第50話「開かずの紙と、番号の札」
閉店後の店に、雨上がりの匂いが、まだ残っていた。
カウンターの上には、二つのものが、並んでいた。
一つは、ダリウスから預かった、封のされたままの書類。ルナの過去が、書かれているかもしれない紙。
もう一つは、「七」の焼印が押された、小さな木札。ナナの過去が、刻まれているかもしれない札。
ルナは、椅子の上で膝を抱えて、その二つを、じっと、見ていた。
「……おにーさん。さっき言ってた、別の方法って?」
零は、グラスを拭く手を止めずに、答えた。
「この書類を、作った人に、直接聞くんです」
ルナが、顔を上げた。
「ダリウスさん?」
「ええ。この書類の中身を、俺たちは知りません。でも、調べて、まとめた本人は、知っています」零は、封筒を、指し示した。「だから、紙は、開けない。そのままです。その代わり、ダリウスさんに『ナナさんの組織のこと』だけを、聞く。ルナの過去には、触れずに」
ルナは、しばらく、封筒を見つめていた。
「……それって、あたし、ずるくない?」小さな声だった。「自分のことは、こわいから見ないで。人のことだけ、調べてもらうなんて」
「ずるくありません」零は、静かに、首を振った。「自分の心を、自分のペースで守ることは、ずるさとは違います。ナナさんを助けることと、ルナが自分の過去をいつ見るかは、別の話です。一緒に、しなくていい」
ルナの肩から、ふっと、力が抜けた。
シロが、ルナの膝に、頭を、すり寄せた。
「……うん。わかった」ルナは、頷いた。「じゃあ、ダリウスさんに、お願いしよう」
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翌日の夕方、零は、ダリウスに使いを出した。
その夜、閉店間際に、黒いコートの男が、扉を開けた。
「呼び出しとは、珍しいな」ダリウスは、いつものように、出口に近い席に、腰を下ろした。背筋は、まっすぐだった。「しかも『仕事の話』ときた。穏やかじゃない」
「お忙しいところ、すみません」
「構わん。シルバー会員の特権は、こういう夜のために、ある」
零は、まず、一杯を出した。
透き通った、淡い色の酒。小さな盃に、静かに注ぐ。
「遠い東の国の酒です。米から造ります」
零は盃を、ダリウスの前に置いた。「この酒の造り手は、面白いことをしました。みんなが、濃くて甘い酒を造っていた時代に、あえて、削ったんです。香りも、甘みも、余計なものを、全部」
ダリウスは、盃を、光に透かした。
「……ほとんど、水のように見えるな」
「飲んでみてください」
ダリウスは、一口、含んだ。
その目が、わずかに、見開かれた。
「……薄い、わけじゃない」盃を、見直した。「むしろ、米の味が、まっすぐ来る。なんだ、これは」
「余計なものが、ないだけなんです」零は、少しだけ、笑った。「飾りを全部削って、残ったものだけで、勝負する。あなたの仕事の流儀に、似ていると思いまして」
ダリウスは、ふっと、口の端を上げた。
「……世辞も、削っていいんだぞ」
「事実しか、言っていません」
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「で、本題は」ダリウスが、盃を置いた。
零は、カウンターの下から、木札を取り出した。
「七」の焼印を、ダリウスの方へ、向ける。
ダリウスの表情が、変わった。
軽口の気配が、一瞬で、消えた。懐から、小さな片眼鏡を取り出し、木札を、手に取る。焼印の縁を、指でなぞり、裏を返し、紐の擦れ跡まで、検めた。
その手つきは、完全に、情報省の人間のものだった。
「……これを、どこで」声が、低くなっていた。
「客から、預かりました。物心ついた時から、名前の代わりに、この札で呼ばれていたそうです。子どもたちが、番号で管理されて、売られていく場所に、いたと」
ダリウスは、長い間、黙っていた。
それから、木札を、静かに、カウンターに戻した。
「――グレーデン商会」
「ご存知なんですね」
「八年前、情報省が、潰した組織だ」ダリウスは、盃の残りを、一息に、あおった。「表向きは、雑貨を扱う商会。裏では、孤児や、貧しい家の子どもを、買い集めて、貴族や豪商に売っていた。子どもには名前を与えず、番号で管理する。情が、移らないようにだ」
ルナが、厨房の陰で、息を呑む気配がした。
零は、それに気づいたが、何も言わなかった。聞くか、聞かないか。それも、ルナが決めることだった。
「摘発で、本部は、押さえた。幹部の大半も、捕えた」ダリウスは、続けた。「だが、二つ、取り逃がした。一つは、商会の、番頭格の男。もう一つは――台帳だ」
「台帳」
「子どもたちの、仕入れ元を記した帳簿だ。どこの村の、誰の子か。元の名前は何か。全て、記録されていたはずだ。商品の、産地記録としてな」ダリウスの声に、抑えた怒りが、滲んだ。「それが、押収品の中に、なかった。番頭が、持って逃げたと、見ている」
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零の手が、止まった。
「つまり、その台帳には」
ら「ああ。この『七番』が、どこの誰なのか。書かれている可能性が、高い」ダリウスは、木札を、指した。「お前の客の、本当の名前も、生まれた場所も、な」
店の中が、静かになった。
厨房の陰から、ルナが、ゆっくりと、出てきた。
「……ダリウスさん」
「なんだ、嬢ちゃん」
「その組織の、残党って……まだ、いるの?」
ダリウスは、ルナを見た。それから、カウンターの上の、封のされた書類に、ちらりと、目をやった。彼は、その中身を知っている。ルナをスラムで売ろうとした者たちのことも。
だが、ダリウスは、何も明かさなかった。ただ、事実だけを、答えた。
「摘発の後も、残党が、細々と続けていた形跡がある。番号札の手口を、引き継いでな。ここ数年で、ほぼ消えたが――番頭と、台帳だけは、今も、行方が知れん」
ルナは、シロを抱く腕に、力を込めた。
零は、静かに、聞いた。
「ダリウスさん。その番頭の行方を、追えますか」
「情報省としては、八年前に、捜査は終わっている」ダリウスは、盃を置いて、零を見た。「だが――個人としてなら、話は別だ。古い貸しの、ある案件でな。あの摘発、最後の詰めで台帳を逃したのは、俺の隊だ」
ダリウスは、立ち上がった。コートの襟を、正す。
「三日、くれ。古い記録を、洗い直す」
「お願いします」
ダリウスは、扉の前で、一度だけ、振り返った。
「零。一つ、言っておく」その目は、情報省の中佐の目だった。「台帳は、ただの帳簿じゃない。あれを欲しがる人間は、今も、いる。買った側の、貴族たちだ。自分の名前が、載っているからな」
扉が、閉まった。
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ルナは、しばらく、扉を見ていた。
それから、カウンターの上の、二つのものを見た。封のされた書類と、七番の木札。
「おにーさん」
「なんですか」
「台帳が見つかったら……ナナさんの名前、わかるんだね」
「ええ。きっと」
ルナは、少し、間を置いてから、言った。
「……あたしの名前も、そこに、あるのかな」
零は、すぐには、答えなかった。
グラスを置き、ルナの目を、まっすぐに見た。
「あるかもしれません。ないかもしれません」零は、正直に、言った。「でも、ルナ。あっても、なくても、一つだけ、変わらないことがあります」
「……なに?」
「あなたが、ルナだということです。世界でいちばん、あなたのものの、名前です」
ルナは、ふっと、笑った。
「……うん。知ってる」
シロが、ルナの腕の中で、小さく、あくびをした。
夜は、静かに、更けていった。
カウンターの上で、開かずの紙と、番号の札が、同じ灯りに、照らされていた。
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≪第50話・了≫
次話――三日後の夜、ダリウスが、戻ってきた。一枚の古い地図を、カウンターに広げる。「番頭の足取りが、八年ぶりに、つながった」。その指が、止まった場所は――港町だった。ナナが、この店の噂を聞いた、あの港町。
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【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「自分の心を、自分のペースで守ることは、ずるさとは、違います」
ルナは、自分の紙を、開けないまま。でも、ナナさんのためには、動く。
それで、いいんだと思います。
そして、ついに出てきた「台帳」。番号にされた子どもたちの、本当の名前が眠る帳簿。
ダリウスの最後の警告が、不穏です。「あれを欲しがる人間は、今も、いる」
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