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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第47話「二つの世界の客」

 その夜、零は、月に一度の、東京行きから戻るところだった。


 いつものように、人目を避けて、買い出しを済ませた。あとは、ゲートをくぐって帰るだけ。そのはずだった。


 ゲートの前に立ち、向こう側へ、足を踏み入れようとした、その時。


 (SOMA)


 ――零。背後に、人が一人。接近している。


 (え)


 ――気づくのが、遅れた。お前が、戻ることに、意識を向けていたからだ。


 零が、振り返るより、早かった。


 一人の男が、ふらふらと、ゲートの光に、吸い寄せられるように、近づいていた。そして、零が向こうへ消えるのを見て、混乱したまま、閉じかけたゲートの、ほんの一瞬の隙間に――足を、踏み入れてしまった。


 零が、シロとルナの待つ、ダンジョンの第三層に戻った時。


 その男も、一緒に、転がり込んでいた。


 男は、スーツを着ていた。この世界のものではない、奇妙な布の服。ネクタイは、緩んでいた。疲れ切った、三十代半ばの顔だった。


 「おにーさん、その人……」ルナが、目を丸くした。


 「東京から、ついてきてしまったようです」零は、ため息を、ひとつ、ついた。「俺の、戻り際の、油断です。ともかく、店へ。説明は、それからにしましょう」


 シロが、先に立った。第二層の魔物の気配を、避けながら、道を選ぶ。シロがいなければ、とても通れない道だった。


 男は、その間、ずっと、何かを呟いていた。


 「夢だ。これは、夢だ。残業で、疲れて……変な夢を、見てるんだ」


 ルナが、心配そうに、何度も、男を、振り返った。


 店に着くと、男は、カウンターに、崩れるように座った。


 店の中を、呆然と、見回している。磨かれたカウンター。棚に並ぶグラス。異国の、けれど、どこか懐かしい、バーの光景。


 「ここは……どこなんだ」男は、かすれた声で言った。「俺は、確かに、東京の、路地裏を、歩いていたはずなのに」


 零は、カウンターの内側に立った。


 「落ち着いて、聞いてください」できるだけ、穏やかに言った。「ここは、あなたのいた世界とは、別の世界です。あなたは、世界の境目を、通り抜けて、こちらに来てしまった」


 「別の、世界」男は、乾いた笑いを漏らした。「はは。やっぱり、夢だ。こんなこと、あるわけ……」


 「夢では、ありません」零は、静かに言った。「その、緩んだネクタイも、疲れた顔も、夢の中のものじゃ、ないでしょう」


 男の、笑いが、止まった。


 「戻れるのか。俺は」男の声が、震えていた。


 「戻れます」零は、頷いた。「ご安心を」


 「でも、さっき、その光は、消えて……」


 「いつもは、ゲートを開けるのに、大きな力が要ります。月に一度が、限界です」零は、グラスを手に取りながら、説明した。「ですが、つい先日、その境目を、直したばかりでして。今は、人を一人、通すだけの短い扉なら、すぐにでも開けられます。だから、必ず、帰せます」


 男は、半分も、理解できていない様子だった。


 けれど、「帰せる」という、その一言に、肩の力が、少しだけ、抜けた。


 零は、温かい湯に、月蜜と、気持ちを落ち着ける薬草を、溶かした。湯気が、立ち上る。


 「アルコールは、入れていません。あなたに必要なのは、酔うことじゃない。落ち着くことです」零は、グラスを、男の前に置いた。「どうぞ」


 男は、おそるおそる、それを、口にした。


 「……甘い」少しずつ、表情が、ほどけていく。「あったかい」


 「少し、落ち着きましたか」


 「……ああ。なんか、久しぶりに、ほっとした、気がする」


 「東京で、何を、していたんですか」零が、静かに聞いた。「こんな、遅い時間に、路地裏を」


 男は、しばらく、黙っていた。


 それから、ぽつりと、こぼした。


 「……帰りたく、なかったんだ。家にも、会社にも、どこにも」


 零は、黙って、聞いていた。


 「毎日、終電まで、働いて。家に帰っても、誰もいない。朝、起きて、また会社に行く。その繰り返しで」男は、グラスを見つめた。「気づいたら、何のために、生きてるのか、わからなく、なってた」


 「それで、路地裏を」


「ただ、家に、帰りたくなかっただけだ。そしたら、変な光が、見えて。男が、消えて。気づいたら、こんな、わけのわからない場所に、いる」男は、顔を上げた。「なあ。あんた、あの光に、消えたよな。東京の、人間なのか」



 零は、少し、間を置いた。


 「昔は。今は、こちらの世界の、人間です」


 「……そう、か」


 男は、それ以上、聞かなかった。聞く気力も、ないようだった。


 「なあ」男が、ぽつりと、言った。「帰るまでの間。少し、休んでも、いいか」


 「もちろんです」


 「東京に戻ったら、また、あの毎日が、待ってる。終電と、誰もいない家と」男は、俯いた。「だから、ほんの少しだけ、ここで、何も考えずに、いたい」


 その時、ルナが、シロを抱えて、男の隣に、ちょこんと座った。


 「おじさん、つかれてるの?」


 男は、ルナを見て、少し、面食らった。


 「……ああ。疲れてる、かもな」


 「じゃあ、これ、貸してあげる」ルナは、抱えていたシロを、そっと、男の膝の上に、乗せた。「シロ、あったかいよ。抱っこしてると、元気でる」


 男は、戸惑いながら、膝の上のシロを、見下ろした。


 シロは、逃げなかった。男の膝で、丸くなった。


 男の、こわばっていた顔が、ゆっくりと、ほどけていった。


「……あったかい」



 ぽつりと、言ったその声に、うっすらと、涙が、滲んでいた。


 ノアが、厨房から、温かい料理を、黙って出した。


 男は、それを、貪るように、食べた。「うまい」と、何度も、呟きながら。味わって食事をするのも、きっと、久しぶりだったのだろう。


 やがて、男は、ぽつりと、言った。


 「俺さ。明日、会社、辞めようと思ってたんだ。今日、その路地裏で、決めたんだ。もう、無理だって」


 零は、グラスを磨きながら、聞いていた。


「でも、ここに来て、なんか……ちょっと、わからなく、なってきた」男は、シロを撫でた。「辞めるのが正解か、続けるのが正解か。じゃ、なくて。俺、ただ、疲れてただけ、なのかも、しれない」



 男は、顔を上げた。


「誰かに、あったかいもの、出してもらって。話を、聞いてもらって。それだけで、こんなに、楽になるなんて」


「答えは、出さなくて、いいんです」零は、静かに言った。「今夜は、ただ、休んでください。答えは、休んだ後で、ゆっくり考えれば、いい」


男は、深く、頷いた。



 数日後、男を、送り出す夜が来た。


 短いゲートを、開けるだけ。シロにとって、負担のない、一瞬の扉だった。


 男は、すっかり、顔色が良くなっていた。よく食べ、よく眠り、ルナやシロと、すっかり、打ち解けていた。


 「世話に、なった」男は、零に、頭を下げた。「ここのこと、東京で、話しても、誰も、信じないだろうけどな」


「信じてもらえなくて、いいんです」零は、微笑んだ。「あなたが、覚えていれば」


「ああ。一生、忘れない」男は、笑った。出会った時とは、別人のような、晴れやかな顔だった。「会社を、辞めるかは、まだ決めてない。でも、もう少し、ちゃんと、生きてみるよ。終電まで働く、だけじゃ、なくてさ」


「いい顔に、なりましたね」


男は、照れたように、頭を、かいた。


ルナが、シロを抱えて、見送りに来た。


「おじさん、元気でね」


「ああ。ルナちゃんも。シロも、ありがとうな」


シロが、耳を、動かした。ルナが、くすりと笑う。


「シロが、『またおいで』って」


「……ああ。いつか、また」


男は、東京へと続く、短い光の中へ、歩いていった。


扉が、静かに、閉じた。あとには、いつもの、静かなダンジョンが、残った。



 その夜、店を閉めた後。


ルナが、零に聞いた。


「おにーさん。あのおじさん、また、来るかな」


「どうでしょう」零は、グラスを磨きながら、答えた。「でも、来ても、来なくても、いいんです」


「なんで?」


「あの人は、ここで、思い出したから。あったかいものを、誰かに出してもらう。それだけで、また、歩ける。それを、思い出して、帰っていきました」零は、窓の外を見た。「だから、もう、大丈夫です」


ルナは、頷いた。それから、少し、笑った。


「裏路地のバーが、東京の人まで、助けちゃった」


「成り行きですけどね」零も、笑った。「二つの世界が、つながってしまいました」


今夜も、この店は、続いている。


二つの、世界の、間で。



≪第47話・了≫


次話――第二章も、終わりに近づいていた。ある夜、店に、見慣れた顔が、次々と集まってきた。ガルド、ダリウス、リオ、バルス。みんな、それぞれの理由で、同じ夜に、BAR ZEROの扉を、叩いた。零は、グラスを並べた。「いらっしゃいませ。今夜は、賑やかになりそうですね」


【あとがき】


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


「俺、ただ、疲れてただけ、なのかもしれない」


異世界の物語ですが、この男の疲れは、きっと、現実の私たちにも、覚えのあるものだと思います。


答えを出さなくていい。今夜は、ただ休む。


裏路地のバーが、ついに、二つの世界をつなぎました。


続きが気になると思っていただけたなら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。


コメントで「あったかいもの一杯で、救われたこと、ありますか」を教えてもらえると嬉しいです。


次話、いよいよ第二章のフィナーレです。

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