第51話「七番の名前」
三日後の夜、ダリウスが店に現れた。
「番頭の居場所を、突き止めた」地図の一点を指す。「港町ラスティーン。八年前に逃げ込んだ男が、今もそこにいる。名はボルグ・ハイデン」
零は頷いた。ナナには宿で報せを待つように伝えてある。依頼人を、いたずらに不安にさせたくなかった。
「ナナさんを、呼んできます」
零の頼みで、ルナが近くの安宿へ走った。ほどなく、ナナを連れて戻ってくる。息を切らしたナナは、ただならぬ空気を察したのか、硬い顔をしていた。
「何か、わかったんですか」
「座ってください。まず、一杯出します」
零は温かい一杯を、ナナの前に置いた。ナナが落ち着くのを待ってから、ダリウスが地図を見せる。指の先の地名を見て、ナナの顔色が変わった。
「ラスティーン……俺、その町で、二年も荷運びをしてました」
零とダリウスが、顔を見合わせた。
「あなたが流れ着いた町と、組織が逃げ込んだ町が、同じ」零は静かに言った。「偶然じゃないかもしれません。あなたの名前が、その町にあるかもしれない」
ナナの手が、グラスの上で震えた。
「行きます。連れて行ってください」
翌朝、零とルナとナナは、ダリウスとともに港町へ発った。
潮の匂いが、町を包んでいた。坂の多い町だった。石畳の道が、海へ向かって下っていく。その一本の坂で、ナナがふいに足を止めた。
「この坂、知ってる」かすれた声だった。「来たことないはずなのに、上った気がする。何度も」
ルナがナナの袖を、そっと握った。
「体が覚えてるんだよ。あたしも、そういうのある」
坂を上った先に、ダリウスの示した古道具屋があった。色あせた看板。埃をかぶった店先。その奥に、痩せた老人が座っていた。
ダリウスが先に入り、零たちが続いた。老人は顔を上げ、ダリウスのコートを見た瞬間、すべてを悟ったような目になった。
「役人か。八年も経って、今さらか」
「ボルグ・ハイデンだな」ダリウスが言った。「グレーデン商会の番頭の」
老人は逃げなかった。ただ、深く息を吐いた。
「逃げ疲れた。毎晩、子どもらの顔が夢に出る」
零は、古い机に静かに一杯を置いた。アイテムボックスから出した、温かい湯だった。老人が驚いた顔をする。
「役人が、罪人に酒を出すのか」
「俺は役人じゃありません。ただのバーテンダーです」零は言った。「あなたに聞きたいことがあって、来ました」
零はナナを前に出し、首から下げた七番の木札を見せた。
「この子の、本当の名前を知っていますか」
ボルグの目が、木札に釘付けになった。震える手で、それを受け取る。焼印の「七」を、長いことなぞった。
「覚えている。忘れるものか」声が震えた。「この子の母親は、この町の漁師の女房だった。病で死にかけて、子だけは生かしたいと、わしに預けた。金で買ったんじゃない。預かったんだ」
ナナの体が、固まった。
「母さんは、俺を売ったんじゃ……」
「売っちゃいない」ボルグは首を振った。「育てられないから、ちゃんとした家に渡してくれと、泣いて頼まれた。だがわしは、その願いを裏切った。番号をつけて、商品にした。すまない。本当に、すまない」
「名前は」零が静かに聞いた。「この子に、母親がつけた名前は、あったんですか」
ボルグは、机の引き出しから古い革張りの帳簿を取り出した。台帳だった。八年間、誰にも渡さず隠し持っていたもの。ページをめくる手が震えていた。やがて一つの行で、指が止まった。
「あった。母親が、つけていた」ボルグは顔を上げ、ナナを見た。「お前の名前は、レイ。母親が、海の凪いだ朝に産んだから、凪のレイだと」
ナナ、いや、レイの目から、涙があふれた。
「レイ……俺の、名前」
「母親は、お前を手放す前の晩、一晩中、その名を呼んでいた」ボルグの声も濡れていた。「お前は、七番なんかじゃない。レイだ」
ルナが、レイの手を握った。自分のことのように、ぼろぼろ泣いていた。
「よかった……名前、あったね。お母さんが、つけてくれてたんだね」
レイは、声を上げて泣いた。二十年以上欲しかった答えが、今、手の中にあった。
ダリウスが台帳を受け取り、中を検めた。表情が険しくなる。
「ボルグ。この台帳、お前を狙っている連中がいるな」
「ああ」ボルグは頷いた。「買った貴族どもが、自分の名を消したくて、わしを探している。だが、もういい」彼はダリウスを見た。「持っていけ。この帳簿には、売られた子全員の、本当の名前が載っている。一人でも多く、名前を返してやってくれ」
ダリウスは台帳を、ゆっくりと閉じた。
「お前は、どうなってもいいのか」
「子らの顔が、夢に出ると言っただろう」ボルグは力なく笑った。「裁きを受ける。それで、少しは眠れるかもしれん」
零は、空になった老人の盃に、もう一杯を注いだ。
「あなたは、最後に正しいことをしました。それは、消えません」
ボルグは、その一杯を両手で包んだ。皺だらけの頬を、涙が伝った。
その夜、一行は港町の宿に泊まった。
レイは、海の見える窓辺に立っていた。零が隣に並ぶ。
「これから、どうしますか」
「母さんの墓を、探します」レイは静かに言った。「それから、ちゃんと名乗ります。レイですって。母さんがくれた名前で、生きていきます」
「いい名前です」
「あんたのおかげだ」レイは振り返った。「金も払えないのに、ここまで」
「お代なら、もうもらいました」零は微笑んだ。「あなたが自分の名前を取り戻した。その顔を見られた。それが、お代です」
ルナが、シロを抱えて駆け寄ってきた。
「レイさん、また店に来てね。今度は、お客さんとして」
「ああ。必ず行く」レイは笑った。出会った時の、迷子のような顔は、もうどこにもなかった。
窓の外で、海が静かに凪いでいた。レイの名前の由来になった、その凪が。
≪第51話・了≫
次話――港町から戻った数日後。ダリウスが、台帳をもとに、売られた子どもたちの名を、一人ずつ返し始めた。その作業の途中、ダリウスの指が、ある一行で止まる。零を訪ねてきた彼の顔は、いつになく硬かった。「零。この台帳に、あの子の名が、あった」
【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「お前は、七番なんかじゃない。レイだ」
番号で呼ばれた子どもに、母がつけた名前がありました。凪のレイ。
名前は、誰かが大切に思った時に生まれる。レイの名前は、母が一晩中呼び続けた、愛そのものでした。
そして次回、ついに——ルナの名前が、台帳に。
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次話もよろしくお願いします。




