第45話「ルナという名前」
ルナは、厨房の扉に手をかけた。
「会う。会って、確かめる」
震える声だった。けれど、その足は、確かに、前に進んでいた。
シロを、胸に抱いていた。シロの温かさだけが、頼りだった。
ルナが、フロアに出た。
カウンターの端に座る女が、近づいてくる小さな足音に、ゆっくりと、顔を上げた。
そして――時が、止まった。
女は、ルナを見た。
息を、呑んだ。
立ち上がろうとして、足がもつれ、椅子に手をついた。それでも、目だけは、ルナから離さなかった。
「……あ」声にならない声が、漏れた。「ああ……」
女の目から、涙が、止めどなく溢れ出した。
「その、目」震える声で、言った。「その、目の色。わたしと、同じ。それから……左の、耳の下」
ルナが、思わず、自分の左の耳の下に、手をやった。そこには、小さな、星のような形のあざがあった。生まれた時から、あるものだった。
「あった」女は、口を押さえた。「やっぱり、あった。間違いない。あなた、あなたなのね。わたしの……」
ルナは、動けなかった。
シロを抱える手が、固まっていた。
零は、カウンターの内側から、二人を見ていた。
口を、挟まなかった。
ヴァルドが、入口の定位置で、静かに見守っていた。ノアが、厨房の扉の陰から、顔を出していた。アリシアが、素材の部屋の入口で、息を詰めていた。
誰も、動かなかった。
これは、ルナと、この女の、二人の時間だった。
「あなたを」女が、涙の合間に、言った。「あなたを、手放したのは、わたしです。十年前。許してもらおうなんて、思っていません。ただ、一目、生きている姿を、見たかった」
ルナは、じっと、女を見ていた。
何も、言わなかった。
その小さな顔の中で、いろんな感情が、ぶつかり合っているのが、零にはわかった。
やがて、ルナが、口を開いた。
「……あたしのこと、いらなかったの?」
小さな、けれど、鋭い声だった。十年分の、問いだった。
女は、首を、激しく横に振った。
「違う。違うの」
「じゃあ、なんで、手放したの」
「育てられなかったの。お金が、なくて。あなたに、食べさせて、あげられなくて」女は、膝の上で、両手を握りしめた。「このままじゃ、二人とも、死んでしまうと思った。だから、お金のある家なら、あなたを、幸せにしてくれると、思って。それが……間違いだった」
女は、深く、頭を下げた。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。あなたを、つらい目に、遭わせた。全部、わたしのせいです」
ルナは、俯いた女を、見ていた。
その肩が、震えているのを、見ていた。
「……あたし」ルナの声も、震えていた。「あたし、ずっと、思ってた。捨てられたんだって。いらない子だったんだって。だから、誰も、あたしを探さないんだって」
「探したわ」女は、顔を上げた。「十年、ずっと、探した。あなたのことを、一日も、忘れたことなんて、なかった」
ルナの目から、涙が、こぼれた。
「あたし」ルナは、涙を拭わずに、言った。「あたし、名前、なかったんだよ」
女の顔が、苦痛に、歪んだ。
「知ってる。わたしが、つけて、あげなかったから。手放す時に、名前をつけたら、もっと、手放せなくなる気がして。ごめんなさい。それも、ごめんなさい」
「だから、自分で、つけたの」ルナは、言った。「スラムで、夜に、空を見たら、月が、きれいだったから。ルナって、つけたの。月の、ルナ」
女は、その名前を聞いて、口を、押さえた。
「ルナ……」噛みしめるように、繰り返した。「ルナ。なんて、きれいな、名前」
「あたし、この名前が、好き」ルナは、言った。「自分で、つけた、たった一つの、あたしのもの、だから」
「いい名前よ」女は、涙ながらに、頷いた。「とても、いい名前。わたしが、つけたどんな名前より、きっと、ずっと、いい」
ルナは、しばらく、女を見ていた。
それから、シロを抱える手を、少しだけ、緩めた。
「あたし、ね」ルナが、ぽつりと言った。「今、しあわせなの」
女が、ルナを見た。
「ここに、おにーさんがいて、シロがいて、みんながいて。ごはんも、毎日食べられて。あったかい場所が、あって。すごく、しあわせなの」
「……そう」女は、涙を拭った。その顔に、安堵が、広がっていった。「そう。よかった。本当に、よかった」
「だから」ルナは、まっすぐ、女を見た。「あたしは、ここにいる。ここが、あたしの、家だから」
女は、何度も、何度も、頷いた。
「いいの。それで、いいの」女は、微笑んだ。涙に濡れた、けれど、心からの笑顔だった。「あなたが、しあわせなら、それで、いいの。わたしは、それを、確かめに来ただけ、だから」
ルナは、少し、ためらってから、言った。
「でも、また、会いに来ても、いい?」
女の動きが、止まった。
「あたし、お母さんのこと、まだ、よくわからない。許せるかも、わからない。でも」ルナは、言った。「いきなり、お別れは、いやだ。だから、また、会いに来て。少しずつ、知っていきたい」
女は、もう一度、泣いた。
今度は、悲しみではなかった。
零は、静かに、カウンターから出た。
女の前に、温かいお茶のおかわりを、置いた。
「ゆっくり、していってください」零は、穏やかに言った。「ここは、そういう店です」
女は、零を見上げた。
「あなたが……この子を、育ててくれた方ですか」
「育てた、というより」零は、少し考えてから言った。「一緒に、生きてきた、という方が、近いです。ルナは、この店の、大事な家族です」
女は、深く、頭を下げた。
「ありがとう、ございます。この子を……ルナを、守ってくださって」
「礼なら、ルナに言ってください」零は、微笑んだ。「ルナが、自分で、ここまで生きてきた。俺は、扉を、開けていただけです」
女は、ルナを見た。
ルナは、照れたように、シロに顔を埋めた。
その様子を見て、女は、また、笑った。
その夜、女は、遅くまで、店にいた。
ルナと、ぽつぽつと、話をした。十年分の距離は、一晩では、埋まらなかった。けれど、二人は、確かに、少しずつ、近づいていった。
帰り際、女は、零に、深く頭を下げて、店を出ていった。
また、来ます、と言って。
扉が閉まった後、ルナは、しばらく、その扉を見ていた。
「ルナ」零が、声をかけた。「大丈夫ですか」
ルナは、振り返った。涙の跡があったが、その顔は、どこか、晴れやかだった。
「うん」ルナは、頷いた。「あたし、捨てられたんじゃ、なかった」
「そうですね」
「探してくれてた。十年も」ルナは、シロを抱きしめた。「それが、わかっただけで、なんか、胸の、つかえてたのが、取れた気がする」
零は、ルナの頭に、そっと手を置いた。
「よかったです」
「おにーさん」
「なんですか」
「あたし、やっぱり、ルナでいる。お母さんに会っても、ルナのまま」ルナは、笑った。「だって、ルナは、あたしが、あたしのために、つけた名前だから」
零は、頷いた。
「いい名前です。世界で、いちばん」
≪第45話・了≫
次話――翌朝、ルナはいつも通り、訓練を終えて、いつも通り、店の掃除をした。けれど、その鼻歌が、いつもより、少しだけ、軽かった。ノアが厨房から、ぽつりと言った。「あの母親に、何か、仕事を回してやれないか」。零は、手を止めた。それは、ノアなりの、優しさだった。
【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「ルナは、あたしが、あたしのために、つけた名前だから」
捨てられたと思っていた子が、自分で自分に名前をつけて、生きてきました。
その子が、十年越しに知ったのは、「探されていた」という事実でした。
許せるかどうかは、まだわからない。でも、いきなりのお別れは、いやだ。だから、少しずつ。
それでいいんだと思います。家族のかたちは、一つじゃないから。
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次話もよろしくお願いします。




