第2話「剣聖の涙」
開店から、一夜が明けた。
昨夜の最後、黒いコートの男が扉を開けた瞬間のことを思い出す。
「噂の店とは、ここか」
低い声でそう言って、店内を一度だけ見回した。俺と目が合って、男は何も言わずに扉を閉めた。
偵察だ、と思った。
品定めをして、出直してくる人間の目だった。
銀座でも何度か見た。初回は必ず「確認」だけして帰る。そういう人間に限って、翌日から常連になる。
果たして。
開店二日目の夜、黒いコートの男は戻ってきた。
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男はカウンターの一番端に座った。
背筋が真っ直ぐで、視線が鋭く、やたらと出口に近い席を選ぶ。
職業病だろうと思った。
「何を飲みますか」
「……水でいい」
「かしこまりました」
グラスに水を注いで、静かに置いた。男はそれを一口飲んで、俺をじっと見た。
「お前が情報屋か」
「バーテンダーです」
「同じことだろう」
「全然違います」
俺は穏やかに、しかしはっきりと言った。
「情報屋は情報を売る。俺は売りません。ただ、来てくださった方に必要なものをお出しするだけです」
男の目が、わずかに動いた。
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――零。補足情報を送る。名前はダリウス・クレイン。王国情報省第三部隊長、階級は中佐。昨夜は偵察目的だったが、今夜の来店目的は別だ。
(わかってる。見ればわかる)
俺はSOMAを一旦止めて、自分の目で男を観察した。
水を飲む手が、微かに震えている。
目の下に濃い影。昨夜より増している。少なくとも四日は碌に眠れていない。
「中佐」
男の肩が、ぴくりと動いた。
「俺を誰だと――」
「今夜は内偵が目的じゃないですよね」
静寂。
男はしばらく俺を見てから、ゆっくりと息を吐いた。
「……部下が、ひとり消えた。四日前から行方不明だ。組織内部に漏れがある可能性があって、誰にも相談できない」
「部下の名前と、最後に確認できた場所を教えてください」
男が答えた。
俺はSOMAに流した。三秒で返ってきた。
――生存確認済み。現在、東地区の廃教会に潜伏中。内部犯は情報省第一部の副部長。証拠の所在も特定した。
俺は紙を一枚、カウンターに置いた。
「住所と、内部犯の名前と、証拠の場所です」
男が紙を見た瞬間、その顔から表情が消えた。
「……お代は」
「水一杯分でいいです」
「そんなわけが――」
「またいつか、飲みに来てください」
俺は微笑んだ。
「次は水以外のものを、ゆっくり飲んでいただきたい」
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ダリウスが店を出たのは十五分後のことだった。
扉が閉まる直前、男は一度だけ振り返った。何かを言いかけて、やめた。
それで十分だった。
(SOMA)
――わかってる。ついでに報告しておく。アリシアが今朝、魔法評議会に再審請求書類を提出した。受理された。
「早いな」
――昨夜証拠を受け取って、夜明け前から動いていたようだ。あの子は追い詰められるほど行動が速くなるタイプだ。
俺は小さく息を吐いた。
昨夜渡した封筒が、もう動き始めている。
カウンターを拭きながら、次の客を待った。
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午後十一時を回った頃、扉が開いた。
入ってきたのは、大きな男だった。
身長は二メートル近い。肩幅が広く、首が太く、腕が異様に長い。腰に帯びた剣は、俺の身長ほどの長さがある。
だがその男は、老人のように背中を丸めて歩いていた。
年齢は四十代前半か。彫りの深い顔に、深い疲労と、もっと深い何かが刻み込まれている。
男はカウンターに座ると、乱暴にコートを脱いで、どさりと隣の椅子に放った。
「酒をくれ。一番強いやつを」
低い声だった。
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――鑑定完了。名前:ガルド・ラインハルト。異名「双剣の剣聖」。王国最強格の剣士として二十年間、無敗を誇る。しかし――
俺はSOMAを聞きながら、男の手を見た。
グローブを外した両手が、カウンターの上に置かれている。
指が、微かに震えていた。
剣士の手じゃない。
(続けろ)
――六ヶ月前から急激に剣技が衰え始め、先月、格下の剣士に初めて遅れを取った。本人は「老い」だと思っているが、実際は慢性的な毒の蓄積による神経障害だ。毒の種類はシルバーリーフ由来の遅効性神経毒。少量を長期間摂取すると末梢神経にダメージを与える。ただし現時点では回復可能だ。投薬タイミングは――
(わかった)
「お酒の前に、一つだけ聞かせてください」
俺はグラスを磨きながら、穏やかに言った。
「最近、手が震えることはありますか」
ガルドの目が、鋭くなった。
「……なんだと」
「朝起き抜けに、指先がうまく動かない感覚は。特に右手の小指と薬指」
男の顔から、血の気が引いた。
大きな手が、カウンターの上でゆっくりと握りしめられた。
「なぜそれを知っている」
「バーテンダーは、手を見ます」
俺は静かに答えた。
「剣士の手は正直ですよ。どんな顔をしていても、手は隠せない」
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ガルドはしばらく黙っていた。
やがて、絞り出すように言った。
「……俺は、終わりなのか」
その声に、二十年分の重さがあった。
最強と呼ばれた男が、初めて誰かに問いかけている。
俺はその言葉を、丁寧に受け取った。
「老いじゃないです」
「何?」
「毒です。シルバーリーフ由来の遅効性神経毒を、少量ずつ摂取させられています。おそらく半年以上。食事か、日常的に飲んでいる何かに混入されている」
ガルドの大きな体が、石のように固まった。
「……誰が」
「それはこれから話します。先に、一杯作らせてください」
俺はアイテムボックスに手を入れた。
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取り出したのは、五つの素材だ。
深い緑色の「森脈草」――神経の炎症を鎮める効果を持つ希少薬草。
透明に近い白い実「霜の雫」――毒素の排出を促進する。
金色の蜂蜜。
炭酸水。
そして燻した樽で三年熟成させた麦のウイスキー。
ガルドは剣士だ。毒に侵されているが、アルコールの代謝能力は常人の三倍ある。これは薬として使える濃度だ。
シェイカーを手に取る。
氷を入れ、素材を順番に加えていく。
銀座でも、こういう一杯があった。
医者でも弁護士でもない。でも、目の前の人間に必要なものが、グラスの中で形になっていく瞬間がある。
バーテンダーにしか作れないものが、確かにある。
シェイカーを振る。
氷が砕ける音が、静かな店内に低く響いた。
グラスに注ぐと、深い翠色の液体が底から淡く光を帯びた。
森の中に降る雨のような色だった。
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「名前はありません」
俺はグラスをガルドの前に置いた。
「ただ、あなたの神経を今夜から修復し始める一杯です。三ヶ月、毎週飲み続ければ、六ヶ月前の状態に戻れる」
「……本当か」
「嘘をついてもメリットがないので」
ガルドは、恐る恐るグラスを持った。
大きな手が、またわずかに震えている。
一口、飲んだ。
目を閉じた。
俺は黙って待った。
男の喉が、ゆっくりと動く。
「……なんだこれは」
呟くような声だった。
「苦いのに、温かい。飲んだことのない味だ」
「森脈草は苦いですが、効きます」
「……体の奥が、じわじわと」
ガルドの顔が、初めて緩んだ。
二十年分の鎧が、一杯のグラスの前で少しだけ外れた顔だった。
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俺はカウンターに一枚の紙を置いた。
「毒を盛った人物の名前と、証拠の所在です。あなたが所属する剣聖協会の中に、特定の貴族から金を受け取っている人間がいます。理由はあなたが引退した後の『最強』の称号争いに関係している。詳細は紙に書きました」
ガルドは紙を手に取った。
読んだ瞬間、目が細くなった。
「……この名前は」
「知っている人間ですか」
「……二十年来の付き人だ」
沈黙が落ちた。
「そうですか」
俺はそれ以上、何も言わなかった。
その沈黙の重さを、言葉で埋めるのはバーテンダーの仕事じゃない。
ガルドはグラスの残りを、ゆっくりと飲み干した。
長い時間をかけて。
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「……お代は」
「今夜の一杯分です。ただし」
俺は続けた。
「来週もいらしてください。三ヶ月、毎週です」
ガルドが俺を見た。
「お前は何者だ」
「バーテンダーです」
「それだけか」
「それだけです」
男は低く笑った。
初めて見た、この男の笑顔だった。
「……わかった。来週来る」
「お待ちしています」
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ガルドが店を出た後、俺はカウンターを拭いた。
(SOMA)
――わかってる。さっきから店の外に、一人いる。ガルドとは無関係。昨日も同じ場所にいた。
「昨日も?」
――年齢は十歳前後。女。住所不定。昨夜はアリシアが出てきた頃から路地の影で様子を見ていた。今夜もガルドが出て行ったのを確認してから、動いていない。
俺の手が、止まった。
(食事は)
――最後に摂ったのは二日以上前だ。今夜が限界に近い。
俺はカウンターを離れた。
厨房から、余ったパンとスープを持って、扉を開けた。
裏路地の、ガス灯の影の中。
小さな影が、壁に背中をつけて座っていた。
大きな目が、俺を見上げる。
怯えているのに、逃げない。逃げる体力が、もう残っていないのかもしれない。
俺はしゃがんで、パンとスープを地面に置いた。
「食べていいよ」
影が動かない。
「毒は入ってない。バーテンダーが客に毒を盛ったら、商売あがったりだから」
小さな笑い声がした。
それから小さな手が、パンに伸びた。
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「……おにーさん、この店の人?」
スープを飲みながら、女の子が聞いた。
「そう」
「何してる店なの」
「バーだよ。お酒とか飲み物を出す店」
「ふうん」
少し考えてから、また聞いた。
「あたし、住む場所ないんだけど」
俺は空を見上げた。
開店二日目の夜空だ。昨夜より星が多い。
「名前は」
「……ルナ」
「そうか」
俺は立ち上がって、店の扉を開けた。
「とりあえず今夜だけ、中で寝ていいよ」
ルナが顔を上げた。
大きな目が、俺をじっと見ている。
「なんで」
「腹が減った子供を外に置いとくバーテンダーは、センスがない」
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その夜、ルナはカウンターの中の毛布で眠った。
丸まった背中が、小さく上下している。
俺はグラスを磨きながら、SOMAに話しかけた。
(開店二日目で、情報省の中佐、剣聖、スラムの子供か)
――想定の範囲内だ。それより零、明日の予約状況を確認しろ。
「まだ予約制にしてないぞ」
――してなくても来る。明日の夜、この店に来ようとしている人間が現時点で二十三名いる。
「昨日より増えてる」
――アリシアの再審請求が今朝、評議会内部で話題になった。ガルドは今夜、毒の証拠を掴んだ。口は勝手に動く。
俺は小さく息を吐いた。
一人でさばける数じゃなくなってきた。
眠るルナを見た。
小さな寝息が聞こえる。
(SOMA、この子の素質は)
一拍置いて、答えが返ってきた。
――記憶力が規格外だ。一度見た顔は永久に忘れない。感情の読み取り精度も異常に高い。それと、足が速い。
「足が速い」
――フロアを走り回るのに向いている、という意味だ。
俺はしばらく、眠るルナを見ていた。
それからグラスを棚に戻して、厨房の電気を落とした。
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明日から、少しだけ変わる。
そんな予感がしていた。
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**≪第2話・了≫**
**次話――翌夜、二十三人は来なかった。来たのは、たった一人。しかしその一人が、BAR ZEROの命運を変えることになる。**
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