逆さのグラスをゆっくりと外すと、煙が静かに外に流れ出した。
蒼天果の青い香りと、木の燻した香りが、ゆっくりと混ざり合っていく。
ガルドが息を呑んだ。
ルナが厨房の入口で、目を丸くしていた。
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俺はグラスをノアの前に置いた。
「飲まなくてもいいです」
ノアが俺を見た。
「ただ、香りだけ確かめてください」
ノアは少し間を置いてから、グラスに顔を近づけた。
目を閉じた。
十秒ほど、そのままでいた。
それからグラスを手に取って、一口飲んだ。
静寂があった。
ガルドも、ルナも、俺も、何も言わなかった。
ノアはグラスをカウンターに置いた。
三秒間、黙っていた。
「……もう一杯、くれ」
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二杯目を置いた後、俺は言った。
「蒼天亭で出していたデザートに使っていた果物ですね」
ノアの指が、グラスの上で止まった。
「……知ってるのか」
「情報が入ってくるんです。勝手に」
ノアはしばらく黙っていた。
「……六年かけて、独自のルートを作った。北部の農家と直接契約して、毎年この季節だけ仕入れていた」
「知っています」
「今はそのルートも、全部アクアントに持っていかれた」
俺はカウンターに紙を一枚置いた。
「アクアントがあなたの仕入れルートを引き継いだ経緯の書類と、農家との元の契約書の写しです。書き換え前の原本が存在する場所も書いてあります」
ノアが紙を手に取った。
「……なんでそんなものを持っている」
「必要だと思ったので、調べました」
「いつ」
「あなたが店に入ってきた瞬間です」
ノアは紙から目を上げて、俺を見た。
「……何がしたいんだ」
俺はグラスを磨きながら、答えた。
「来てくださった方に必要なものをお出ししたいだけです」
「俺は客じゃない。ガルドに引っ張られてきただけだ」
「カウンターに座った時点で、客です」
ノアは俺を見た。
それから紙を見た。
それからグラスを見た。
「……アクアントは王都で一番大きい飲食ギルドだ。動かせるのか」
「動かすのは俺の仕事じゃないです」
「じゃあ何が仕事なんだ」
「あなたが蒼天亭を取り戻すために必要な情報を、適切な人間に届けることです。あとはその人間たちが動く」
ノアは少し間を置いた。
「……適切な人間というのは」
「ダリウス・クライン中佐と、クレスタ侯爵家です。どちらも最近、この店に貸しがあります」
ガルドが低く笑った。
「どういう店だここは」
「バーです」
「バーテンダーが貴族に貸しを作るバーか」
「結果的にそうなりました」
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ノアはしばらく、グラスを見つめていた。
二杯目の蒼天果の香りが、カウンターに漂っている。
「……六ヶ月、料理をしていない」
「知っています」
「もう、できないかもしれない」
「それはないです」
ノアが俺を見た。
「根拠は」
「さっきのグラスを見た時の、あなたの目です」
俺は続けた。
「料理を捨てた人間の目じゃなかった。まだ愛している人間の目だ」
ノアは口を閉じた。
長い沈黙があった。
ガルドは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
やがてノアが、小さく言った。
「……考える」
「それで十分です」
「答えが出るまで時間がかかるかもしれない」
「ゆっくりどうぞ」
ノアは俺を見た。
何かを言いかけて、やめた。
グラスを手に取って、残りをゆっくりと飲み干した。
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ガルドが帰ったのは一時間後のことだった。
来週もまた来ると言って、出ていった。
ノアは帰らなかった。
カウンターの端で腕を組んで、目を閉じていた。眠っているわけではない。考えている顔だ。
ルナが俺の隣に来て、小声で言った。
「あの人、帰らないね」
「そうですね」
「ここにいていいの?」
「本人がいたければ」
ルナはノアを見て、また俺を見た。
「……怖い顔してるけど、悪い人じゃない気がする」
「どうしてわかるんですか」
「目が、ガルドさんに似てる。来た時のガルドさんと」
俺は手を止めた。
この子の観察眼は、やはり規格外だ。
(SOMA)
――同意する。
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深夜、店を閉める直前にSOMAが告げた。
――零。報告がある。
(なんだ)
――アクアント飲食ギルドのギルドマスター、ゴルドン・アクアントが明日の夜、この店を訪れようとしている。
俺の手が、止まった。
(目的は)
――ノアの回収だ。六ヶ月間、行方を追っていた。今日、ノアがここに来たという情報が漏れた。
(どこから漏れた)
――ガルドを尾行していた人間がいた。アクアントの息がかかった情報屋だ。
俺は少し考えた。
ゴルドン・アクアントが来る。
ノアを取り戻すために。
つまり明日、この店はまた試される。
ただし今度は力ではなく、別の方法で。
(SOMA、アクアントのギルドマスターについて全ての情報を整理してくれ。明日の夜までに)
――すでに始めている。それと零、一つだけ言っておく。
(なんだ)
――ゴルドン・アクアントはバルザン伯爵より厄介な相手だ。法の範囲内でしか動かない。だから力で排除できない。
俺は小さく息を吐いた。
(そういう相手の方が、得意だ)
――知ってる。だから言った。
俺はノアを見た。
カウンターの端で、目を閉じたまま、男はまだそこにいる。
「泊まっていいですよ」
俺が言うと、ノアは目を開けずに答えた。
「……世話になる気はない」
「そうですか」
「ただ」
一拍置いた。
「もう少しだけ、ここにいる」
「どうぞ」
俺はカウンターの電気を落とした。
九日目の夜が、静かに更けていく。
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≪第6話・了≫
**次話――「お前の料理人を返してもらいに来た」。ゴルドン・アクアントがカウンターに座った瞬間、俺は気づいた。この男は、戦い方が違う。**




