第55話「最初の依頼」
翌朝、店の前に、一人の青年が立っていた。
上等な身なりだが、顔は青ざめ、目の下に濃い隈がある。何日も眠っていない者の顔だった。彼は、俺が扉を開けるなり、すがるように言った。
「ここの店主は、顔が広いと、聞きました。困っている者がいれば、力のある人に、つないでくれると」声が震えていた。「どうか、力を貸してください。私の村が、もうすぐ、滅びます」
入口に立つヴァルドが、青年を一瞥した。武器はなく、敵意もない。それを見て取ると、ヴァルドはわずかに頷いた。通してよし、という合図だ。
【SOMA】――零。嘘や誇張はない。本気で追い詰められている。脈拍も、声の震えも、演技じゃない。
「まず、座ってください。話は、一杯飲んでからです」
俺は、温かい一杯を差し出した。青年は両手で受け取り、震える手で口に運ぶ。ひとくち飲むと、強張っていた肩が、わずかにほどけた。
「……すみません。昨日から、何も、口にしていなくて」
ノアが、厨房から黙って、温かいスープを差し出した。青年が、目を見開く。ノアは何も言わず、また厨房へ戻っていった。
「食べてから、話してください」俺は言った。
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青年は、スープで人心地つくと、訥々と語り始めた。
「私は、東の麓にある、小さな村の者です。名は、トマと申します」グラスを握りしめる。「半月ほど前から、村の井戸の水が、濁り始めました。飲んだ者が、次々と、高い熱を出して倒れています。子どもや、年寄りから」
「水が、濁った」
「はい。上流の、古い洞窟から、黒い水が、流れ出ているんです」トマの顔が歪んだ。「その洞窟に、何かいます。確かめに行った村の若い衆が、五人、誰も戻ってきませんでした」
【SOMA】――零。洞窟から流れ出る黒い水。戻らない人間。魔物か、毒を出す何かがいる可能性が高い。村単独では、まず、手に負えない。
(俺も、そう思います)
「領主に、助けを求めました。でも、こんな小さな村のために、騎士は出せないと」トマは俯いた。「もう、打つ手が……そんなとき、人づてに聞いたんです。裏路地のバーの店主は、身分に関わらず人を助ける、顔の広い男だと」
「トマさん」俺は、静かに言った。「待っていてください。今夜、力になれそうな人が、店に顔を出します」
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その夜、店に人が集まった。
地下から上がってきた暁の三ツ星。鉱脈の調査を終えたガルダ。薬を並べていたメイザ。そして、情報を持って立ち寄ったダリウス。住人たちも、それぞれの持ち場にいた。
俺は、トマの話を皆に伝えた。聞き終えると、最初に口を開いたのはメイザだった。
「黒い水で、高熱。子どもや年寄りから倒れる」眉をひそめる。「そりゃ、水に毒が混じってる。洞窟の中の、何かが出してる毒だ。放っておけば、村は全滅するよ」
「浄化の魔法で、水を清めるのは」俺は、アリシアに聞いた。
アリシアが、静かに首を振った。
「一時しのぎには、なります。ですが、元から毒が流れ続ける限り、いたちごっこです」論理的に続ける。「魔法で清めても、翌日にはまた濁る。毒の元――洞窟にいる何かを絶たない限り、村は救えません」
ヴァルドが、入口から低く言った。
「屈強な男が五人、誰も帰らん。相手は、単なる獣じゃない。狭い洞窟で複数を仕留める、毒持ちの大型の魔物の可能性が高い」
元・第一騎士団副団長の、的確な読みだった。
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「その魔物を、俺たち暁の三ツ星が……!」剣士が立ち上がった。
「坊や」ガルダが低く制した。「お前ら、駆け出し三人で行けると思うか」
剣士が言葉に詰まる。店の中が、静かになった。
俺は、カウンターの内側から口を開いた。
「整理させてください」
皆の視線が集まる。
「この依頼には、いくつもの技が要ります。洞窟の魔物と戦う力。毒を見極める知識。傷を治す薬。村人を救う処置。そして、安全な道を見つける情報」
【SOMA】――戦闘、毒の解析、治療、情報。今この店にいる人間で、その全てが埋まる。過不足がない。
「今夜は、たまたま。その技を持つ人が、ここに揃っています」
俺は、皆を見渡し、役割を整理していった。
「戦うのは、暁の三ツ星。ただし、ガルダさんに装備を整えてもらってから」
「あの鉱脈の鉄は、まだ間に合わん」ガルダが腕を組んだ。
「打ち直すには、鍛冶場がいる。鉱脈の鉄も、まだ精錬が済んでいない」
ガルダが腕を組んだ。
「だが、今ある三ツ星の武具を、一晩で、研ぎ直してやる。刃こぼれを修正して、切れ味を限界まで戻す。毒持ちの魔物相手なら、刃の鋭さが命綱だ。新しく打つのは、それからの話だ」
「毒の見極めと、村人の治療は、メイザさん」
「任せな」メイザがにっと笑う。「あたしも村まで行くよ。倒れた連中を、放っておけない」
「洞窟までの道と、領主への話は、ダリウスさん」
「地図と、最近の魔物の出没情報を用意する」ダリウスが言った。「領主への話も、情報省の名で通しておこう。後で揉めんようにな」
ダリウスが、ふっと口の端を上げた。
「……お前は、店から一歩も出ずに、人を動かすんだな」
「俺は、バーテンダーですから」俺は静かに言った。「ここで、皆さんに一杯ずつ出す。役割を整える。それが、俺の仕事です」
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ここで、ヴァルドが一歩前に出た。
「零。俺も、行くべきか」
俺は、少し考えてから首を振った。
「いえ。ヴァルドさんと、アリシアさんには、店に残ってほしい」静かに言う。「この店の地下には、守るべきものがあります。手薄になった隙を、突かれるわけにはいきません」
ヴァルドの目が、わずかに動いた。地下のダンジョン、その奥のゲート。その意味を、ヴァルドは誰よりわかっている。
「……承知した」ヴァルドは頷いた。「ここは、俺が守る。安心して、送り出せ」
「アリシアさんには、お願いが」俺は続けた。「三ツ星の魔法使いに、毒の魔物への対処を、教えてやってもらえますか。出発まで、わずかな時間ですが」
アリシアが、魔法使いの青年を見た。青年が、緊張した顔で背筋を伸ばす。
「毒持ちの魔物には、火が効きます」アリシアはよどみなく言った。「毒は、たいてい体液。燃やせば、毒を撒く前にひるませられる。詠唱を一つ、教えましょう。今夜中に覚えなさい」
「は、はい! ありがとうございます!」青年の目が輝いた。
宮廷魔法師と、駆け出しの魔法使い。短いが、確かな師弟の時間が、そこに生まれた。
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トマが、信じられないという顔で、皆を見回した。それから、ぼろぼろと涙をこぼした。
「……本当に、いいんですか。私たちには、お礼も、満足に」
「礼は、いりません」俺は言った。「村が助かって、あなたが笑って帰る。それが、礼です」
メイザが肩をすくめた。
「それに、貸しは作っておくもんさ。村が立ち直ったら、薬でも野菜でも、買わせてもらうよ」
商売人らしい一言に、張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
出発は、翌朝と決まった。
その夜、俺は関わる皆に、一杯ずつ酒を出した。
三ツ星には、力の湧く、麦の酒を。ガルダには、鉄を鍛える前の、静かな一杯を。メイザには、頭を冴えさせる、苦い一杯を。
地の文で、俺だけが知っている。ダリウスには、ラフロイグを選んだ。前の世界の、スコットランドはアイラ島の蒸留所。海藻と煙と、薬品のような独特の香りを持つ。好き嫌いがはっきり分かれる、孤高の酒だ。万人に媚びず、わかる者だけがわかる。情報省で、たった一人、影を歩くこの男に、ふさわしいと思った。
「妙な、香りだな」ダリウスがグラスを傾けた。「だが……嫌いじゃない」
「あなたに、似合うと思いまして」
ダリウスは、何も言わず、ただ口の端を上げた。
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ルナが、シロを抱えて、トマの隣に座った。
「おじさんの村、きっと、助かるよ」まっすぐに言う。「だって、ここに来た人は、みんな、帰るとき、笑ってるもん」
トマの目から、また涙がこぼれた。今度は、安堵の涙だった。
その様子を見ながら、俺は内心で呟いた。
(とうとう、店から、人が出ていきますね)
【SOMA】――ああ。これまでは、客が来て、帰るだけだった。だが、今度は、店に集まった者が、誰かを助けに外へ出ていく。残る者は、店を守る。役割が、はっきりと分かれた。
【SOMA】――零。これは、もう、バーの域を超えている。
俺は、グラスを磨きながら、静かに頷いた。
入口のヴァルドが、いつものように佇んでいる。アリシアは、魔法使いの青年に最後の助言を与えている。ノアは、皆の腹を満たす、明日の握り飯を黙々と握っていた。
裏路地の小さなバーが、初めて、一つの依頼のために、人を送り出す。それは、何かの、始まりの音だった。
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≪第55話・了≫
次話――翌朝、暁の三ツ星とメイザが、村へと旅立った。ガルダが徹夜で鍛え直した武具を背負い、トマが先導する。見送る俺に、ヴァルドが、ぽつりと言った。「店主。あいつらが無事に帰ったら、そのときは、本気で考えることだ。お前が作っているものの、名前を」




