第5話「BAR ZEROの夜明け」
開店五日目の夕方、ヴァルドが俺に言った。
「昨夜の二人が、今日の昼間から増えている。今は路地の入口に三人、裏口に二人、屋根の上に一人。計六人が外を囲んでいる」
「七人のはずですが」
「もう一人いる。路地に入らず、百メートル離れた場所から全体を見ている。指揮官だ」
さすがだと思った。
俺のSOMAが掴んでいた情報と、一人も違わない。
「夜になってから動きますか」
「ああ。客足が途絶えた頃を狙う。店の灯りが消えてから、あるいは消える前に脅しをかける。どちらかだ」
「消える前ですね。俺を直接脅す方が目的に近い」
ヴァルドは頷いた。
「俺は入口に立つ。六人が前から来ても、指揮官が動いても、一人も通さない」
「ヴァルドさんが怪我をするのは困ります」
男は低く笑った。
「三年ぶりに言われた言葉だ」
俺はカウンターに向かいながら、ルナを呼んだ。
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ルナは階段の途中に座って、話を聞いていた。
盗み聞きではない。隠す必要もないと思って、わざと聞こえるように話していた。
「今夜、外が騒がしくなるかもしれない」
ルナは頷いた。
「二階から出るな、だよね」
「そうだ」
「わかった」
即答だった。
四日間一緒にいて、この子が無駄に怖がらないことはわかっていた。でも今夜だけは、それが少し心配だった。
「怖いか」
ルナは少し考えてから、答えた。
「……ちょっとだけ」
「正直でいい」
「でも、おにーさんとヴァルドさんがいるから、大丈夫だと思ってる」
俺は何も言わなかった。
言葉より先に、グラスを一つ持ってきた。
深い赤紫色の液体が入っている。夜想果と蜂蜜と、鎮静効果のある静月草のモクテルだ。
「これを飲んでから上に行け。よく眠れる」
ルナはグラスを受け取って、一口飲んだ。
「……甘い」
「甘くないと眠れないだろう」
ルナは残りを飲み干して、グラスを返した。
階段を上りながら、一度だけ振り返った。
「おにーさん」
「なんだ」
「……朝、ごはん作って待ってる」
それだけ言って、上に消えた。
俺はグラスを受け取って、カウンターを磨いた。
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夜になった。
店を開けた。
今夜は客が来ないとわかっていた。路地の外を六人が固めている限り、一般の客は近づけない。
それでも開けた。
BAR ZEROは今夜も営業している。それを示すために。
ヴァルドは入口の内側に立った。腕を組んで、目を閉じている。眠っているように見えるが、俺は知っている。この男は全ての感覚を外に向けながら、完全に静止できる。
俺はカウンターを磨き続けた。
(SOMA、状況は)
――指揮官が動いた。路地に入ってくる。残り六人は配置についたまま。今夜は「脅し」から入るつもりだ。店を壊すのはその後の話になる。
(指揮官の名前は)
――クロウ・ファング。バルザン伯爵家が長年雇っている私設護衛の隊長だ。元々は王国の特殊部隊出身。腕は確かだが、プライドが高い。交渉の余地がある人間ではない。
(他に何かあるか)
SOMAが一拍置いた。
――クロウ自身の情報がある。使うかどうかはあなたが判断しろ。
(聞かせろ)
情報が流れ込んできた。
俺は黙って整理した。
グラスを棚に戻して、新しいグラスを一つ取り出した。
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扉が、乱暴に開いた。
入ってきたのは、四十代の男だった。
長い黒髪を後ろで束ね、左目に古い傷がある。体つきは引き締まっていて、動きに無駄がない。一目で、戦場を知っている人間だとわかった。
男は店内を見回した。
カウンターに立つ俺。入口脇に立つヴァルド。二人だけだ。
クロウは口の端を上げた。
「随分と余裕だな」
「いらっしゃいませ」
俺は微笑んだ。
「何をお飲みになりますか」
男の顔が、一瞬だけ止まった。
「……酒を飲みに来たわけじゃない」
「わかっています」
「なら話が早い。この店を今夜限りで閉めろ。主人への伝言はそれだけだ」
「伝言の依頼主はバルザン伯爵ですね」
クロウの目が細くなった。
「……お前が情報屋か」
「バーテンダーです」
「どちらでもいい。答えを聞かせろ」
俺はグラスをカウンターに置いた。
「断ります」
短い沈黙があった。
クロウは肩をすくめた。
「そうか。なら」
「クロウさん」
俺は静かに遮った。
「座ってください。話があります」
「話など――」
「五分だけ」
俺はグラスを男の前に押し出した。
「バーテンダーとして、一つだけお伝えしたいことがある」
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クロウは警戒を崩さないまま、カウンターの前に立った。
座りはしない。それでいい。
「手短に言え」
「バルザン伯爵の息子、ロイド・バルザン。五年前の東区の火事の件、ご存知ですか」
クロウの目が、ほんの少し動いた。
知っている。
俺はSOMAの情報を確認しながら、続けた。
「あなたはその火事の三日後、バルザン家に雇われています。時期的に、何かを知ってしまったから口を塞ぐ意味で雇われたのか、あるいは知った上で雇われたのか。どちらかだ」
「……何が言いたい」
「あなたが知っている内容と、今夜俺がここで持っている証拠の内容は、おそらく一致します」
クロウは口を閉じた。
「その証拠は、昨日の時点で王国情報省に渡っています」
男の体が、わずかに固まった。
「婚約発表は明日の予定でしたが、今朝の時点でクレスタ侯爵が発表の延期を決めています。理由はもうおわかりですね」
「…………」
「バルザン伯爵が今夜この店を潰しても、証拠は既にない。情報省が動いている。あなたが今夜ここでやることは、何も変えない」
クロウは長い間、俺を見ていた。
戦場を知っている目が、初めて迷っていた。
「……お前は、なぜそれを俺に言う」
「あなたに選択肢を持って帰ってほしいからです」
俺はグラスを、もう少しだけ前に押した。
「一杯だけ飲んでいってください。タダでいいです」
「……俺を懐柔しようとしているのか」
「違います」
俺は静かに答えた。
「あなたは元々、王国の特殊部隊出身だ。正しいことのために剣を持った人間のはずです。今夜ここで何かをしても、あなたの剣の意味は何も変わらない」
クロウは長い沈黙の後、低く言った。
「……俺の過去を調べたのか」
「情報が入ってくるんです。勝手に」
男は俺を見て、それからヴァルドを見た。
ヴァルドは入口に立ったまま、腕を組んで目を閉じている。
クロウは小さく息を吐いた。
「……グラスをくれ」
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クロウがグラスを受け取った瞬間だった。
二階から、音がした。
階段を降りてくる、小さな足音だ。
俺の体が固まった。
(ルナ)
扉が、バンと開いた。
外から、二人の男が踏み込んできた。
クロウの合図を待ちきれなかったのか、あるいは別の指示があったのか。二人の男はヴァルドを無視して、店内に踏み込んで。
そこで止まった。
階段の途中に、小さな女の子が立っていたからだ。
ルナだった。
寝間着のまま、大きな目を見開いて、男たちを見ている。
男の一人が、無言でルナに手を伸ばした。
俺が声を出すより、速かった。
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鋼の音がした。
ヴァルドが剣を抜いた。
敵に向けて、ではなかった。
刃が、男の腕の前に、水平に割り込んだ。
触れていない。ルナにも、男にも。
ただ、その刃が「ここから先は通さない」という意志そのものとして、空気を断ち切っていた。
男が、固まった。
ヴァルドの目が、静かに男を見ていた。
怒っていない。叫んでいない。
ただ、冷たく、深く、確実に。
「この子に触れるな」
それだけだった。
それだけで、男は後ずさった。
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カランと、ドアベルが鳴った。
外から、もう一人が入ってきた。
黒いコートの男だった。
ダリウス・クレインだ。
その後ろに、私服の男が四人続いた。全員、目が据わっている。情報省の人間だ。
ダリウスは店内を見渡して、クロウを見て、ヴァルドを見て、最後に俺を見た。
「遅くなった」
「いいえ」
俺は答えた。
「ちょうど良いです」
ダリウスは懐から一枚の書状を取り出した。
「バルザン伯爵家の私設護衛による不法行為の現行犯。全員、情報省の権限で身柄を確保する」
クロウは書状を一瞥した。
それから、静かに剣を置いた。
外にいた残りの五人も、ダリウスの部下に囲まれて動けなくなっていた。
あっけない幕切れだった。
でも、こういうものだ。
本当の力というのは、使った瞬間に終わる。
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騒ぎが収まったのは、一時間後のことだった。
ダリウスが最後に残って、カウンターに座った。
「水をくれ」
「今夜はそれ以外もいいですよ」
ダリウスは少し考えた。
「……では、何でもいい。あなたに任せる」
初めて聞く言葉だった。
俺はアイテムボックスに手を入れた。
今夜のダリウスに必要なものは、強いものじゃない。
三日間、眠れずに動き続けた体に必要なのは、解放だ。
取り出したのは三つ。
琥珀色に熟れた「安果」――体の緊張をほぐす成分を持つ果物。
透明な「山脈の水」――ミネラルを豊富に含んだ湧き水。
そして、少量の白ワイン。
シンプルに、安果を絞って、山脈の水で割る。白ワインを最後に少しだけ加えると、琥珀色の液体がわずかに金色を帯びた。
「名前は」
「三日ぶりの眠り、にしておきます」
ダリウスは小さく鼻を鳴らした。
一口飲んで、目を閉じた。
「……柔らかい味だ」
「今夜はそれでいいです」
男は二口、三口と飲んだ。
少しずつ、肩の力が抜けていくのがわかった。
「エレナ・クレスタが婚約発表の延期を勝ち取った。クレスタ侯爵も状況を把握して、バルザン家との縁談を白紙に戻す方向だ」
「それは良かった」
「ロイド・バルザンの件は、評議会が動く。時間はかかるが、逃げられない」
「ダリウスさんが動いてくれたおかげです」
男はグラスを置いて、俺を見た。
「……俺は水一杯の恩で動いたわけじゃない」
「わかっています」
「正しいことだったから動いた。それだけだ」
「それで十分です」
ダリウスはしばらく俺を見ていた。
それから、また一口飲んだ。
「クロウ・ファングが、今夜お前と話した内容を正直に話した。全員の中で唯一、自分の判断で剣を置いた人間だ」
「そうですか」
「お前が何を言ったか、大体わかる」
「バーテンダーの話をしただけです」
「……そうか」
ダリウスは残りを飲み干した。
立ち上がりながら、財布を取り出した。
「お代は」
「今夜のカクテル一杯分です」
「安すぎる」
「適正価格です」
ダリウスは金を置いた。今度は俺も受け取った。
男は帽子を被り直しながら、扉に向かった。
「また来る」
「お待ちしています」
「次は水以外のものを最初から頼む」
「ゆっくり選んでください」
ダリウスは短く笑って、夜の裏路地へ消えた。
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全員が帰った後、ヴァルドがカウンターに来た。
「一つだけ言っておく」
「なんですか」
「あの子が降りてきた時、踏み込んできた男より先にルナに気づいていた。止める間があったのに、入口から動く判断ができなかった」
俺は手を止めた。
「入口を離れたら、残りの五人が一斉に入ってきた可能性がある」
「わかってる」
ヴァルドは静かに続けた。
「だから判断は間違っていない。ただ、結果としてあの子が危ない場面を作った。それは事実だ。次は別の方法を考える」
俺はしばらく男を見てから、頷いた。
「わかりました。一緒に考えましょう」
ヴァルドは短く頷いて、入口の定位置に戻った。
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二階から足音がした。
ルナが降りてきた。
寝間着のまま、少しだけ眠そうな目をしている。
「……終わった?」
「終わった」
「ヴァルドさん、剣抜いてた」
「見てたのか」
「ちょっとだけ」
俺は小さく息を吐いた。
「お前は二階から出るなと言ったはずだ」
「……うん」
ルナは少し俯いた。
「でも、なんか音がしたから。おにーさんのことが心配で」
俺は何も言わなかった。
叱ろうかと思ったが、やめた。
「次は出るな」
「……わかった」
「ヴァルドさんが守る。俺も守る。だからお前は上にいろ」
ルナは頷いた。
それから、顔を上げて。
「ヴァルドさんの剣、速かった」
「そうだな」
「あの人、すごい人だね」
俺はカウンターを磨きながら、答えた。
「すごい人が、うちの店にいる」
ルナは少し考えてから、また言った。
「……おにーさんも、すごい人だよ」
「俺はバーテンダーだ」
「バーテンダーが一番すごいんじゃないの、この店」
俺は手を止めた。
それから、小さく笑った。
「早く寝ろ」
「はーい」
ルナが階段を上がっていく。
途中で振り返った。
「おにーさん、朝ごはん、なに食べたい?」
「なんでもいい」
「じゃあスープ作る」
「頼む」
小さな足音が、二階へ消えた。
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深夜、俺は一人でカウンターを磨いていた。
ヴァルドは入口で目を閉じている。
外は静かだった。
開店五日間。
冤罪で追放された魔法師。引退寸前の剣聖。命がけの縁談を止めた令嬢。破産寸前の商人。部下を救った情報省の中佐。
そして今夜、七人の刃から店を守った元騎士と、スラムの子供。
(SOMA)
――わかってる。
(今後の見通しを教えろ)
――エレナの件が王都の上流階級に完全に広まる。明日から、この店に来たいと考える人間の層が変わる。今までは「困った人間」が来ていた。これからは「この店を利用したい人間」も来る。
「質が変わる、か」
――そういうことだ。貴族、商人、ギルドマスター。中には敵意を持った人間も来る。
「準備が必要だな」
――もう一人、仲間が必要だと思う。
「誰だ」
SOMAが一拍置いた。
――来週、ガルドが来る。その時、一緒に来る人間がいる。ガルドが「自分の代わりに紹介したい」と言って連れてくる若者だ。
「どんな人間だ」
――天才だ。料理と接客に関しては、この世界で右に出る者がいない。ただし問題がある。
「なんだ」
――この店が嫌いらしい。今の時点では。
「嫌いな店に来るのか」
――ガルドに無理矢理連れてこられる。
俺はしばらく考えた。
それから、小さく笑った。
(最高じゃないか)
――そう思うのはあなただけだ。
俺はグラスを棚に戻した。
開店五日目の夜が、静かに終わっていく。
裏路地の、小さなバー。
でもこの店は今夜から、少しだけ違う場所になった気がした。
七人の刃を受け止めて、一滴の血も流さず、朝を迎えようとしている。
それで十分だった。
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**≪第5話・了≫**
**次話――「この店が嫌いだ」と言いながら、男はカウンターに座った。ガルドが連れてきたその天才は、俺が出した一杯のカクテルを飲んで、三秒間黙った後に言った。「もう一杯、くれ」**




