第49話「七番の男」
その夜は、雨だった。
石畳を叩く雨音が、店の中まで、静かに届いていた。こんな夜は、客足が、遠のく。零は、いつもより、ゆっくりと、グラスを磨いていた。
ルナは、カウンターの端で、シロを膝に乗せて、舟をこぎかけていた。
その時、扉が、開いた。
雨の匂いと、冷たい風が、流れ込んできた。
入口に、一人の若い男が、立っていた。二十代の前半くらいだろうか。旅装の外套は、ぐっしょりと濡れ、フードの下から、雨に濡れた前髪が、貼りついた顔が、覗いていた。左の眉の上に、古い傷跡が、一本、走っていた。
男は、店の暖かい光に、目を細めた。まるで、そういう光を、長いこと、見ていなかったかのように。
「……すみません」男は、おずおずと言った。「雨宿りだけでも、いいでしょうか。金は、あまり、なくて」
「どうぞ」零は、頷いた。「温まってから、決めてください」
男は、カウンターの席に、遠慮がちに腰を下ろした。
外套を脱ぐと、その下は、継ぎの当たった、質素な服だった。長い旅をしてきたのが、ひと目で、わかった。
零は、まず、湯気の立つ一杯を、男の前に置いた。月蜜を溶かした、温かい湯だ。
「お代は、結構です。雨の夜の、サービスです」
男は、戸惑った顔で、グラスと零を、交互に見た。
「……いいんですか」
「冷えた体で、いい話は、できませんから」
男は、両手でグラスを包み、一口、飲んだ。その肩が、ゆっくりと、下がっていく。
「……あったかい」ぽつりと、言った。「こんなの、いつぶりだろう」
ルナが、目を覚まして、男を、ちらりと見た。
「お客さん、来てたんだ」
「ええ」零は、頷いた。それから、男に、ごく自然に、聞いた。「旅の方ですね。お名前を、伺っても?」
男の手が、グラスの上で、止まった。
長い、沈黙があった。
「……それが、いちばん、困る質問なんです」
男は、懐から、何かを、取り出した。
紐の通った、小さな、木の札だった。長年、握りしめられてきたのだろう。角は丸くなり、表面は、黒ずんでいた。
その札の真ん中に、焼印が、押されていた。
「七」
数字が、一つ。それだけだった。
「俺には、名前が、ないんです」男は、木札を、カウンターの上に、そっと置いた。「あるのは、これだけ。子どもの頃から、ずっと。だから、みんな、俺を『ナナ』と呼びます。七番の、ナナです」
零は、その木札を、見た。
カウンターの端で、ルナの体が、固まったのが、視界の隅に、映った。
シロを抱える、その小さな手に、ぎゅっと、力がこもっていた。
「……差し支えなければ」零は、静かに聞いた。「その札の意味を、聞かせてもらえますか」
ナナは、グラスを見つめたまま、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
「物心ついた時、俺は、知らない場所に、いました。同じくらいの歳の子どもが、何人もいて。みんな、首から、こういう札を、下げていました。名前じゃなくて、番号で、呼ばれて。それで……金持ちの家に、順番に、売られていくんです」
雨音だけが、店を、満たしていた。
「俺は、七番でした。十歳の時、買われていく途中で、馬車が、事故を起こして。そのどさくさで、逃げました。それから、ずっと、一人で、生きてきた」
「親の顔も、生まれた場所も、本当の名前も、何も、覚えていません」ナナは、木札を、指でなぞった。「手がかりは、この札だけです。それでも……知りたいんです。俺が、誰なのか。どこから、来たのか」
ナナは、顔を上げて、零を見た。
「港町で、噂を聞きました。裏路地に、何でも見つけてくれる店が、あるって。藁にもすがる思いで、来ました。金は、ありません。働いて、返します。何年かかっても。だから……俺を、探してくれませんか。俺という人間が、どこの誰なのかを」
零は、すぐには、答えなかった。
グラスを磨く布を、置いた。
それから、棚から、一本のボトルを、取り出した。琥珀色の液体。前の世界から持ち込んだ、アイルランドのウイスキー、レッドブレストだった。
「先に、一杯だけ、付き合ってください」零は、グラスに注ぎながら、言った。「この酒には、名前の話が、あるんです」
ナナが、顔を上げた。
「昔、ある商人が、修道院に、毎年、このウイスキーを、贈っていました。修道士たちは、その酒が、来るのを、心待ちにしていた。そして、いつしか、その酒を『ロビン』と、呼ぶようになった。小さな、コマドリという鳥の、名前です」
「……酒に、鳥の名前を?」
「ええ。愛着が、name になったんです。名前というのは、誰かが、何かを、大切に思った時に、生まれる。この酒の名前は、修道士たちの、楽しみにしていた気持ちから、生まれました」
ナナは、グラスの琥珀色を、じっと、見つめた。
「……俺には、名前をくれる人が、いなかった。大切に、思われたことが、なかった。だから、番号のままなんだ」
その声は、雨音に、消え入りそうだった。
その時だった。
「――自分で、つけても、いいんだよ」
ルナだった。
シロを抱えたまま、いつの間にか、ナナの隣の席に、来ていた。
「あたしも、名前、なかった。誰も、つけてくれなかったから」ルナは、まっすぐに、ナナを見上げた。「だから、自分でつけたの。月がきれいな夜に、ルナって。自分で、自分に」
ナナは、目を見開いて、小さな少女を、見た。
「自分で……つけた?」
「うん。だって、待ってても、誰もくれないんだもん」ルナは、少しだけ、笑った。「自分でつけた名前は、自分のものだよ。誰にも、取られない。世界で、いちばん、自分のもの」
ナナは、しばらく、言葉を、失っていた。
それから、木札に、目を落とした。
「……でも、俺は」ナナは、絞り出すように、言った。「名前が欲しいんじゃ、ないのかもしれない。いや、欲しい。欲しいけど、その前に……知りたいんです。俺を産んだ人が、いたはずなんだ。俺にも、母親が、いたはずなんだ。その人が、俺に、名前を、つけようとしたのか。それとも……最初から、番号だったのか。それを、知ってからじゃないと、前に、進めない気がして」
ルナの顔から、笑みが、すっと、消えた。
その気持ちが、痛いほど、わかる顔だった。
零は、二人を、見ていた。
それから、静かに、言った。
「お引き受けします」
ナナが、はっと、顔を上げた。
「ほ、本当ですか。でも、金が」
「お代は、あなたが、自分の答えを見つけた後で、考えましょう」零は、木札を、指し示した。「それを、少しの間、預からせてもらえますか。手がかりは、多い方がいい」
ナナは、木札を、握りしめた。一瞬、ためらった。十年以上、肌身離さず持っていたものだ。それから、意を決したように、零の手に、それを、載せた。
「……お願いします」
ナナが、雨の上がった夜道を、宿へと帰っていった後。
店を閉めて、ルナは、ずっと、黙っていた。
零も、何も、聞かなかった。ルナが、自分から話すのを、待った。
やがて、ルナが、口を開いた。
「おにーさん」
「なんですか」
「あの木札……あたし、見たこと、ある気がする」ルナの声は、小さかった。「スラムにいた頃。あたしを、売ろうとした人たちが、持ってた。あれと、同じ札を、いっぱい」
零の手が、止まった。
「ナナさんを、売った人たちと、あたしを、売ろうとした人たち。同じ、なのかな」
「……わかりません。ですが、調べる価値は、あります」
ルナは、シロを、強く、抱きしめた。
それから、顔を上げた。その目には、怖さと、それを上回る、何かが、あった。
「おにーさん。あたしの、あの紙。ダリウスさんが、持ってきた、あの書類」
零は、ルナを、見た。
「あの中に、ナナさんの、手がかりも、あるかもしれないんだよね」
「……あるかも、しれません」
ルナは、深く、息を吸った。
「……読む時が、来たのかも」
≪第49話・了≫
次話――零は、棚の奥から、あの書類を、取り出した。ルナは、まだ、決めかねていた。読むのか。読まないのか。零は、書類をカウンターに置いたまま、言った。「焦らなくていい。ですが、一つだけ、別の方法があります」。それは、書類を開かずに、ダリウス本人に、聞くという方法だった。
【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
第三章「その名前に、一杯を」、開幕です。
名前の代わりに、番号の木札を持つ男。
「名前というのは、誰かが、何かを、大切に思った時に、生まれる」
そして、自分で自分に名前をつけた女の子が、言いました。「自分でつけた名前は、世界でいちばん、自分のもの」
でも、ナナさんの願いは、その一歩手前にありました。「俺にも、母親が、いたはずなんだ」
ルナの過去と、ナナの過去が、同じ場所に、つながっているかもしれません。
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次話もよろしくお願いします。




