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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: tatsuya akaike


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第7話「法の剣」

 朝、ノアはカウンターの端で眠っていた。

 腕を組んで、椅子に座ったまま。背筋だけは妙に真っ直ぐで、眠っていても几帳面さが抜けない男だと思った。

 ルナが厨房からそっと顔を出して、ノアを見た。

 それから俺を見た。

 小声で言った。

 「泊まったの?」

 「そうみたいですね」

 「追い出さなかったの?」

 「本人が出ないと言ったので」

 ルナはノアをじっと見てから、また厨房に引っ込んだ。

 しばらくして、スープの匂いがしてきた。


 ノアが目を覚ましたのは、スープが出来上がった頃だった。

 目を開けて、一瞬だけ場所を確認するような間があった。

 それから、静かに息を吐いた。

 「……泊まってしまった」

 「どうぞ」

 俺はカウンターにスープを置いた。

 ノアはそれを見て、少し間を置いた。

 「世話になる気はないと言った」

 「スープを飲むことと世話になることは別です」

 ノアは何も言わずに、スープを手に取った。

 一口飲んで、止まった。

 「……これ、誰が作った」

 「ルナです」

 「十歳の子供が?」

 「スラム出身なので、料理は早くから覚えたようです」

 ノアはもう一口飲んだ。

 「……素材の扱いが丁寧だ。火の入れ方も悪くない」

 厨房の入口に、ルナが立っていた。

 ノアを見ている。

 ノアがルナに目を向けた。

 「お前が作ったのか」

 「……うん」

 「美味い」

 ルナは一瞬だけ表情を崩した。

 すぐに戻したが、耳が少し赤くなっていた。


 朝食の後、ノアは腰を上げた。

 「帰る」

 「わかりました」

 「昨夜の話は、考える」

 「ゆっくりどうぞ」

 ノアはコートを手に取りながら、俺を見た。

 「蒼天果のカクテル。あれは反則だ」

 「そうですか」

 「俺が一番弱い場所を、初対面で突いてきた」

 「情報が入ってくるんです。勝手に」

 ノアは少し間を置いて、また言った。

 「……あの果物、どこで手に入れた」

 「アイテムボックスに一つだけありました」

 「なぜ持っていた」

 「必要だと思ったので、用意していました」

 ノアは俺を見た。

 言いたいことがあるような顔で、結局何も言わなかった。

 扉を開けて、裏路地へ出ていった。


 (SOMA)

 ――わかってる。今夜、来る。

 (ゴルドンは今どこにいる)

 ――王都の本拠地だ。昨夜の報告を受けて、朝から動いている。弁護士を二人呼んだ。

 「弁護士」

 ――法の範囲内で戦うと言っただろう。準備が早い。

 俺は少し考えた。

 弁護士を連れてくる。

 つまりゴルドンは、今夜の勝負を「法的交渉」として設定している。力で来ないのではなく、法で来る。

 (こちらの準備は)

 ――情報は全て揃っている。ただし零、今夜の戦いは「情報を持っているか」ではない。

 (どういう意味だ)

 ――「どの情報を、どの順番で、どのタイミングで出すか」の戦いだ。ゴルドンは法律の抜け穴を熟知している。順番を間違えると、合法的に逃げられる。

 俺はグラスを磨きながら、整理した。

 チェスに近い。

 情報という駒を、正しい順番で動かす。

 (SOMA、今夜の手順を一緒に考えてくれ)

 ――もう考え終わっている。聞くか?

 「聞く」


 夕方、ダリウスに使いを出した。

 文面は短くした。

 「今夜、BAR ZEROにいていただけますか。あなたの貸しを一つ、使わせてください」

 一時間後、返事が来た。

 「行く」

 それだけだった。

 次にクレスタ侯爵家に連絡を取った。

 エレナ宛に手紙を書いた。

 「侯爵家として動いていただける案件があります。今夜、ご都合がよければ。ノア・ブラントという人物の件です」

 二時間後、エレナ本人から返事が来た。

 「父と一緒に伺います」

 俺は手紙を折りたたんで、カウンターに置いた。

 (SOMA)

 ――準備が整った。あとは来るのを待つだけだ。

 「ルナ」

 厨房から顔が出る。

 「今夜は少し特別な夜になります。接客の練習になるかもしれない」

 ルナの目が、少しだけ輝いた。

 「……わかった。ちゃんとやる」

 「グラスを音なく置く練習は完璧ですね」

 「うん」

 「じゃあ今夜は、お客さんが入ってきた時の立ち方を見ていてください。俺がどこに立つか」

 「見てる」

 「それだけでいい」


 夜になった。

 店を開けた。

 ヴァルドが入口に立った。

 ルナがカウンターの内側に、俺の隣に立った。

 午後九時を少し過ぎた頃、扉が開いた。

 入ってきたのは、三人だった。

 先頭の男が、ゴルドン・アクアントだろう。

 五十代。中背で、横に広い体格だ。頭が禿げ上がっていて、その分だけ顔が大きく見える。仕立ての良い濃紺の上着に、金の鎖が胸元から覗いている。目が細く、笑っているような顔をしているが、目の奥が笑っていない。

 商人の顔だ。

 どんな場所でも損得を計算することをやめない、生粋の商人の顔。

 その後ろに、書類鞄を抱えた男が二人続いた。弁護士だ。

 ゴルドンは店内を見回して、カウンターに近づいた。

 椅子に座る前に、俺を見た。

 「噂の店とはここか。随分と小さいな」

 「いらっしゃいませ」

 俺は微笑んだ。

 「何をお飲みになりますか」

 「酒を飲みに来たわけじゃない」

 「わかっています」

 「なら話が早い」

 ゴルドンは椅子に腰を下ろした。後ろの弁護士二人が、その両隣に立った。

 「ノア・ブラントを返してもらいに来た」


 俺はグラスを磨く手を止めなかった。

 「ノアさんは今、ここにいません」

 「いないのはわかっている。昨夜ここに来て、今朝帰ったことも把握している」

 ゴルドンは指を組んで、カウンターに乗せた。

 「単刀直入に言おう。ノアはアクアントギルドと契約関係にある。具体的には、蒼天亭の立ち退きに際して交わした合意書に基づき、今後三年間はアクアントギルドの管轄下でのみ料理活動を行う義務がある」

 弁護士の一人が書類を取り出して、カウンターに置いた。

 「これがその合意書の写しです」

 俺は書類を一瞥した。

 (SOMA)

 ――見た。第三条の「料理活動」の定義が意図的に広く書かれている。店の経営だけでなく、他店への助言や指導まで含む。ノアがどこかで働けば、この条項に抵触すると主張できる設計だ。

 「拝見しました」

 俺はゴルドンを見た。

 「ただ、一つ確認させてください」

 「なんだ」

 「この合意書にノアさんが署名したのは、いつですか」

 ゴルドンが少し間を置いた。

 「六ヶ月前だ。立ち退きの当日に署名している」

 「立ち退きの当日」

 俺は繰り返した。

 「それは、蒼天亭が強制退去になった日ですね」

 「そうだ」

 「その日、ノアさんは自分の店と仕入れルートと六年間の積み重ねを全て失った。そういう状況の人間が署名した書類です」

 「合法的な手続きを踏んでいる」

 「署名の際に、弁護士の同席はありましたか」

 弁護士の二人が、わずかに動いた。

 ゴルドンの目が、初めて細くなった。

 「……一般的な商取引では、必須ではない」

 「そうですね」

 俺はグラスを棚に戻した。

 「ただ、王国商法第四十七条では『心理的に著しく不安定な状態での署名』は、後日無効を申し立てられる条件の一つとして明記されています」

 沈黙。

 ゴルドンの指が、カウンターの上でゆっくりと動いた。

 「……詳しいな」

 「情報が入ってくるんです。勝手に」


 ゴルドンは少し考えてから、また口を開いた。

 「仮にその条項が有効だとしても、申し立てには証拠が必要だ。当日の状況を証明できる第三者の証言が要る。六ヶ月前のことだ。難しいだろう」

 「当日、蒼天亭の立ち退き現場に居合わせた人間が、この王都に十四名います」

 ゴルドンが止まった。

 「全員の名前と現住所が手元にあります。そのうち七名が、ノアさんの状況について詳細に証言できると判断しています」

 「……お前は何者だ」

 「バーテンダーです」

 「バーテンダーが、なぜそんな情報を」

 「来てくださった方に必要なものをお出しするのが仕事なので」

 ゴルドンは俺を見た。

 計算している目だ。

 損得を、今この瞬間も、止まらずに計算している。

 「証人の確保と申し立てには時間がかかる。その間、ノアはどこにも雇われないよう、こちらも手を打てる」

 「それは難しいと思います」

 「なぜだ」

 カランと、ドアベルが鳴った。


 扉が開いた。

 黒いコートの男が入ってきた。

 ダリウス・クレインだ。

 その後ろに、五十代の男性と、二十代の女性が続いた。

 落ち着いた身のこなし。上質な服の素材。庶民ではない。

 クレスタ侯爵と、エレナだった。

 ゴルドンが振り返った。

 振り返った瞬間、その顔が初めて動いた。

 「……クレイン中佐」

 「ゴルドン・アクアント」

 ダリウスは静かに言った。

 「王国情報省として、確認したいことがある」

 ゴルドンが俺を見た。

 俺はグラスを磨きながら、微笑んだ。

 「続けてください」


 ダリウスはカウンターの端に立って、書類を一枚取り出した。

 「六ヶ月前、蒼天亭の地主であるオルタ氏に対して、アクアントギルドが行った土地の買収交渉の記録だ。この記録によると、買収価格は市場価格の三分の一以下だった」

 「市場価格より低い買収は違法ではない」

 「そうだ」

 ダリウスは続けた。

 「しかしオルタ氏の証言によると、買収交渉の際に『応じなければ、今後王都での商売に支障が出るかもしれない』という趣旨の発言があったとのことだ」

 「それはオルタ氏の主観的な解釈だ」

 「かもしれない。だが」

 ダリウスはもう一枚の書類を出した。

 「過去五年間で、アクアントギルドが関与した土地買収の案件が十七件ある。そのうち十三件で、交渉担当者が同一人物だ。そして十三件全てで、最終的な買収価格が市場価格の三分の一以下になっている」

 沈黙が落ちた。

 「これが偶然だとは、情報省は考えていない」

 ゴルドンの弁護士の一人が、耳元に何かを囁いた。

 ゴルドンは小さく頷いた。

 「……捜査が入るということか」

 「現時点では任意の確認だ。ただし」

 ダリウスはゴルドンを真っ直ぐに見た。

 「協力的な姿勢を見せていただければ、それを考慮する」


 次に、クレスタ侯爵が進み出た。

 エレナの父親だ。六十代の、落ち着いた目をした男だ。

 「アクアントさん」

 穏やかな声だった。

 「北部の農家、クルーツ農園はご存知ですね」

 ゴルドンが少し間を置いた。

 「……蒼天果の仕入れ先だ。現在はアクアントと取引している」

 「そうです。しかし六ヶ月前まで、その農園はノア・ブラント氏と六年間の直接契約を結んでいました。その契約書の原本が、現在もクルーツ農園に保管されています」

 ゴルドンは黙った。

 「原本を確認しましたが、契約は今年の末まで有効です。つまりノア氏との契約が生きている期間中に、アクアントギルドが別途取引を始めたことになる」

 「農家が自主的に取引先を変えることは――」

 「変えることは自由です」

 侯爵は続けた。

 「ただし、クルーツ農園の当主は『変えざるを得なかった』と証言しています。具体的には、ノア氏との契約を続けた場合、王都への出荷ルートで支障が出ると示唆されたとのことです」

 弁護士の二人が、また動いた。

 今度は先ほどより、動きが大きかった。


 ゴルドンは長い間、黙っていた。

 計算していた。

 損得を、止まらずに計算していた。

 それが俺にはわかった。

 この男は怒らない。怒鳴らない。脅さない。

 ただ、最も損が少ない選択肢を探し続ける。

 やがてゴルドンが口を開いた。

 「……一つ聞いていいか」

 俺を見た。

 「なぜここまでする。お前にとって、ノアは何だ」

 「来てくださった方に必要なものをお出しするのが仕事です」

 「ノアはまだ客でもない」

 「昨夜、カウンターに座りました。それで十分です」

 ゴルドンはしばらく俺を見た。

 それから、小さく鼻で笑った。

 「……変わった店だ」

 「よく言われます」


 交渉がまとまったのは、一時間後のことだった。

 ゴルドンが出した条件は三つだった。

 一つ。ノアとの合意書を白紙に戻す。

 二つ。クルーツ農園との取引を、来年の末で終了する。ノア・ブラントが希望した場合、農園との直接契約を妨げない。

 三つ。情報省の任意確認に、全面的に協力する。

 ダリウスがそれを受け取って、文書にまとめた。

 ゴルドンが署名した。

 「これでいいか」

 ダリウスを見て、言った。

 「結構です」

 ゴルドンは立ち上がった。

 弁護士二人を連れて、出口に向かった。

 扉の前で、一度だけ振り返った。

 俺を見た。

 「バーテンダーとは面白い商売だな」

 「そうですか」

 「情報を売らず、酒も飲めず、カウンターから出ない。なのに、こういう結果になる」

 「来てくださった方のおかげです」

 ゴルドンは短く笑った。

 「また来るかもしれない」

 「いつでもどうぞ」

 「その時は酒を飲む。お前が飲めないのは知っている。だからこそ、何を出してくるか興味がある」

 扉が、静かに閉まった。


 残ったのは、ダリウスとクレスタ侯爵、エレナの三人だった。

 ダリウスがカウンターに座った。

 「水以外のものを頼むと言った」

 「覚えています」

 「任せる」

 俺はアイテムボックスに手を入れた。

 今夜のダリウスに必要なものを考えた。

 三日間眠れなかった先週とは違う。今夜は「仕事をやりきった」夜だ。

 取り出したのは三つ。

 深みのある赤い「烈果」――強い香りと、長い余韻を持つ果物だ。

 十年熟成の麦のウイスキー。

 そして岩塩を一粒。

 グラスに大きな氷を一つ入れた。その上に烈果を搾って、ウイスキーを注ぐ。最後に岩塩を一粒だけ、氷の上に乗せた。

 溶けながら、塩がウイスキーの中に沈んでいく。

 深い赤と琥珀が混ざり合って、グラスの底が暗く輝いた。

 「名前は」とダリウスが聞いた。

 「『仕事終わりの一杯』にしようと思います」

 ダリウスは少し間を置いて、グラスを手に取った。

 一口飲んで、目を細めた。

 「……強い。でも後味が丸い」

 「岩塩が角を取ります」

 「なるほど」

 男は二口飲んで、グラスをカウンターに置いた。

 「貸しを一つ使ったと手紙に書いていた」

 「はい」

 「これで相殺か」

 「いいえ」

 ダリウスが俺を見た。

 「俺が水一杯の時、あなたは情報をくれました。今夜は俺があなたの役に立った。これは貸し借りなしです」

 「……そういう計算か」

 「バーテンダーとしての計算です」

 ダリウスはしばらく俺を見てから、また一口飲んだ。

 「嫌いじゃない計算だ」


 エレナが隣に座った。

 「私にも何か作ってください」

 「何がいいですか」

 「お任せします。あなたが決めてください」

 「わかりました」

 今夜のエレナは、三話の時と全然違う顔をしていた。

 あの夜は追い詰められていた。今夜は、余裕がある。

 でも目の奥に、まだ何かある。

 (SOMA)

 ――婚約が白紙になったことで、次の縁談の話が父親から出ている。本人はまだ何も言っていないが、気にしている。

 俺は夜想果と星脈水と、今夜は少しだけ白ワインを加えたモクテルを作った。

 先週より、少しだけ大人の味にした。

 エレナが一口飲んで、目を丸くした。

 「……先週と違う」

 「先週より少し強くしました」

 「なんで」

 「先週のあなたには、甘さが必要でした。今夜は違います」

 エレナは少し間を置いて、また一口飲んだ。

 「……私のこと、全部わかるの?」

 「全部はわかりません」

 「でも大体わかる」

 「大体は」

 エレナは小さく笑った。

 「嫌な店ね」

 「よく言われます」

 「でも、また来たくなる」

 「それは良かったです」


 クレスタ侯爵は、カウンターには座らなかった。

 エレナの後ろに立って、娘がモクテルを飲む様子を見ていた。

 やがて、静かに俺に言った。

 「この店に、娘がお世話になったそうで」

 「こちらこそ、今夜はありがとうございました」

 「いや」

 侯爵は首を振った。

 「娘の婚約の件は、私の不明だった。この店がなければ、エレナは取り返しのつかないことになっていた」

 「……侯爵」

 「一つだけ聞いていいか」

 俺を見た。

 「あなたは、なぜそこまでするのですか。エレナは初対面だったでしょう」

 俺は少し考えてから、答えた。

 「扉を叩いた方に、続きを生きる理由を見つけてもらいたいだけです。それがこの店の仕事なので」

 侯爵は長い間、俺を見ていた。

 それから、深く頷いた。

 「……いい店だ」

 「ありがとうございます」

 「近いうちに、また来させてもらう。今度は俺自身の話を聞いてほしい」

 「お待ちしています」


 三人が帰った後、店は静かになった。

 ルナが俺の隣に来た。

 「すごかった」

 「何がですか」

 「全部。おにーさんが何もしてないのに、全部決まった」

 「何もしていないわけじゃないですよ」

 「でも、怒鳴らなかったし、脅さなかったし、剣も抜かなかった」

 「必要なかったので」

 ルナは少し考えてから、また言った。

 「おにーさんが一番怖い人だと思う、この店の中で」

 俺は手を止めた。

 「そうですか」

 「うん。ヴァルドさんは剣が怖い。おにーさんは、もっと別のところが怖い」

 「どういうところが」

 ルナが少し考えた。

 「全部わかってるのに、全部言わないところ」

 俺は何も言わなかった。

 ルナはそれ以上も言わなかった。

 二人で、カウンターを磨いた。


 深夜、ヴァルドが巡回から戻ってきた頃、扉が開いた。

 ノアだった。

 俺を見て、ヴァルドを見て、ルナを見た。

 それから、カウンターに向かって歩いてきた。

 椅子に座った。

 「決めた」

 俺はグラスを磨く手を止めた。

 「聞かせてください」

 「ここで働く」

 短かった。

 「ただし、条件がある」

 「どうぞ」

 「俺が作りたいものを、作らせてくれ。お前の指示は受けない。厨房のことはこちらに任せる」

 「わかりました」

 「客への接し方は、お前のやり方を尊重する。でも料理と食材の選定は俺が決める」

 「それで構いません」

 「もう一つ」

 ノアは俺を真っ直ぐに見た。

 「蒼天亭を取り戻す。ここで働きながら、それをやる。邪魔しないでくれ」

 「むしろ、手伝います」

 ノアが少し止まった。

 「……ゴルドンの件は」

 「解決しました」

 「いつ」

 「今夜」

 ノアは俺を見た。

 長い間、見ていた。

 「……お前は」

 「バーテンダーです」

 「それだけか」

 「それだけです」

 ノアは息を吐いた。

 それから、カウンターに手をついた。

 「蒼天果のカクテル。あれと同じものは、もう作れないだろう。アイテムボックスにあった最後の一つだったと思う」

 「そうですね」

 「なぜ俺のために使った」

 俺はグラスを棚に戻しながら、答えた。

 「あなたが料理をやめたまま終わるには、もったいなさすぎると思ったので」

 ノアは何も言わなかった。

 俺も何も言わなかった。

 「……一杯くれ」

 「何がいいですか」

 「お前が決めてくれ。今夜は任せる」

 初めて聞いた言葉だった。


 俺はアイテムボックスに手を入れた。

 今夜のノアに必要なものを考えた。

 六ヶ月間、料理をやめていた男が、今夜、前に進む決断をした。

 甘いものでもなく、強いものでもない。

 必要なのは、「始まり」の一杯だ。

 取り出したのは四つ。

 青白く透き通った「新芽果」――この季節に出始める、若い果物だ。まだ完全に熟していない。少し青い。でも香りだけは、どこまでも真っ直ぐに伸びていく。

 透明な蒸留酒。

 炭酸水。

 そして、蜂蜜を一滴。

 新芽果を薄く切って、グラスの内側に沿わせた。

 蒸留酒を底に少し注いで、炭酸水で満たす。

 泡が立ち上がる。新芽果の青い香りが、炭酸と一緒に立ち上がった。

 最後に蜂蜜を一滴だけ、中心に落とした。

 蜂蜜が沈みながら、細い糸を引いた。

 完全には甘くない。でも、ほんの少しの甘みが、青い香りを丸くする。

 「名前は」

 俺はグラスをノアの前に置いた。

 「『始まりの一杯』にしようと思います」

 ノアはグラスを手に取った。

 一口飲んだ。

 目を閉じた。

 「……青い」

 「新芽果はまだ熟していません。でも香りは一番強い時期です」

 「……なるほど」

 ノアはもう一口飲んだ。

 「料理に似ている」

 「どういう意味ですか」

 「完成していないものほど、伸びしろがある」

 俺は何も言わなかった。

 ノアが残りをゆっくりと飲み干した。

 グラスをカウンターに置いた。

 「……明日から来る」

 「お待ちしています」

 「厨房、今夜見せてくれ」

 「どうぞ」

 ノアが立ち上がった。

 厨房に向かいながら、一度だけ振り返った。

 「お代は」

 「今夜はサービスです」

 「世話になる気はないと言った」

 「明日からは払ってもらいます」

 ノアは少し間を置いて、また歩き出した。

 厨房の扉が、開いた。


 ルナが俺の隣に来た。

 「ノアさん、仲間になったの?」

 「なったみたいですね」

 「怖い顔してるのに」

 「仕事の顔です」

 「おにーさんも怖い顔するよね、たまに」

 「仕事の顔ですよ」

 ルナは少し考えてから、厨房を見た。

 中から、ノアが棚を確認している音がした。

 食材を一つずつ手に取って、確かめている。

 「あの人、料理好きなんだね」

 「好きじゃない人は、あんな目で食材を見ません」

 「……うん。そうだね」

 ルナが俺を見た。

 「おにーさんも、バーテンダーが好き?」

 「好きですよ」

 「飲めないのに?」

 「飲めないから、好きなんだと思います」

 ルナは少し考えてから、頷いた。

 「なんとなくわかる」

 「わかりますか」

 「あたしも、スラムにいた時のことが好きじゃなかった。でも、あそこにいたから料理を覚えた。だから今、ノアさんに『美味い』って言ってもらえた」

 俺は手を止めた。

 この子は、十歳だ。

 「そうですね」

 「だから、できないこととか、嫌いなこととかって、無駄じゃないのかもしれない」

 俺はグラスを磨きながら、頷いた。

 「無駄じゃないですよ。一つも」


 (SOMA)

 ――零。

 (なんだ)

 ――今夜の状況を整理する。現在のBAR ZEROの構成員:零、ルナ、ヴァルド、ノア。来週、ガルドが三回目の来店。アリシアの件は評議会が来週中に中間報告を出す予定だ。ヴァルドの冤罪は来月に第一回の審問がある。

 (順調だな)

 ――そうだ。ただし零、一つ報告がある。

 (なんだ)

 ――この店の存在が、王都の外に届き始めている。隣国の商人がこの店を調べていると、今夜の時点で三件の情報が入った。

 「隣国」

 ――そういうことだ。噂が国境を越えた。

 俺はカウンターに手をついた。

 開店十日目。

 零、ルナ、ヴァルド、ノア。

 四人になった。

 それでもまだ、足りなくなる予感がしていた。


 厨房から、ノアの声がした。

 「ここの食材、どこから仕入れている」

 「アイテムボックスから出しています」

 「……そのアイテムボックスとやらは、どこでも手に入るのか」

 「俺専用のスキルです」

 「つまり、俺が料理で使いたい素材は、お前に頼むしかない」

 「当面はそうなります」

 しばらく間があった。

 「……お前に主導権を握られるのは気に入らない」

 「そうですね」

 「でも、素材の質は悪くない。むしろ見たことのない食材が多い」

 「異世界のものが多いので」

 「……料理の幅が広がる」

 俺は小さく笑った。

 ノアが嫌いだと言った店に、今、ノアがいる。

 厨房の中で、食材を一つずつ確かめながら。

 明日から作るものを、もう考えているのだと思った。

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