第46話「居場所」
翌朝、ルナの鼻歌が、いつもより少しだけ、軽かった。
訓練を終え、店の掃除をするその背中を見ながら、ノアが、厨房から、ぽつりと言った。
「あの母親に、何か、仕事を回してやれないか」
零は、グラスを磨く手を、止めた。
「ノアさんが、そういうことを言うとは」
「俺は、別に」ノアは、少し、ばつが悪そうに、まな板に目を落とした。「ただ、見ていられないだけだ。あの手を見たか。ろくに食えていない手だ。あのままじゃ、長くない」
零は、頷いた。ノアの言う通りだった。あの女の手は、長年の飢えと労働で、ぼろぼろだった。
「ルナの母親だ」ノアは、続けた。「ルナが、また会いたいと言った相手だ。その相手が、野垂れ死にました、じゃ、ルナが、悲しむ」
ノアは、それだけ言うと、また、まな板に向き直った。
包丁の音が、規則正しく、響き始めた。
零は、少しだけ、笑った。ノアなりの、不器用な優しさだった。
その日の夕方、女が、また店に来た。
昨日と同じ、遠慮がちな足取りで。けれど、その顔には、昨日よりも、わずかに、生気が戻っていた。
「いらっしゃいませ」零が、迎えた。
女は、カウンターの端に座った。
「あの……ルナは」おずおずと、聞いた。
「奥で、夕食の手伝いをしています。呼びますか」
「いえ」女は、慌てて、首を振った。「ご迷惑を、かけたくないので。少しだけ、顔を見られたら、それで」
零は、しばらく、女を見ていた。
それから、静かに、聞いた。
「お名前を、伺っても?昨日は、聞きそびれました」
女は、少し、戸惑った。
「……セラ、と申します」
「セラさん」零は、頷いた。「一つ、お話があります。よければ、聞いてもらえますか」
零は、温かい飲み物を、セラの前に置いた。
「うちの料理人が、あなたに、仕事を回せないか、と言っています」
セラの顔が、こわばった。
「仕事……?」
「ええ。あなたが、よければ」
セラは、しばらく、黙っていた。それから、首を、ゆっくりと、横に振った。
「いいえ。そんな、とんでもない」声が、震えていた。「わたしには、そんな、資格は、ありません」
「資格、ですか」
「わたしは、ルナを、捨てた女です」セラは、俯いた。「あの子のそばで、何食わぬ顔で、仕事をして、お金をもらって……そんなこと、許されるはずが、ない。わたしは、ただ、あの子が生きているのを、確かめられただけで、十分なんです。これ以上、何かを、もらう資格なんて」
零は、すぐには、答えなかった。
セラの言葉を、受け止めるように、少し、間を置いた。
「セラさん」零は、静かに言った。「あなたは、自分を、罰し続けるつもりですか」
セラが、顔を上げた。
「十年、あなたは、ルナを探し続けた。飢えながら。そのこと自体が、もう、十分すぎる罰だったと、俺は思います」
「でも、わたしは」
「ルナは、昨日、何と言いましたか」零は、続けた。「また、会いに来て、と言いました。少しずつ、知っていきたい、と。あれは、ルナの、本心です」
セラの目に、涙が、滲んだ。
「あなたが、遠くで野垂れ死んだら、ルナは、悲しみます」零は、まっすぐ、セラを見た。「せっかく見つけた母親を、また、失うことになる。それは、ルナにとって、二度目の、喪失です」
セラは、口を、押さえた。
「あなたが生きて、近くにいて、少しずつ、ルナと向き合っていく。それが、ルナのためにも、なるんです」零は、穏やかに言った。「罰を受け続けることが、償いではありません。生きて、向き合うことが、いちばんの、償いです」
セラは、しばらく、何も言えずに、俯いていた。
その肩が、小さく、震えていた。
その時、厨房の扉が、開いた。
ルナが、顔を出した。
セラの姿を見て、少し、はにかんだ。
「……来てたんだ」
「ルナ」セラは、慌てて、涙を拭った。「ごめんなさい、急に。すぐ、帰るから」
「帰るの?」ルナが、聞いた。
「ええ、その……」
「ねえ」ルナは、零を見て、それから、セラを見た。「おにーさんが、なんか、仕事の話、してたんでしょ。聞こえた」
零も、セラも、ルナを見た。
ルナは、少し、ためらってから、言った。
「あたし、お母さんが、近くにいたら、いいなって、思う」
セラの動きが、止まった。
「いきなり、一緒に住むとか、そういうのは、まだ、こわい。よくわからないから。でも」ルナは、シロを抱きしめた。「近くで、たまに、顔を見られたら。少しずつ、話せたら。そういうの、いいなって」
セラは、ルナを見ていた。
涙が、頬を、伝っていた。
「いいの……?」かすれた声で、聞いた。「わたしが、近くにいて、いいの?」
「うん」ルナは、頷いた。「だって、せっかく、見つけたんだもん。あたしも、お母さんも」
セラは、両手で、顔を覆った。
声を殺して、泣いた。
ルナは、どうしていいかわからない様子で、零を見上げた。
零は、ルナに、小さく頷いた。大丈夫です、という意味だった。
ルナは、おずおずと、セラに近づいた。
そして、その荒れた手に、そっと、自分の小さな手を、重ねた。
「泣かないで」ルナは、言った。「あたし、もう、捨てられたって、思ってないから」
セラは、ルナの手を、握りしめた。
壊れ物を、扱うように。
二度と、離さないように。
数日後、セラは、蒼天亭で、働き始めた。
ノアが、弟子のカルに、話を通したのだった。
皿洗いと、仕込みの手伝いから。
セラは、よく働いた。貧しさの中で身につけた、無駄のない手際だった。カルも、「助かります」と、零に伝えてきた。
ルナは、時々、蒼天亭に、顔を出すようになった。
長くは、いない。少しだけ、話して、帰ってくる。
でも、帰ってくるたびに、その顔は、少しずつ、柔らかくなっていった。
ある日、店に戻ってきたルナが、零に言った。
「おにーさん。今日、お母さんが、あたしに、料理、作ってくれた」
「どうでしたか」
「……しょっぱかった」ルナは、笑った。「でも、なんか、あったかかった」
零も、笑った。
「いい味ですね」
「うん。いい味だった」
≪第46話・了≫
次話――その夜、店に、見慣れない客が来た。妙な服を着ていた。この世界のものではない、奇妙な布の服だった。男は、ひどく混乱した様子で、カウンターに座ると、呆然と言った。「ここは……どこなんだ。俺は、確かに、東京の、路地裏を、歩いていたはずなのに」
【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「罰を受け続けることが、償いではありません。生きて、向き合うことが、いちばんの償いです」
自分を許せない人に、零がかけた言葉です。
そして、ルナが母の手に、自分の手を重ねました。「泣かないで。あたし、もう、捨てられたって、思ってないから」
しょっぱい料理が、あったかかった。
家族のかたちは、ゆっくりと、できていきます。
次話――いよいよ、二つの世界が、本当の意味で、つながり始めます。
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次話もよろしくお願いします。




