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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第4話「守らせてくれ」


 その男が来たのは、朝だった。


 俺とルナが朝食を食べ終えて、店の掃除を始めた頃。


 裏路地の入口に、大きな影が立っていた。


 身長は二メートルを超えている。


 肩幅が広く、首が太く、腕の筋肉が薄いシャツを押し上げている。年齢は三十代半ばだろうか。短く刈り込んだ黒髪に、顎に無精髭。右の眉の上に、古い刀傷が一本走っている。


 だが一番目を引いたのは、その目だった。


 鋭い。戦場で人間を見続けてきた目だ。


 その目が、俺を真っ直ぐに捉えていた。


 男はゆっくりと歩いてきて、扉の前で立ち止まった。


 一拍置いて、口を開いた。


 「守らせてくれ」


 雇ってくれ、ではなかった。


 俺はモップを持ったまま、男を見た。


 「まず中に入ってください。立ち話はしません」


---


 男はカウンターに座った。


 背筋が真っ直ぐだった。軍人の姿勢だ。しかし全体から漂う疲弊は、昨日今日のものじゃない。


 ルナが厨房から顔を出して、男を見て、すぐに引っ込んだ。


 (SOMA)


 ――名前はヴァルド・クロイス。元・王国第一騎士団、副団長。三年前、国境での戦闘中に「命令違反」の罪で追放処分。しかし実態は、上官の不正を告発したことへの報復だ。以降、各地を転々とし、昨夜この街の宿で所持金が尽きた。今朝、宿を出た。


 (どうやってこの店を知った)


 ――昨夜、宿の酒場でガルドの話を耳にした。「双剣の剣聖が裏路地のバーで救われた」という噂だ。ガルドの名前に反応して、詳細を聞き込んで、今朝直接来た。


 つまり、自分の意志で来た。


 SOMAが仕向けたのは「噂が届く場所に彼がいること」だけで、足を動かしたのはこの男自身だ。


 俺はカウンターに、昨夜準備しておいたグラスを置いた。


---


 「飲んでください」


 ヴァルドが、グラスを見た。


 深い琥珀色の液体だ。


 ウイスキーベースに、蜂蜜と乾燥させた薬草を漬け込んだもの。胃を温め、疲労を抜く。腹が減った体に染みる一杯だ。


 「……金がない」


 「知ってます。サービスです」


 ヴァルドは少し間を置いて、グラスを手に取った。


 一口飲んだ瞬間、目が細くなった。


 「……温かい」


 「昨夜から仕込んでいました」


 男の目が、俺に向いた。


 「なぜ」


 「あなたが今朝来ることがわかっていたので」


 長い沈黙があった。


 ヴァルドはグラスをゆっくりと置いた。


 「……お前は何者だ」


 「バーテンダーです」


 「バーテンダーが、なぜ俺が来ることを」


 「情報が入ってくるんです。勝手に」


 男はしばらく俺を見ていた。


 それから、小さく息を吐いた。


 「……信じるしかないか」


---


 「聞かせてください」


 俺はカウンターに肘をついた。


 「三年前、何があったか」


 ヴァルドは一瞬だけ顔を強張らせた。


 それからグラスを両手で包んで、話し始めた。


 「国境の砦での話だ。俺が副団長だった頃、上官が現地の村から物資を横流しして私腹を肥やしていた。証拠を掴んで、団長に報告した。そうしたら」


 男は一度、口を閉じた。


 「翌月の戦闘で、俺は囮として最前線に送られた。生き残ったら『命令違反』の濡れ衣を着せられて追放処分だ」


 「上官の名前は」


 「……マルクス・ハイン。現在は第二騎士団の団長に昇進している」


 俺はSOMAに流した。


 三秒で返ってきた。


 ――確認済み。横流しの証拠は現在も王都の公文書館の特定区画に保管されている。場所は特定した。加えて、当時の戦闘に参加した生存者の中に、真実を知っている人間が二名いる。名前と現住所も把握している。


 俺は紙を一枚、カウンターに置いた。


 「証拠の場所と、証人二名の名前と住所です」


 ヴァルドが紙を見た。


 「……なんだこれは」


 「あなたの冤罪を晴らすための材料です」


 男の手が、紙の上で止まった。


 「三年間、誰もこれを」


 「誰も調べなかっただけです。真実はずっとそこにありました」


 ヴァルドはしばらく、紙を見つめていた。


 大きな手が、微かに震えていた。


 剣士の手でも、元騎士の手でもなく。


 三年間、ひとりで抱えてきた男の手だった。


---


 「……俺に、何をさせたい」


 ヴァルドが顔を上げた。


 目が赤い。泣いてはいない。でも泣く一歩手前の目だ。


 「さっき『守らせてくれ』と言いましたね」


 「ああ」


 「なぜ『雇ってくれ』じゃなかったんですか」


 ヴァルドは少し考えてから、答えた。


 「金のために動く気がなかったからだ。ガルドを救ったという話を聞いて、この店には守る価値があると思った。それだけだ」


 俺はグラスを磨く手を止めた。


 「明日の夜、この店に敵が来ます」


 ヴァルドの目が鋭くなった。


 「どんな相手だ」


 「大貴族の私設護衛。人数は五名から八名の間。目的はこの店の破壊と、俺への脅迫です」


 「理由は」


 「ある令嬢の婚約を壊す情報をここから出したので」


 男は一度だけ頷いた。


 「俺一人で足りるか」


 「十分です。あなたが入口に立っているだけで、プロの護衛は動けなくなる」


 ヴァルドは少し間を置いて、言った。


 「わかった。やる」


 「ありがとうございます」


 「礼はいらない」


 男はグラスを持ち上げて、残りを一口で飲み干した。


 「……この店を守ることが、今の俺にできる唯一まともなことだ」


---


 昼間、ヴァルドは二階の部屋の掃除を手伝った。


 ルナと二人で作業しているのを、厨房から横目で見ていた。


 ルナは最初、二メートル超えの男に完全に固まっていた。


 壁際でそろそろと動きながら、ヴァルドの一挙一動を警戒している。


 ヴァルドはそれに気づいているのに、無理に話しかけなかった。


 ただ黙って、重い荷物を運んで、棚を動かして、掃除をした。


 三十分ほど経った頃、ルナが小さな声で言った。


 「……その棚、もう少し右」


 ヴァルドは無言で棚を右にずらした。


 「もうちょっと」


 また動かした。


 「そこ」


 ヴァルドは棚から手を離して、ルナを見た。


 ルナが、じっと棚を見ている。


 「……うん、そこがいい」


 ヴァルドは短く「ああ」とだけ言った。


 それだけだった。


 でもその後、ルナの警戒が少しだけ薄れた気がした。


 (SOMA)


 ――子供の扱いが上手い。騎士団時代、孤児院への支援活動を個人で続けていたという記録がある。


 俺はそれを黙って聞いた。


 この男は、俺が思っていたより、ずっと真っ当な人間だ。


---


夜になった。

店を開けると、その夜最初の客が来た。


 四十代の男性だ。商人の服装をしているが、素材がいい。地方の有力商家か、あるいは小貴族か。


 男はカウンターに座って、周囲をちらちらと見回した。落ち着きがない。


 「いらっしゃいませ。何をお飲みになりますか」


 「な、なんでもいい。とにかく一杯くれ」


 声が裏返っている。


 ――鑑定完了。名前:オスカー・ベイン。王都の中堅商会「ベイン商会」の当主。三日前、取引先の大手商会から突然の契約破棄を通告された。理由は「信用調査の結果」。しかし実態はライバル商会による謀略だ。このままでは一ヶ月以内に商会が倒産する。


 俺はカウンターに手をついた。


 「少し、落ち着いてください」


 「落ち着ける状況じゃない。明日、主要取引先に呼ばれている。おそらく追加の契約破棄だ。もうおしまいだ」


 「おしまいではありません」


 オスカーが俺を見た。


 「……なんでわかる」


 「理由があります。まず一杯飲んでから、話を聞かせてください」


---


 今夜オスカーに作るのはカクテルだ。


 アイテムボックスから取り出したのは三つ。


 橙色に熟れた「炎果」――柑橘に似た強い香りと酸味を持つ果物。


 深い青の「夜露酒」――このあたりで広く飲まれる軽いアルコール。炭酸に近い口当たりを持つ。


 それと蜂蜜。


 シンプルな組み合わせだ。


 でも意図がある。


 炎果の酸味が、緊張で縮んだ胃を開く。夜露酒の軽い炭酸が、詰まった思考をほぐす。そこに蜂蜜の甘みが入ることで、体の力が抜ける。


 商談前の人間に必要なのは、勇気ではなく、冷静さだ。


 グラスに夜露酒を半分注いで、炎果を絞る。鮮やかな橙色がグラスに広がった。最後に蜂蜜を一滴、中心に落とす。


 蜂蜜が沈みながら、橙色の中で細い糸を引いた。


 「どうぞ」


 オスカーはグラスを受け取って、一口飲んだ。


 「……ん」


 もう一口、飲んだ。


 「……少し、落ち着いた気がする」


 「それでいいです。では話を聞かせてください」


---


 オスカーの話を十分聞いて、SOMAの情報と照合した。


 「ライバル商会の名前は、カルテル商会ですか」


 オスカーが目を丸くした。


 「……なぜ知っている」


 「信用調査の結果を操作したのはカルテル商会です。王都の信用調査機関に顔が利く人物を買収して、ベイン商会の評価を意図的に下げた。証拠の書類が調査機関の保管庫に残っています」


 オスカーの顔が、みるみる変わった。


 「それを証明できれば」


 「契約破棄は全て無効にできます。加えて、カルテル商会への損害賠償請求も可能です」


 「……証拠は」


 俺は紙をカウンターに置いた。


 「証拠の場所と、話を聞いてくれる王都の法務官の名前です。明日の商談の前に動けますか」


 オスカーは紙を手に取った。


 読みながら、その手が震えていた。


 「……動ける。朝一番で動く」


 「明日の商談は、自信を持って臨んでください。あなたの商会は潰れません」


 オスカーは顔を上げた。


 目が赤くなっていた。


 「……あんた、本当に何者なんだ」


 「バーテンダーです」


 「バーテンダーが、なんでこんな」


 「商売繁盛を願っているので」と俺は言った。「あなたの商会が立ち直れば、またここに飲みに来てくれる」


 オスカーは一瞬、呆気に取られて。


 それから、腹の底から笑った。


 三日ぶりの笑顔だろうと思った。


---


 オスカーが帰った後、入口近くの椅子にヴァルドが座っていた。


 腕を組んで、目を閉じている。眠っているのかと思ったが、俺が近づくと目が開いた。


 「客が多いな」


 「三日目にしては」


 「毎回、紙を渡してるのか」


 「必要な人には」


 ヴァルドは少し考えてから、言った。


 「……情報は売らないと聞いたが」


 「売りません」


 「タダで渡すのか」


 「一杯のカクテルやモクテルの代金に、全部含まれています」


 男は低く笑った。


 「商売にならないな」


 「今はそれでいいです」


 俺はカウンターに戻りながら、続けた。


 「この店の価値は、情報の値段じゃない。ここで救われた人間の数が、やがてこの店を守るようになる。それが本当の資産です」


 ヴァルドが、少し間を置いて答えた。


 「……騎士団で、似たようなことを言う上官がいた」


 「どんな人でしたか」


 「死んだ」


 静かな声だった。


 俺はそれ以上、何も聞かなかった。


---


 閉店間際、ルナがカウンターに来た。


 今日一日、掃除と皿洗いと、ヴァルドの手伝いをしていた。


 「おにーさん」


 「なんだ」


 「お客さんが帰る時、みんな顔が変わってる」


 「そうか」


 「来た時より、強くなってる。みんな」


 俺はグラスを磨きながら、頷いた。


 「それが仕事だから」


 ルナは少し考えてから、また言った。


 「……あたしも、それがしたい」


 俺は手を止めた。


 「お客さんの顔が変わるのを、見るのが好き」


 ルナの目が、真っ直ぐに俺を見ていた。


 大きな目だ。スラムで育った目とは思えないほど、澄んでいる。


 「じゃあ、明日から少しずつ接客を覚えろ」


 「……教えてくれるの?」


 「ここで働くなら、必要な技術だ」


 ルナは一瞬だけ表情を崩した。


 ほんの少しだけ、笑った顔だった。


 すぐに戻したが、俺はしっかり見ていた。


---


 深夜、ヴァルドが巡回から戻ってきた。


 「外に、人の気配がある」


 俺はグラスを磨く手を止めた。


 「何人だ」


 「二人。路地の入口と裏口を抑えている。今夜は様子見だ。本格的に動くのは明日の夜だろう」


 「予定通りですね」


 「よく眠れるな」


 「眠れませんよ」


 俺は素直に答えた。


 「ただ、準備はできています」


 ヴァルドは俺を見て、短く笑った。


 「騎士団時代を思い出す」


 「戦場前夜ですか」


 「ああ。怖くない奴はいない。ただ、覚悟がある奴とない奴の違いがあるだけだ」


 「あなたは覚悟がある側ですか」


 「当たり前だ」


 男は腕を組んで、入口の前に立った。


 「一人も通さない」


 それだけ言って、目を閉じた。


 壁のようだった。


 動かない、揺れない、崩れない。


 俺は小さく息を吐いて、最後の一杯の仕込みを始めた。


---


 (SOMA)


 ――明日の夜、バルザン伯爵が動く。雇った人間の数は当初の予測より多い。七名だ。


 「ヴァルド一人で足りるか」


 ――足りる。ただし、同時に別の動きがある。


 (何だ)


 ――エレナが動いた。証拠を持ってダリウスに接触した。ダリウスが今夜から独自に動き始めている。


 「エレナと情報省が繋がった」


 ――そういうことだ。明日の夜は、バルザン伯爵とダリウスの動きが交差する。その中心に、この店がある。


 俺はカウンターに手をついた。


 開店四日目。


 一人だった店に、今夜は三人いる。


 ルナ、ヴァルド、そして俺。


 まだ足りない。でも、確実に形になってきている。


 明日の夜が、この店の最初の試練になる。


---


 「おにーさん」


 厨房から、ルナの声がした。


 「なんだ」


 「明日、怖いこと起きる?」


 俺は少し間を置いた。


 「起きるかもしれない」


 「……ヴァルドさんがいれば大丈夫?」


 「大丈夫です」


 ルナは少し黙って、また言った。


 「あたしは何をすればいい」


 十歳の子供が、逃げる選択肢を最初に聞かなかった。


 俺は答えた。


 「明日の夜は、二階の部屋から出るな。何があっても」


 「……わかった」


 「それがルナの仕事だ」


 「仕事、ね」


 小さな声で繰り返した。


 それから、水の音が始まった。


 最後の皿を洗っている音だ。


 俺はその音を聞きながら、明日の夜の段取りを頭の中で整理した。


 カウンターに立つ俺、入口に立つヴァルド、二階で待つルナ。


 三人の小さな店が、明日、最初の壁にぶつかる。


---


**≪第4話・了≫**


**次話――七人が裏路地を封鎖した夜、BAR ZEROの扉は内側から開いた。そしてヴァルドが初めて剣を抜いたのは、敵に向けてではなかった。**




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