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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第3話「お忍びの令嬢と、殺人犯の婚約者」


 目が覚めると、店の中から包丁の音がしていた。


 俺はカウンターの椅子から身を起こして、厨房を覗いた。


 ルナが、まな板の前に立っていた。


 背が低いせいで台に届かず、踏み台代わりに木箱を重ねて、その上に乗っている。小さな手で、真剣な顔をして、パンを切っていた。


 「……起きてたのか」


 「おにーさんが寝てたから、ご飯作ろうと思って」


 振り返らずに言う。


 「包丁、使えるのか」


 「スラムにいたんだよ。これくらい使えなきゃ生きていけない」


 それ以上は聞かなかった。


 俺は手を洗って、隣に並んだ。


 「卵、あるか」


 「あった。あと干し肉も」


 「じゃあスープを作る。パンはそのままでいい」


 「……おにーさん、料理もできるの」


 「バーテンダーは料理もする」


 ルナが初めて、こちらを見た。


 大きな目が、少し丸くなっている。


 「なんでもできるじゃん」


 「酒は飲めないけどな」


 ルナは一拍置いてから、小さく吹き出した。


---


 開店三日目の朝は、そうして始まった。


 スープを二人で食べながら、俺はルナに聞いた。


 「スラムに、戻るつもりはあるか」


 ルナの手が止まった。


 「……ない」


 「そうか」


 「戻っても、いいことない。あたしを売ろうとしたやつがいるから」


 俺はスープを一口飲んで、それ以上は聞かなかった。


 聞かなくていいことがある。


 「じゃあ、しばらくここにいろ。住み込みで働けるかどうか、様子を見る」


 ルナが顔を上げた。


 「……お金、払ってくれるの」


 「最初は少ないが、払う」


 「住む場所は」


 「二階の物置を片付ければ部屋になる。今日やる」


 ルナはしばらく俺を見ていた。


 それから、スープに視線を戻した。


 「……わかった」


 それだけ言った。


 感謝も、喜びも、表情に出さない子だった。


 スラムで育った子供の、精一杯の信頼の示し方だと思った。


---


 昼間、二人で物置を片付けた。


 ルナは黙って働いた。指示しなくても、次に何をすべきか判断して動く。


 (SOMA)


 ――言っただろう。記憶力と状況判断が規格外だ。


 (これは拾い物だな)


 ――同意する。


 夕方、簡単なベッドを作った。


 ルナは完成したベッドを見て、一言だけ言った。


 「……ありがとう」


 その声が、朝より少しだけ柔らかくなっていた。


---


 夜になった。


 俺はカウンターに立って、開店の準備をした。


 グラスを磨いて、氷を確認して、素材の在庫を確認する。


 いつも通りの作業だ。


 (SOMA、昨日の二十三名は)


 ――それを聞こうと思っていた。今夜、来ない。


 「全員か」


 ――全員だ。理由がある。今朝から、この裏路地の周辺に「人」が立っている。王都の貴族が雇う私設警備の連中だ。BAR ZEROへの客の流れを、物理的に遮断している。


 俺は手を止めた。


 「誰の指示だ」


 ――クレスタ侯爵家。王国北部を治める大貴族だ。当主ではなく、令嬢の直属の護衛が動いている。


 「令嬢が、俺の店に来たいのか」


 ――正確には「他の客がいない状態で来たい」のだと思われる。人払いをして、自分だけのために店を使おうとしている。


 俺は少し考えて、答えた。


 「好都合だ。一人の客に集中できる」


 ――同意する。ただし、零。


 SOMAが、珍しく一拍置いた。


 ――今夜の客は、今まで一番「時間がない」状態にある。


---


 午後九時を過ぎた頃、扉が開いた。


 入ってきたのは、フードを深く被った人物だった。


 背が高く、細く、立ち姿が綺麗だった。


 庶民の服を着ているが、体の動かし方が違う。幼い頃から礼法を叩き込まれた人間の、無意識の所作だ。


 フードを外すと、濃い茶色の髪が肩に落ちた。


 年齢は二十代前半。


 整った顔立ちだが、その目の下に濃い影がある。眠れていない。三日以上だと思った。


 女性は店内を一度見回して、カウンターに近づいた。


 椅子に座って、俺を正面から見た。


 「ここが、噂の店?」


 声が張っているが、微かに震えている。


 「BAR ZEROです。いらっしゃいませ」


 「……変装、バレてる?」


 「最初から」


 女性は小さく息を吐いた。


 「そう。まあいいわ」


 それから少し考えて、言った。


 「何か飲みたい。甘いもの。でもお酒は飲めないの」


 「かしこまりました」


---


 ――鑑定完了。名前:エレナ・クレスタ。クレスタ侯爵家の次女。三日後に婚約発表の予定がある。婚約相手はバルザン伯爵家の嫡男、ロイド・バルザン。


 俺はSOMAの情報を受け取りながら、エレナの目を見た。


 甘いものが飲みたい、と言った。


 でもその目は、甘さを求めていない。


 追い詰められた人間の目だ。


 (続けろ)


 ――エレナ本人は婚約に反対しているが、父親である侯爵が強引に進めている。理由は財政難だ。バルザン伯爵家からの持参金で侯爵家の負債を埋める算段になっている。しかし問題はそこじゃない。零、婚約相手のロイド・バルザンの情報を確認しろ。


 (見せろ)


 一瞬で、情報が流れ込んできた。


 俺の手が、止まった。


 (……これは)


 ――そういうことだ。エレナは「なんとなく嫌な予感がする」という段階で来ている。本当の意味での危険を、まだ把握していない。


 俺はゆっくりと、素材を取り出し始めた。


---


 今夜作るのはモクテルだ。


 アイテムボックスから取り出したのは四つ。


 深みのある赤紫色をした「夜想果」――このあたりでは夜にしか採れない希少なフルーツで、甘みの中に複雑な香りを持つ。


 透明な「星脈水」――高山の岩盤を通過した天然水で、微かに甘い。


 白く濁った「月乳」――エルフが蜂から採取する、コクのある甘みを持つ液体。


 最後に、薄く削った氷。


 グラスは背の高いもの、クリスタルに近い透明度の高いものを選んだ。


 まず星脈水を半分まで注ぐ。


 次に月乳をゆっくりと、グラスの縁を伝わせるように加えた。


 透明の水の上に、白い層が浮かぶ。


 そこに、夜想果を薄く切ってグラスの内側に貼り付けていく。赤紫色の果肉が、白い層を通して透けて見える。


 最後に、細かく削った氷を静かに乗せた。


 氷の間から、夜想果の色素がじわりと滲んで、グラスの中で赤と白と透明が混ざり合う。


 まるで夜明け前の空だった。


 日が出る直前の、暗さと明るさが混在する、あの色。


 エレナが、息を呑む気配があった。


 「……綺麗」


 「名前は『夜明けのモクテル』にしようと思います」と俺は言った。「今、考えました」


 エレナが小さく笑った。


 三日ぶりの笑顔だと、なぜか思った。


---


 一口飲んだ瞬間、エレナの目が少し丸くなった。


 「……甘いのに、後味がすっきりしてる。不思議な味」


 「夜想果は甘みが強いですが、星脈水が後味を洗い流します」


 エレナはもう一口飲んで、グラスをカウンターに置いた。


 少しだけ、肩の力が抜けた気がした。


 「ねえ」


 「はい」


 「変な質問していい?」


 「どうぞ」


 エレナは俺を真っ直ぐ見た。


 「婚約って、逃げられると思う?」


 俺はグラスを磨く手を止めずに、答えた。


 「状況によります。エレナさんの場合は」


 彼女の目が、わずかに揺れた。


 「……名前、知ってるの」


 「来てくださった方の情報は、自然と入ってきます」


 「……そう」


 エレナは視線をグラスに落とした。


 「父が決めた婚約なの。相手のこと、あまり知らない。でも、なんか嫌な予感がして。根拠はないんだけど」


 「根拠なら、あります」


 エレナの視線が、上がった。


 「婚約相手のロイド・バルザンについて、お話しして良いですか」


 「……どういう意味」


 俺はカウンターに、一枚の紙を置いた。


 エレナは紙を手に取った。


 読み始めた瞬間、その顔から血の気が引いた。


 「これは……」


 「五年前、王都の東区で起きた火事があります。公式には『失火』として処理されました。その火事で、商家の一家が全員亡くなっています。生存者はゼロ。その家の財産は全て、隣接するバルザン伯爵家に渡りました」


 エレナの手が、震え始めた。


 「……ロイドが」


 「放火の証拠と、現場から逃げる人物を目撃した証人の名前と住所も、その紙に書いてあります」


 「…………」


 「根拠のない予感は、ほとんどの場合、根拠があります」


 静寂が落ちた。


 エレナはしばらく、紙を見つめていた。


 やがて、唇を噛んだ。


 「……父は、これを知って婚約を進めているの?」


 「知りません。財政難で視野が狭くなっている状態です。あなたの父親は悪人ではない」


 エレナは目を閉じた。


 長い息を吐いた。


 「……この情報、どうすれば」


 「使い方はお任せします」と俺は言った。「ただし」


 エレナが顔を上げる。


 「婚約発表は三日後ですよね。時間があまりない」


 「わかってる」


 「王都には、この件を扱える立場の人間が一人います。名前と連絡先も紙の裏に書きました」


 エレナは裏を確認した。


 また、表情が変わった。


 「……この人は信用できるの?」


 「昨日、俺が水一杯で恩を売っておきました」


 エレナが俺を見た。


 一秒間があって、彼女は小さく笑った。


 「……あなた、何者なの」


 「バーテンダーです」


 「本当に?」


 「本当に」


 エレナはグラスの残りを、一息に飲み干した。


---


 「お代は」


 「モクテル一杯分です」


 「安すぎる」


 「適正価格です」


 エレナは財布を取り出して、俺が言った金額の三倍を置いた。


 「釣りはいらない」


 「受け取れません」


 「強情ね」


 「ポリシーなので」


 俺は余分な分をそのまま返した。


 エレナは受け取って、フードを被り直した。


 立ち上がる際、一度だけカウンターを見た。


 「また来ていい?」


 「いつでも」


 「次は何を飲ませてくれるの」


 「来てからのお楽しみです」


 エレナは小さく鼻を鳴らした。


 それから扉を開けて、夜の裏路地へ消えた。


---


 扉が閉まった後、厨房からルナが顔を出した。


 「……お客さん、帰った?」


 「ああ」


 「綺麗な人だったね。貴族?」


 「ノーコメント」


 ルナは少し考えてから、言った。


 「あの人、泣きそうな顔してた。でも泣かなかった」


 俺は手を止めた。


 「見てたのか」


 「扉の隙間から、ちょっとだけ」


 叱ろうかと思ったが、やめた。


 「帰る時は、泣きそうじゃなかっただろう」


 ルナは少し考えてから、答えた。


 「……うん。なんか、強くなってた」


 俺はグラスを磨きながら、頷いた。


 それでいい。


 それが、この仕事の答えだ。


---


 (SOMA)


 ――わかってる。言うな。


 (言う。エレナが持ち出した紙の内容が、明日中に王都の複数の貴族に伝わる。そうなると)


 ――BAR ZEROの名前が、一気に上流階級まで届く。


 「どのくらいの規模で」


 ――三日以内に、この店を「使いたい」と考える有力者が十名以上動く。その中に、一人だけ「潰したい」と考える人間がいる。


 俺の手が、止まった。


 「誰だ」


 ――ロイド・バルザンの父親。バルザン伯爵本人だ。息子の犯罪を握られていると気づいた時点で、この店を標的にする。


 「いつ動く」


 ――早ければ、明後日の夜。


 俺はグラスを棚に戻した。


 明後日。


 丁度、開店五日目だ。


 (SOMA、護衛の手配はできるか)


 ――候補が一人いる。


 「誰だ」


 ――ガルドの件を調べていて見つけた。かつて王国最強の騎士団に所属していたが、冤罪で追放された男だ。現在は王都の宿で、所持金が底をつくのを待っている状態にある。


 「明日、来るか」


 ――声をかければ来る。彼も「続きを生きる理由」を失いかけている一人だ。


 俺は少し考えた。


 カウンターに手をついて、天井を見上げた。


 開店三日目で、情報省の中佐、剣聖、侯爵家の令嬢、スラムの子供。


 そして明後日、この店に敵が来る。


 ひとりでは、もう限界に近い。


 「明日の夜、その男が自分でここに来るように仕向けることはできるか」


 SOMAが一拍置いた。


 ――できる。ただし零、一つだけ言っておく。


 「なんだ」


 ――その男が来た時、あなたは彼に一杯だけ奢ることになる。タダで。


 「なんで俺が」


 ――彼の所持金が、今夜で尽きるからだ。


 俺は小さく息を吐いた。


 「わかった」


 グラスをもう一つ、棚から取り出した。


 明日の夜に備えて、準備しておく一杯がある。


---


 厨房から、ルナの声が聞こえた。


 「おにーさん、これ洗っていい?」


 「頼む」


 「食器の置き場所、どこ?」


 「棚の右側」


 「……わかった」


 水の音が始まった。


 小さな手が、皿を洗っている音だ。


 俺はその音を聞きながら、カウンターを磨いた。


 三日目の夜が、静かに更けていく。


---


**≪第3話・了≫**


**次話――「所持金が今夜で尽きる男」が、翌朝、BAR ZEROの扉を叩いた。その男が俺に言った最初の言葉は、「雇ってくれ」ではなかった。「守らせてくれ」だった。**



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