第52話「駆け出しの三人」
港町から戻って、数日が過ぎた。店に、いつもの日常が戻っていた。
カウンターの隅では、アリシアがルナに、魔法の基礎を教えている。ルナが小さな手のひらに、ぽうっと淡い光を灯すたび、アリシアが「もう少し、息を細く」と静かに指導していた。入口には、いつものようにヴァルド。厨房では、ノアが仕込みの手を動かしている。穏やかな夜だった。
その夜、扉が勢いよく開いた。
【SOMA】――零。三人。若い。武装しているが、殺気はない。気が立っているのは、武器のせいじゃない。負けた直後の、悔しさだ。
転がり込むように、三人の若者が入ってきた。みんな、二十歳そこそこに見える。革鎧はあちこち傷み、顔には泥と疲れがこびりついていた。先頭の青年が、声を張る。
「一番安い飯と、一番安い酒を、三人分!」
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席に」
三人はカウンターに並んで座った。剣士、弓使いらしい小柄な少女、杖を抱えた眼鏡の魔法使い。ルナが、教わっていた魔法を中断して、興味津々で近づいてきた。
「冒険者だ。本物の冒険者、初めて見た」
「おう。俺たちは『暁の三ツ星』。駆け出しだけどな」
「三ツ星なのに、三人なの?」
「……三人だから、三ツ星なんだよ」
ルナが首をかしげた。青年の胸の張りが、少ししぼんだ。
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俺は三人の前に、まず水を置いた。それから厨房に声をかける。
「ノアさん。腹に溜まるものを、三人分」
「金は、本当にないんだ」剣士が慌てた。「銅貨が、数えるほどしか」
「足りなければ、ツケでいいですよ」俺は言った。「冷えて腹が減った冒険者を、追い返す店じゃありません」
ノアが、湯気の立つ料理を三皿、無言で差し出した。三人は顔を見合わせ、貪るように食べ始める。あっという間に皿が空になった。
「うまい……」魔法使いの青年が、眼鏡を曇らせて呟いた。
俺は、その様子を見ながら、静かに聞いた。
「今日は、ダンジョン帰りですか」
剣士の表情が、ふっと曇った。三人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
【SOMA】――図星だ。三人とも、肩が落ちた。今日、どこかで手痛い負けを喫している。
「……しくじったんだ」剣士が、絞り出すように言った。「よその迷宮の、二層で。でかいのに出くわして。逃げるしかなくて。装備も、半分置いてきた」
「リーダーのせいじゃない」少女が、すぐに言った。「あたしの斥候が、甘かったから」
「違う。私の魔法が、遅れたんです」魔法使いが俯いた。
三人が、互いをかばい合って、黙り込んだ。
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その時、それまで黙って聞いていたアリシアが、口を開いた。
「あなた、詠唱が遅れたと言いましたね」魔法使いの青年に、静かに問いかける。「魔物を見てから、詠唱を始めたのでしょう」
青年が、戸惑った顔で頷いた。
「は、はい」
「それでは、遅い」アリシアは、論理的に続けた。「魔法使いは、戦いが始まる前から、詠唱を組み立てておくものです。斥候が敵を見つけた瞬間に、もう半分、唱え終えている。それで、ようやく前衛に間に合う」彼女の声は、厳しいが、どこか温かかった。「遅れたのは、あなたの才能の問題ではありません。順番を、知らなかっただけです」
魔法使いの青年が、目を見開いた。
「……あなたは」
「元・宮廷魔法師よ。今は、この子の先生」アリシアは、ルナの頭に手を置いた。「教え方なら、心得ています」
俺は、グラスを磨きながら、口を開いた。
「お互いのせいにしないで、自分のせいにする。いいパーティですね」
三人が、顔を上げた。
「負けたパーティは、たいてい、仲間のせいにして喧嘩別れします」俺は言った。「自分のせいだと言い合えるのは、お互いを信じている証拠です。それは、強さですよ」
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俺は、棚から三つのグラスを取り出した。
「一杯、奢らせてください」
注いだのは、淡い金色の、泡立つ酒だった。前の世界の素材で、若いビールに近いものを仕立ててある。
地の文で、俺だけが知っている。これは、ヴァイエンシュテファンに寄せた一杯だ。前の世界の、ドイツにある世界最古の醸造所。千年近く、同じ場所でビールを造り続けている。だが、その千年は、平坦じゃなかった。
「これは、ある土地のビールの話です」俺は、グラスを置きながら言った。「その醸造所は、千年近く、同じ場所で造り続けています。でも、その間に、何度も全部を失っているんです。疫病で、戦争で、火事で。何度もゼロになった」
「ゼロに……」少女が呟いた。
「それでも、生き残った誰かが、また同じ場所で、一から造り始めた。だから、千年続いている」俺は続けた。「今日、あなたたちは負けた。でも、三人とも、生きて帰ってきた。仲間も、欠けていない。なら、また始められます」
剣士が、グラスを握りしめた。
「俺たち……もう、辞めようかって、相談しに来たんだ。この店に」声が震えていた。「最後に、うまい飯でも食って、解散しようって」
俺は、三人を見渡した。
「決めるのは、あなたたちです。でも、一つだけ。辞めるなら、負けた日じゃなくて、勝った日に辞めた方がいい」俺は言った。「負けて辞めたら、悔いが残る。一度でも勝って、胸を張って辞めるなら、それは立派な引退です」
三人の目が、揺れた。
「……もう一回」魔法使いの青年が言った。「もう一回だけ、やってみるか」
「ああ」剣士が頷いた。「次は、勝つ」
三人は、グラスを掲げ、ぶつけ合った。
【SOMA】――零。三人の目つきが、変わった。さっきまでの、逃げ帰った冒険者の目じゃない。
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俺は、ふと思いついて言った。
「うちの地下に、ダンジョンへの入口があります。俺が管理を任されている。第一層には安全な泉もある。練習に使ってください。ただし、第二層から先は、まだ立ち入り禁止です」
「い、いいのか?」剣士が立ち上がった。
「常連割引です。また来てくれるなら」
「行く! 毎日でも来る!」
少女が、くすくす笑った。入口のヴァルドが、その騒がしさを静かに見守っている。三人が何度も礼を言って帰っていくと、店に、ようやく静けさが戻った。
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閉店後、いつもの顔だけが残った。
俺はカウンターを片付け、ルナはシロを膝に乗せている。ヴァルドは入口の定位置から、ようやく離れて椅子に腰かけた。ノアが、残り物で作った夜食を、皆の前に並べていく。アリシアは、温かいお茶を、自分の分とルナの分、二つ淹れていた。
「あの魔法使いの子、伸びますよ」アリシアが、お茶を一口飲んで言った。「目が、素直でした。教わったことを、馬鹿にしない目」
「お前が説教してる姿、久しぶりに見たな」ヴァルドが、ぽつりと言った。
「説教ではありません。指導です」アリシアが、むっとした顔をする。ルナが、くすくす笑った。
「アリシアせんせ、あたしに教えるときと、おんなじ顔してた」
「……そうですか?」
「うん。眉が、きゅってなるの」
ノアが、無言で、アリシアの前に、追加の一皿を置いた。彼女の好きな、甘い焼き菓子だ。アリシアが、少し驚いた顔をする。
「ノア。これは?」
「……さっき、しゃべりすぎて、喉が渇いてただろう」ノアは、ぶっきらぼうに言って、背を向けた。
ヴァルドが、低く笑った。
俺は、その光景を見ていた。元・騎士団副団長。元・宮廷魔法師。父をバーで亡くした料理人。スラム育ちの少女。世界の境界を守る守護者。前の世界なら、決して同じ卓を囲まなかった連中だ。それが、今、一つの夜食を、分け合っている。
【SOMA】――零。前にも言ったが、もう一度言う。この店に集まる人間は、ただの客じゃない。
俺は、内心で頷いた。
ルナが、夜食を頬張りながら言った。
「ねえ、おにーさん。この店、いろんな人が来るね。剣士さんも、魔法使いさんも、お姫様も」ルナは指を折った。「なんか、店っていうより……みんなの、たまり場、みたいだね」
俺の手が、一瞬、止まった。
たまり場。その言葉が、なぜか、胸に残った。
「……そうかもしれませんね」
夜が、静かに更けていく。今夜も、この店は、続いている。そして、何か、もっと大きなものへと、姿を変え始めていた。
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≪第52話・了≫
次話――翌朝、店の地下から、賑やかな声が響いてきた。三ツ星が、さっそく第一層で訓練を始めたらしい。様子を見に降りようとした俺に、SOMAが鋭く告げる。【SOMA】――零。表に、客じゃない人間が一人。鎚を担いだ、大柄な女だ。あの足の運び、ただの鍛冶師じゃない。




