第54話「薬と毒のあいだ」
ガルダが鉱脈に通い始めて、数日が過ぎた。
その日の営業前、俺は剣士に、ひとつ稽古をつけていた。といっても、剣を交えるわけじゃない。ヴァルドが、入口の定位置で、剣士の素振りを見ているのを、俺はカウンターから眺めていた。
「腰が、高い」ヴァルドが、低く言った。「一撃で倒そうとするな。お前の役目は、倒すことじゃない。仲間が態勢を整えるまで、敵を、足止めすることだ」
剣士が、はっとした顔をする。
「前衛は、いちばん死ににくい立ち方を覚えろ。死なずに、粘る。それが、駆け出しの前衛の、いちばんの仕事だ」
【SOMA】――零。ヴァルドの教え、的確だ。あの剣士、半年で見違える。素直に聞く耳がある。
俺は、内心で頷いた。一流が、隙間の時間に少し教えるだけで、駆け出しは、こんなにも変わる。
その時、扉が開いた。
---
入ってきたのは、女が一人。旅装の上から、薬草の青い匂いが漂った。腰には、たくさんの小瓶が、ぶら下がっている。年の頃は三十前後。目尻に、人懐っこい皺があった。
【SOMA】――零。あの小瓶、本物の薬だ。それも、相当な腕の。調合の精度が、匂いでわかる。素人じゃない。長年、現場で人を治してきた手だ。
女は、にっと笑って、カウンターに座った。
「旅の薬師でね。メイザという。この界隈で、うまい酒が飲めると聞いて、寄らせてもらったよ」女は言った。「一杯、もらえるかい。乾いた喉に、染みるやつを」
「零と申します。ようこそ」
俺はまず水を置いた。メイザは、それを一息に飲み、ふっと息をついた。
「気が利くね。喉が、からからだったよ」
---
俺は、棚から、深い緑色の酒を取り出した。薬草そのものの色をした、不思議な酒だ。
シャルトリューズ。前の世界の、フランスはグランド・シャルトルーズ修道院で造られる、薬草系のリキュールだ。百三十種類もの薬草を漬け込み、調合する。その正確な製法を知るのは、世界でたった二人の修道士だけ。彼らは、その秘密を守るため、決して同じ馬車には乗らないという。万一の事故で、製法が同時に失われないように。
俺は、小さなグラスに注いだ。
「これは、ある修道院で造られる酒です」客には、そう紹介する。「百三十種類もの薬草を、調合して造られています。あなたなら、この香りの複雑さが、わかるかもしれません」
メイザの目の色が、変わった。グラスを手に取り、鼻を近づける。薬師の顔だった。
「……すごい。一つ、二つじゃない。何十種類もの薬草が、層になってる」メイザは、感嘆の息を漏らした。「これを調合したのは、よほどの腕だね。素人にゃ、絶対に真似できない」
「完全な製法を知るのは、世界に二人だけだそうです」俺は言った。「その二人は、決して同じ馬車に乗らない。万一のことで、二人同時に失われたら、この製法が、永遠に消えてしまうから」
「……秘伝を、命がけで守ってるのか」メイザは、グラスを見つめた。
「守るべきものがあると、信じた人たちの酒です」
---
メイザは、酒を一口含んだ。長い間、その味を、舌の上で転がしていた。
「……あたしもね、昔は、もっと欲があったんだ」ぽつりと言った。「珍しい薬の処方を、独り占めしようとしたり。高く売りつけようとしたり」
「今は、違うんですか」
「違うね」メイザは、苦笑した。「あるとき、毒と薬は、紙一重だって、気づいてさ」彼女は、腰の小瓶を、指で弾いた。「同じ薬草でも、量を間違えりゃ毒になる。欲をかいて、効きを強くしすぎて……死なせかけたことが、あるんだ。患者を」
俺は、黙って、先を待った。
「それから、決めたのさ。薬は、儲けの道具じゃない。人を、治すものだって」メイザは、グラスを見つめた。「だから今は、適正な値段で、適正な薬を売る。それだけだ。……まあ、商売っ気が抜けないのは、性分でね」
俺は、少し笑った。
【SOMA】――零。この女、言葉に嘘がない。商魂はたくましいが、芯のところは、本物の医療者だ。信用していい。
---
その時、地下から、三ツ星が上がってきた。斥候の少女が、腕を押さえている。指の間から、血が滲んでいた。
「すみません、マスター! 訓練で、ちょっと、切っちゃって……」
メイザの動きが、早かった。
「見せな」言うが早いか、少女の腕を取る。傷を検め、腰の小瓶から、てきぱきと数本を選び出した。
「見せな」言うが早いか、少女の腕を取る。
傷を検め、腰の小瓶から、てきぱきと数本を選び出した。
「浅いね。だが、爪の傷は、たまに膿む。まず、これで洗って、こっちを塗っときな。三日で、塞がる」
少女が、目を丸くした。
「あ、ありがとうございます……あの、お代は」
「今日は、いらないよ。縁だからね」メイザは、傷に薬を塗りながら言った。「気に入ったら、また会ったときに買いな」
傷の手当ては、鮮やかだった。痛みが引いたのか、少女の表情が、ほっと緩む。
メイザは、手当てを終えると、俺を見た。
「店主。今の子は、ここの常連かい?」
「ええ。地下のダンジョンで、訓練をしています」俺は言った。「この店の地下に、ダンジョンがありましてね。俺が、管理を任されています。最近、あの三人組が、第一層で訓練を始めました」
メイザの目が、すっと細くなった。商売人の目だった。
---
「……なるほどね」メイザは、空のグラスを置いた。「冒険者が出入りするなら、傷を負う者も増える。薬の、需要が生まれる」
「そうかもしれません」
「店主、相談だ」メイザが、身を乗り出した。「あたしを、ここで店を開かせてくれないか。冒険者相手に、薬を売りたい。場所代は払う。あんたにも、損はさせないよ」
俺は、しばらくメイザを見た。それから、静かに言った。
「場所代は、いりません」
「……は?」メイザが、面食らった。
「ただし、一つだけ、お願いがあります」俺は言った。「うちのダンジョンで怪我をした者に、ちゃんとした薬を、適正な値で売ってください。それが、条件です」
メイザは、ぽかんと口を開けた。それから、声を上げて笑った。
「あんた、変わった店主だね! 金を取らないなんて」彼女は、目尻の皺を深くした。「いいよ。乗った。あたしの薬で、ここの冒険者は、一人も死なせない。約束する」
---
その夜、閉店後の店に、いつもの顔と、メイザが残っていた。
ノアが、夜食を並べていく。メイザの前には、消化にいい、優しい味の粥を置いた。
「薬師なら、胃にいいもんを食え」ノアが、ぶっきらぼうに言う。
「おや、料理人さんも、薬膳がわかるのかい」メイザが、面白そうに笑った。
「……死んだ親父の、受け売りだ」ノアは、それだけ言って、背を向けた。
アリシアが、お茶を淹れながら、メイザに聞いた。
「メイザさん。毒と薬は紙一重、と言いましたね。魔法も、同じです」彼女は、静かに言った。「人を癒す光の魔法も、使い方を誤れば、人を焼く。境界は、いつも、紙一重」
「魔法使いさんと、話が合いそうだ」メイザが、にやりと笑った。
ルナが、夜食を頬張りながら、指を折り始めた。
「剣のヴァルドさんに、魔法のアリシアせんせ。鍛冶のガルダさんに、薬のメイザさん」ルナは、目を輝かせた。「おにーさん。戦う人も、武器作る人も、傷治す人も、ぜんぶ揃ってきてる」
俺の手が、止まった。
【SOMA】――零。戦闘、探索、装備、治療、情報、兵站。一つの遠征に必要な役割が、この店に、ほぼ揃いつつある。意図せずに、な。
(兵站、ですか)
【SOMA】――軍隊や、大規模な冒険者パーティが持つ機能だ。それが、自然に、ここに集まってきている。これはもう、一つの「ギルド」と呼んでいい編成だ。
ギルド。その言葉が、初めて、俺の中で、形を持った。
「ルナ」俺は、静かに言った。「この人たちが、もし一つの旗の下に集まったら。どんなギルドにも、負けないかもしれませんね」
ルナの目が、きらきらと輝いた。
「裏路地の、ギルド……なんか、かっこいい!」
ヴァルドが、入口で、低く笑った。ノアが、肩をすくめる。アリシアが、お茶に口をつけた。メイザが、面白そうに、その光景を眺めている。
今夜も、この店は、続いている。そして、少しずつ、何か大きなものへと、姿を変え始めていた。
---
≪第54話・了≫
次話――翌朝、店の前に、一人の青年が立っていた。上等な身なりだが、顔は青ざめている。彼は、震える声で言った。「ここの店主は、顔が広いと聞きました。どうか、力を貸してください。私の村が、もうすぐ、滅びます」。集まり始めた者たちが、初めて、一つの依頼に向き合うことになる。**




