表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/50

第44話「手放した手」

 数日後の、静かな夜だった。


 扉が、ゆっくりと開いた。


 入ってきたのは、一人の女だった。やつれていた。実際の年より、ずっと老けて見えた。粗末な服を着て、その手は、長年の苦労を物語るように、荒れていた。


 女は、おずおずと、店の中を見回した。それから、カウンターのいちばん端の席に、遠慮がちに座った。


 「いらっしゃいませ」零は、静かに迎えた。


 女は、すぐには注文しなかった。膝の上で、両手を、固く握っていた。やがて、震える声で、言った。


 「ここは……人を、探すのにも、いい場所だと、聞いて」


 「人を、ですか」


 「探している子が、いるんです」女は、俯いた。「十年前、わたしが……手放してしまった、子を」


 零は、その横顔を見た。


 どこかで、見たことのある面影だった。すぐには、思い出せなかった。けれど、心の奥が、かすかに、ざわついた。


 厨房の方からは、ノアとルナの声が、小さく聞こえていた。ルナは、夕食の片付けを手伝っている。今、この女の声は、ルナには届いていない。


 零は、グラスを一つ、手に取った。


 「お話を、聞かせてください。その前に、一杯、お出しします」


 「お金は……あまり、ないんです」


 「お代は、結構です」零は、穏やかに言った。「この店は、お金のない方も、追い返しません」


 女は、顔を上げた。その目に、わずかに、涙が滲んでいた。


 零は、温かい飲み物を用意した。月蜜を溶かした、優しい味のものだった。冷えた体を、ゆっくり温めるように。


 「どうぞ」


 女は、両手で、グラスを包んだ。一口飲んで、肩の力が、少しだけ、抜けた。


 「……話して、いいんでしょうか」女が、ぽつりと言った。


 「ええ。ゆっくりで、いいですよ」


 女は、グラスを見つめながら、語り始めた。


 「十年前、わたしは、スラムにいました。貧しくて、その日の食べ物も、ないような暮らしで。そんな時に、子どもが、生まれたんです。女の子でした」


 零は、グラスを磨きながら、静かに聞いていた。


 「育てたかった。本当に、育てたかった。でも、わたしには、自分が生きるだけで、精一杯で。あの子に、食べさせてあげられなかった。このままじゃ、二人とも、死んでしまうと思った」


 女の手が、震えていた。


 「だから、わたしは……あの子を、子どものいない夫婦に、預けたんです。お金のある、ちゃんとした家だと、聞いて。あの子が、幸せになれるならと、思って。手放しました」


 女は、そこで、言葉を詰まらせた。


 「でも、後で、知ったんです。その夫婦は……子どもを、売り買いする、人たちだった。わたしは、あの子を、そんな人たちに……」


 涙が、グラスの中に、落ちた。


 零は、何も言わなかった。


 ただ、女が話し終えるのを、待った。


 「それから、ずっと、探しています」女は、涙を拭いもせずに、続けた。「十年、ずっと。あの子が、どこかで、生きているなら。せめて、一目だけでも。謝りたくて。わたしのせいで、つらい思いを、させたかもしれない。それを、謝りたくて」


 「お子さんの、お名前は」零が、静かに聞いた。


 女は、少し間を置いた。


 「……つけて、あげられませんでした」


 零の手が、止まった。


 「手放す時に、名前をつけたら、もっと、手放せなくなる気がして。だから、名前を、つけなかった。今でも、それが、いちばんの、心残りで」女は、消え入りそうな声で言った。「あの子は今頃、名前も、ないまま……」


 零は、その言葉を聞いて、確信した。


 厨房から聞こえる、ルナの声。


 あの子は、名前を、自分でつけた。


 誰もつけてくれなかったから。


 月が、きれいだったから。


 零は、しばらく、グラスを磨いていた。


 心の中で、整理していた。


 目の前の女は、十中八九、ルナの母親だ。面影が、似ている。話の筋も、合っている。十年前、スラムで、名前もつけずに手放された女の子。それは、ルナだ。


 だが、ルナは、言った。今は、過去を知りたくない、と。


 零には、選択肢があった。


 この女に、「あなたの子は、ここにいる」と告げることもできる。あるいは、何も言わずに、帰すこともできる。


 どちらも、零が決めることではなかった。


 決めるのは、ルナだ。


 「一つ、聞かせてください」零は、静かに言った。「もし、その子が見つかったとして。その子が、あなたに、会いたくないと言ったら。どうしますか」


 女は、はっと、顔を上げた。


 長い、沈黙があった。


 「……それでも、いいんです」やがて、女は、絞り出すように言った。「会いたくないと、言われても、当然です。わたしは、あの子を、手放したんだから。憎まれていても、仕方ない。ただ」


 女は、涙を、拭った。


 「ただ、あの子が、どこかで、ちゃんと生きていてくれたら。それだけで、いいんです。会えなくても。顔を、見られなくても。生きていてくれたら、それで」


 零は、長い間、その言葉を、受け止めていた。


 それから、静かに言った。


 「少し、待っていてもらえますか」


 「え……?」


 「確かめたいことが、あります。すぐ、戻ります」


 零は、厨房へ向かった。


 ルナが、皿を拭いていた。零に気づいて、顔を上げる。


 「おにーさん、どうしたの?」


 零は、ルナの前で、少し膝を折って、目線を合わせた。


 「ルナ。今、お店に、お客さんが来ています」


 「うん」


 「その人は、十年前に、自分が手放した子どもを、探しています」零は、ゆっくりと、言葉を選んだ。「スラムで、生まれた子です。名前を、つけてあげられなかったことを、ずっと、悔やんでいる人です」


 ルナの、皿を拭く手が、止まった。


 その目が、ゆっくりと、見開かれていった。


 「……それ」声が、かすれていた。「それ、もしかして」


 「わかりません」零は、正直に言った。「俺には、確かめる術がない。確かめられるのは、ルナだけです」


 ルナは、皿を、そっと置いた。


 その手が、震えていた。


 「あたし、言ったよね。過去なんて、知りたくないって」


 「言いました」


 「今でも、こわい」


 「わかっています」


 ルナは、俯いた。長い間、俯いていた。


 零は、急かさなかった。ただ、ルナが、自分で答えを見つけるのを、待った。


 「……でも」やがて、ルナが、小さく言った。「もし、ほんとに、あたしのお母さんなら」


 ルナは、顔を上げた。その目に、涙が、溜まっていた。


 「あたしのこと、探してくれてたんだ。十年も。あたしのこと、忘れてなかったんだ」


 「そうみたいです」


 ルナの頬を、涙が、伝った。


 「あたし、ずっと、思ってた。捨てられたんだって。いらない子だったんだって。だから、自分で名前つけて、一人で生きてくしかないって」ルナは、涙を拭った。「でも、違ったの?探してくれてたの?」


 零は、ルナの頭に、そっと手を置いた。


 「それは、あの人に、会って、確かめるしかありません。会いますか。会いませんか。ルナが、決めてください。どちらを選んでも、俺は、ルナの味方です」


 ルナは、シロを抱きしめた。


 それから、深く、息を吸った。


≪第44話・了≫


次話――ルナは、ゆっくりと、厨房の扉に手をかけた。「会う。会って、確かめる」。震える声だった。けれど、その足は、前に進んでいた。カウンターの端に座る女が、近づいてくる小さな足音に、ゆっくりと、顔を上げた。


【あとがき】


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


「名前を、つけてあげられませんでした」


名前をつけなかった母と、自分で名前をつけた娘。


「捨てられた」と思っていたルナ。でも、母は十年、探し続けていました。


会うか、会わないか。それは、ルナが決めることです。


零にできるのは、選択肢を差し出すことだけ。そして、どちらを選んでも、味方でいること。


次話、十年の距離が、縮まります。


続きが気になると思っていただけたなら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。


コメントで「ルナの選択、どうなると思いますか」を教えてもらえると嬉しいです。


次話もよろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ