第58話「その名前に、一杯を」
祝いの夜が、更けていた。
ガイたち三ツ星は、腹を満たし、傷の手当ても済んで、ようやく人心地ついていた。住人たちも、それぞれの場所で、穏やかにくつろいでいる。久しぶりに、店いっぱいに、人の温もりが満ちていた。
ルナが、シロを抱えて、俺の前に来た。そして、無邪気に聞いた。
「ねえ、おにーさん。この、みんなの集まり、なんて名前にするの?」
その問いに、店の中の話し声が、ふっと止んだ。
みんなが、俺を見ていた。ガイも、ティナも、コルムも。ガルダも、メイザも、ダリウスも。そして、ヴァルド、ノア、アリシア。誰もが、その答えを、待っている顔だった。
【SOMA】――零。いい頃合いだ。みんな、心のどこかで、待っていた。この場所が、名前を持つ日を。
俺は、グラスを磨く手を止めた。
「……そうですね。そろそろ、必要かもしれません」
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「名前か」ダリウスが、盃を傾けた。「ギルドとして、正式に登録するなら、名は要る。情報省に話を通すにも、看板がいる」
「かっこいいのがいい!」ガイが、身を乗り出した。「『暁の剣』とか、『黄金の牙』とか!」
「それは、あなたたちのパーティ名と、かぶります」ティナが、冷静に突っ込んだ。
「強そうな名前が、いいんじゃないか」ガルダが腕を組んだ。「『鋼の盟』とか」
「いかついねえ」メイザが、笑った。「あたしは、もっと、人が集まりやすい名前がいいよ。薬を買いに来やすいような」
みんなが、口々に案を出し合う。賑やかだった。だが、どれも、しっくりこない。
俺は、その様子を、黙って見ていた。
考えていたのは、この場所が、何なのか、ということだった。
剣士も、薬師も、鍛冶師も、魔法使いも。みんな、最初は、何かを失って、ここに来た。負けた者。名声を捨てた者。欲に溺れかけた者。名前すら、なかった者。
そして、ここで、もう一度、立ち上がった。
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アリシアが、静かに口を開いた。
「私が、初めてここに来た夜のことを、覚えています」彼女は、グラスを見つめた。「冤罪で、すべてを失って。死ぬことしか、考えていなかった。あの夜、零さんが、一杯を出してくれた」
店が、静かになった。
「あの一杯に、名前は、ありませんでした」アリシアは、俺を見た。「『今夜だけの、あなたのための一杯』と。零さんは、そう言いました」
俺は、その夜のことを、思い出した。雨の夜。追い詰められた、宮廷魔法師。星のような輝きが散った、一杯のモクテル。
「ここは」アリシアが続けた。「名前のない一杯から、始まった場所です」
ヴァルドが、低く言った。
「俺も、名を捨てて、ここに来た」元・第一騎士団副団長は、静かに言った。「騎士団の肩書きも、過去も、全部。ただの、用心棒として。それでも、零は、迎え入れた」
ノアが、ぼそりと言った。
「……俺も、だ」厨房から、背を向けたまま。「この店が、嫌いだった。それでも、ここにいる」
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俺は、棚の奥から、一本のボトルを取り出した。
きめ細かな泡が、底から、いくつも昇っていく酒。地の文で、俺だけが知っている。ドン・ペリニヨン。前の世界の、フランス・シャンパーニュ地方の名酒だ。その名は、ある修道士に由来する。目の不自由だった彼は、味覚と嗅覚だけを頼りに、この発泡酒を完成させたと言われる。彼が初めて、それを口にした時、こう叫んだという。「私は、星を飲んでいる」と。
何もないところから、星を生み出した男の、酒だった。
俺は、その場の全員に、小さなグラスを配り、注いでいった。泡が、灯りを受けて、きらきらと輝く。
「この酒は」俺は、静かに言った。「何もないところから、生まれました。造った人は、こう言ったそうです。『私は、星を飲んでいる』と」
みんなが、グラスの泡を見つめた。
「ここも、同じです」俺は言った。「何もない、裏路地から始まった。一人ひとりが、何かを失って、ゼロから、もう一度、立ち上がった場所です」
俺は、店の名前が刻まれた、入口の木の看板を見た。
**『BAR ZERO』**
「ゼロ。何もない、という意味です」俺は言った。「でも、ゼロは、終わりじゃない。すべての、始まりの数です。ここから、何でも、始められる」
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ルナが、目を輝かせて言った。
「じゃあ、おにーさんの名前と、おんなじだね!」
俺は、はっとした。
水無月零。俺の、名前。ゼロ。
「あたし、思うんだけど」ルナが、まっすぐに言った。「むずかしい名前じゃなくて、いい。だって、ここは、おにーさんが、ゼロから作った場所でしょ?」彼女は、にっこり笑った。「だから、『ゼロ』が、いいと思う。みんなが、ゼロから、やり直せる場所。『ギルド・ゼロ』!」
店の中が、静まり返った。
それから、誰からともなく、笑みが広がっていった。
「……いいな、それ」ガイが言った。「ギルド・ゼロ。ゼロから始める奴らの、ギルド」
「覚えやすいねえ」メイザが、笑った。
「悪くない」ガルダが、頷いた。
ダリウスが、盃を置いて、静かに言った。
「『ゼロ』か。何もないところから、すべてが始まる」彼は、口の端を上げた。「情報省への登録、明日にでも、通しておこう。ギルド・ゼロとして」
【SOMA】――零。いい名前だ。お前の名前で、お前の哲学で、この場所そのものだ。データ上も、これ以上の名は、出てこない。
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ヴァルドが、グラスを掲げた。
「零」彼は、まっすぐに俺を見た。「お前が、ここに作ったものに、名前がついた」
俺は、店の中を、もう一度、見渡した。
ゼロから始まった、みんなの居場所。剣を振る者も、薬を配る者も、鉄を打つ者も、名前を取り戻した者も。みんなが、ここで、もう一度、生き始めた。
俺は、自分のグラスに、水を注いだ。酒は、飲めない。それでも、今夜だけは、この水で、乾杯したかった。
「では」俺は、グラスを掲げた。「ギルド・ゼロの、はじまりに」
みんなが、グラスを掲げた。
「「「ギルド・ゼロに!」」」
きめ細かな泡が、いっせいに、星のように輝いた。
【SOMA】――零。これが、はじまりの一杯だ。
俺は、内心で、頷いた。名前のない一杯から始まった場所が、今、名前を持った。そして、その名前は、ここに集うすべての人間に、もう一度、星を飲ませる名前だった。
裏路地の、小さなバー。その名は、ギルド・ゼロ。
ここから、本当の物語が、始まる。
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≪第58話・了≫
次話――ギルド・ゼロが、正式に動き出した。だが、人が増え、依頼が増えれば、この小さな店だけでは、手狭になる。ある朝、ガルダが、俺に言った。「零。相談がある。あの地下の鉱脈のそばに……炉を、築かせてくれないか」。ギルドの、拠点づくりが始まろうとしていた。




