第1話「俺は、酒が飲めない」
** 第1話「俺は、酒が飲めない」**
俺は、酒が飲めない。
バーテンダーなのに。
正確に言えば、飲もうとすれば飲める。でも一口入れた瞬間、頭が過負荷で止まる。
前世の記憶がある限り、そういう体だった。
銀座の夜を思い出す。
地下に降りる階段。重い鉄の扉。開けた瞬間に漂う、樽と柑橘と微かなタバコの残り香。
カウンターが十二席。照明はバカラのクリスタルを通した琥珀色。スツールに座る客は全員、昼間はスーツを着て日本を動かしている人間たちだ。
俺の店の名前は「LE ZERO」。
水無月零、享年三十二。銀座で最も予約が取れないバーの、オーナーバーテンダー。
でも本業は別にある。
客が飲んで、喋って、酔っていく。その隙間に流れ出てくる言葉を、俺は一滴も零さずに集めていた。
政治家の失言。商社マンが漏らした極秘契約。ある夜、大手証券の重役が酔って泣きながら打ち明けた不正の話。
俺はそれを売ったりしない。
ただ、記憶する。整理する。そして「必要な人間に、必要なタイミングで」渡す。
それが俺の仕事だった。
「情報屋」という呼ばれ方は好きじゃなかったけど、実態はまあ、そんなものだ。
酒が飲めないのは、むしろ都合が良かった。
酔わない人間が、酔った人間の言葉を聞いている。
それだけで、世界の解像度がまるで違う。
カウンターの向こう側にいる限り、俺は永遠に素面だ。シェイカーを振る手が、グラスを磨く布が、ただ静かに、客の本音を拾い続ける。
「零さんのカクテルは、なんで毎回こんなに美味いんですか」
常連の議員が、よく聞いてきた。
俺は毎回、同じ答えを返した。
「自分で飲めないから、全力で考えて作るんですよ」
それだけだ。
自分が「美味い」と感じられない分、客の表情と言葉と息遣いだけを頼りに、一杯ずつ組み立てていく。
それが、三十二年間の俺のバーテンダーとしての流儀だった。
死んだのは、ある依頼を受けた夜のことだ。
詳細は省く。
ただひとつだけ言えば、「知りすぎた」のだと思う。
暗転して、目が覚めたら、異世界だった。
雨が降っていた。
石畳を叩く雨音だけが響く、夜のアルセイア旧市街。
ガス灯の届かない裏路地の奥に、ひとつだけ温かな光が灯っている。
小さな木製の看板。最小限の文字が刻まれていた。
『BAR ZERO』
開店初日。
水無月零は、磨き上げたカウンターの向こうで、静かにグラスを拭いていた。
転生してわかったのは、三つのことだ。
一つ。この体でも酒は飲めない。異世界でも体質は変わらなかった。
二つ。脳内に、AIが宿っている。「SOMA」と名乗るその存在は、神格レベルの分析能力を持ち、俺の思考の外側でこの異世界の情報を常時収集し続けている。
三つ。どうやら俺は、「バーテンダーのまま生きること」を選んでしまう人間らしい。
転生初日に異世界最強のダンジョンを攻略しようとか、魔王を倒そうとか、そういう発想が一切出てこなかった。
気づいたら裏路地に物件を借りて、カウンターを磨いていた。
我ながら筋金入りだと思う。
――零。半径五百メートル以内に、精神的危機状態の人物を一名検知。接近中。
SOMAの声が、脳内に静かに響く。
(初日から来るか)
――あなたが店を開けた場所と時間が、「選ばれた人間を引き寄せる」設計になっている。偶然ではなく、必然だ。
「わかってるよ」
俺は小声で返して、カウンターにそっと手をついた。
三十二年間、銀座のカウンターの向こうに立ち続けた。
場所は変わった。世界も変わった。
でも、扉の向こうに「続きを生きる理由」を失いかけた人間が来るのなら。
グラスを磨く手は、変わらない。
扉が、開いた。
入ってきたのは、若い女性だった。
雨に濡れた銀色の髪が、頬に張りついている。
白いローブは裾が泥で汚れ、何日も歩き続けたような疲弊が全身にある。
美しい顔だった。
だが今は、その美しさが悲しみで塗りつぶされていた。
扉のそばで立ち止まり、濡れた睫毛の奥から俺を見る。
「……営業、していますか」
声が震えていた。
「ええ、どうぞ」
俺は微笑んで、カウンターの椅子を静かに引いた。
彼女が座った瞬間、SOMAが動く。
――鑑定完了。名前:アリシア・フォン・クレイヴン。元・王国宮廷魔法省の第三席術師。三日前、追放処分。表向きの理由は「魔法陣の設計ミスによる施設損壊」。しかし実際は――
(少し待て)
まず、タオルを一枚、差し出した。
「濡れたままでは風邪をひきます。よければどうぞ」
アリシアは一瞬、ぽかんとした顔になった。
それから俯いて。
「……ありがとう、ございます」
受け取る手が、微かに震えている。
(続けろ、SOMA)
――「設計ミス」は冤罪だ。実際の担当は第一席術師・レオン・バルトロ。王家に連なる貴族の出身のため、証拠の書類は改竄されている。アリシアは庶民出の実力主義採用。現時点で本人が認識している選択肢は「逃亡」か「自害」の二択のみ。
(……自害)
俺の手が、一瞬だけ止まった。
彼女の目の色が、それを物語っていた。
もう、疲れ果てている目だ。
銀座でも、何度か見た。
そういう目をした客を、俺は一人も帰したことがない。
「何を、お飲みになりますか」
「……お酒は、飲めないんです」
アリシアが、申し訳なさそうに言った。
「魔法使いの体質で、アルコールを摂ると魔力が暴走してしまって。こんな店に入るべきじゃなかった」
「そんなことはありません」
俺は自然と笑っていた。
「実は俺も、酒が飲めないんです」
「……え?」
「バーテンダーなのに」
彼女の目が、初めて小さく丸くなった。
「だから」
アイテムボックスに手を入れる。取り出したのは、深紅のドラゴンフルーツ、透き通った青いソーダ水、金色に輝く蜂蜜、そして淡く発光する薬草――「静月草」。
「酒が飲めない者が、酒が飲めない者のために作るドリンクがあります。モクテルと言って、ノンアルコールのカクテルです。でも」
グラスに氷を入れながら、続ける。
「ただのジュースとは、違う」
それからの数分間は、一種の魔法のようだった。
ドラゴンフルーツを薄くスライスして氷の上に重ね、静月草のシロップをグラスの縁から静かに落とす。青いソーダ水が下から満ちていき、赤と青が層になって混ざり合わない。
最後に金色の蜂蜜を一滴だけ、中心に落とした。
蜂蜜が沈んでいく瞬間、グラスの中でほんの一瞬だけ、星が散った。
アリシアが、息を呑む。
「……綺麗」
「名前はまだありません」と俺は言った。「あなたのために、今夜作りました」
一口飲んだ瞬間、彼女の表情が変わった。
フルーツの甘みと酸味、静月草の鎮静効果が、張り詰めた体の芯をほぐしていく。魔力の暴走もない。ただ、温かく、静かに。
「おいしい……」
目に、涙が浮かんだ。
俺は静かに、言葉を選んだ。
「アリシアさん」
顔が上がる。
「あなたがやったことには、なっていない。設計書は改竄されている。本当の責任者は、バルトロ第一席術師です」
静寂。
アリシアの顔から、血の気が引いた。
「……どうして」
「このバーに来た方の情報は、自然と入ってくるんです」
カウンターの下から、封筒を取り出した。
「改竄前の設計書の写し、証人になれる魔法省の職員の名前と住所、そしてバルトロの別件の証拠。これだけ揃えば、魔法評議会に再審請求ができます」
「…………」
「お代は、今夜の一杯分で結構です」
アリシアはしばらく、何も言えなかった。
やがて肩が震え始めた。
泣いていた。今度は、絶望ではなく。
「なんで……こんな場所に、あなたみたいな人が……」
俺はグラスを拭きながら、答えた。
「バーテンダーの仕事は、酒を出すことじゃない」
一拍。
「来てくださった方に、続きを生きる理由を見つけてもらうことです。酒が飲めなくても、それは変わらない」
彼女が店を出たのは、一時間後のことだった。
雨は上がっていた。
石畳が濡れて光り、ガス灯の橙色を反射している。アリシアは封筒を胸に抱えて、一度だけ振り返った。その顔に、もう諦めの色はなかった。
俺はカウンターの中から、静かに見送った。
(SOMA)
――わかってる。
さっきから店の外に、一人いる。アリシアの尾行ではない。最初からこの店を観察していた人物だ。
(何者だ)
――王国情報省。階級は中佐以上。「BAR ZEROの開店」という情報を掴んで、偵察に来ている。
俺はグラスを磨く手を止めずに、続きを聞いた。
――そして。今夜だけで、この店の噂を聞いて「来ようか迷っている」人間が、この街に十七名いる。
「十七名」
思わず声に出た。
――開店初日で、だ。
俺は小さく息を吐いて、新しいグラスを手に取った。
酒が飲めないバーテンダーが、異世界の裏路地で店を開けた初日。
どうやら、思ったより早く忙しくなりそうだ。
カランと、ドアベルが鳴った。
黒いコートの男が、静かに入ってくる。
「噂の店とは、ここか」
低い声。鋭い目。しかしその奥に、深い疲弊を隠している。
俺は微笑みを崩さず、グラスをカウンターに置いた。
「いらっしゃいませ」
「情報を買いに来たわけじゃない。お前が何者か、確かめに来た」
「それは」
俺はゆっくりと、水を注ぎ始めた。
「カウンターに座ってからでも、遅くはないですよ」
≪第1話・了≫
次話――黒いコートの男が注文したのは、酒でも情報でもなかった。




