第43話「知らない名前」
老人が旅立ってから、数日が過ぎた。
店には、穏やかな日々が戻っていた。
奥の部屋は、今は誰も使っていない。けれど、零は、その部屋を片付けずに、そのままにしておいた。いつでも、誰かが休めるように。
ある朝、ルナが、ダンジョンへ続く地下の扉を、じっと見ていた。
「おにーさん」
「なんですか」
「あの扉の向こう、もう、危なくないの?境界、直ったんだよね」
零は、グラスを磨きながら、頷いた。
「直りました。もう、世界が終わる心配はありません」
「じゃあ、東京へのゲートは、どうなったの?」
「ゲートは、まだあそこにあります。ただ、普段は閉じています」零は、少し考えてから続けた。「シロが、管理してくれています。開けたい時は、シロに頼む。月に一度くらいなら、開けても、境界に負担はかからないそうです」
ルナの目が、輝いた。
「じゃあ、また東京に行ける?」
「行けます。ルナが境界を感じ取れる間は」
「行く!おにぎり、また食べたい!」
零は、少しだけ笑った。
「じゃあ、次の機会に。今度は、ルナも一緒に」
ルナは、シロを抱え上げて、嬉しそうに頬を寄せた。
「聞いた、シロ?東京、行けるって」
シロが、耳を、ゆっくりと動かした。
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その夜、ダリウスが来た。
いつもの会員用の席ではなく、カウンターのいちばん端に座った。それだけで、零には、何かを察した。ダリウスが「いつもと違う場所」に座る時は、いつもと違う話がある時だった。
「飲むか」零が聞いた。
「いや。今夜は、酒の前に、話がある」ダリウスは、懐から、一通の書類を取り出した。「ルナのことで、わかったことがある」
零は、グラスを磨く手を止めた。
半年以上前、零はダリウスに、一つだけ頼みごとをしていた。ルナの過去を、調べてほしい、と。いつか、ルナの過去が、ルナを傷つけに来るかもしれない。その時、何も知らないより、知っていた方がいい。そう思ったからだった。
「……見つかったんですか」
「ああ」ダリウスは、書類をカウンターに置いた。だが、零の方へは、滑らせなかった。「ただ、先に言っておく。中身は、軽いものじゃない。読むかどうかは、お前が決めろ。いや」
ダリウスは、ちらりと、厨房の方を見た。ルナが、ノアの手伝いをしている声が、聞こえていた。
「本当は、あの子が決めるべきことだ」
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零は、書類を見た。
手に取らなかった。
「ダリウスさん。一つだけ、教えてください」
「なんだ」
「この中に、ルナを傷つけるものはありますか」
ダリウスは、少し間を置いた。
「……傷つけるかどうかは、あの子次第だ。事実は、事実でしかない。ただ」ダリウスは、声を低くした。「あの子をスラムで売ろうとした人間が、誰だったか。それが、書いてある」
零は、しばらく、書類を見ていた。
それから、手に取った。けれど、開かなかった。
「読まないのか」ダリウスが聞いた。
「俺が先に読むのは、違う気がします」零は、書類を、そっとカウンターの下にしまった。「これは、ルナのものです。ルナが、知りたいと思った時に、ルナが読むべきだ」
ダリウスは、しばらく零を見ていた。
それから、ふっと、息を吐いた。
「……お前は、本当に、そういう男だな」
「そういう、とは」
「情報を持っていても、使わない。相手が望まなければ、開かない」ダリウスは、少しだけ笑った。「情報省にいた頃の俺なら、考えられないことだ。情報は、握った瞬間に使うものだった」
「ここは、情報省じゃありませんから」
「そうだな」ダリウスは、頷いた。「ここは、バーだ」
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ダリウスが帰った後。
閉店して、全員が引き上げた後。
零は、ルナを呼んだ。
「ルナ、少し、いいですか」
ルナは、シロを抱えて、カウンターの椅子に座った。何かを察したのか、いつもより、少し神妙な顔をしていた。
「なに?真面目な話?」
「真面目な話です」
零は、カウンターの下から、書類を取り出した。けれど、ルナには見せずに、手元に置いた。
「今日、ダリウスさんが、これを持ってきました。ルナの、昔のことが書いてある書類です」
ルナの動きが、止まった。
「……あたしの、昔」
「はい。ルナが、スラムにいた頃のこと。ルナの家族のこと。それから――」零は、少し間を置いた。「ルナを、売ろうとした人が、誰だったのか」
ルナは、シロを抱える腕に、力を込めた。
店の中が、静かになった。
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「俺は、これを読んでいません」零は、静かに続けた。「これは、ルナのものだからです。ルナが、知りたいと思うなら、一緒に読みます。知りたくないなら、このまま、燃やします。どちらでも、ルナが選んでください」
ルナは、書類を見た。
長い間、見ていた。
その小さな手が、膝の上で、ぎゅっと握られていた。
「……知ったら」やがて、小さな声で言った。「あたし、変わっちゃうかな」
「どういう意味ですか」
「今、あたし、幸せなの。ここに、おにーさんがいて、シロがいて、みんながいて。すごく、幸せ」ルナは、俯いた。「でも、昔のこと知ったら……その幸せが、なんか、変わっちゃう気がする。こわい」
零は、すぐには答えなかった。
ルナの言葉を、受け止めるように、少し間を置いた。
「変わるかもしれません」零は、正直に答えた。「知ることで、何かが変わることは、あります。それは、嘘をつけません」
ルナの肩が、少し落ちた。
「でも」零は、続けた。「知っても、知らなくても、ルナがここにいることは、変わりません。ルナがこの店の、大事な家族だってことは、何があっても、変わらない。それだけは、約束します」
ルナは、顔を上げた。
零を、じっと見た。
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「……今は、いい」
やがて、ルナは言った。
「今は、知りたくない。まだ、こわいから。でも」
ルナは、シロを抱きしめた。
「いつか、ちゃんと、知りたいと思う日が来たら、その時、読む。だから、それまで、捨てないで、取っておいて」
零は、頷いた。
「わかりました。ルナが、いつか読みたいと思う日まで、大事に取っておきます」
「ぜったいだよ」
「絶対です」
ルナは、少しだけ、笑った。けれど、その目は、まだ少し、揺れていた。
「おにーさん」
「なんですか」
「あたしの、ほんとの名前、その紙に書いてあるのかな」
零は、少し間を置いた。
「書いてあるかもしれません」
「あたし、ルナって名前、自分でつけたんだ。スラムにいた頃。月が、きれいだったから」ルナは、窓の外を見た。「だから、ほんとの名前があっても……あたしは、ルナでいたい」
「いい名前です」零は、静かに言った。「月の、ルナ。よく似合っています」
ルナは、今度は、ちゃんと笑った。
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ルナが二階に上がった後。
零は、書類を、棚の奥の、いちばん安全な場所にしまった。
ルナが、いつか読みたいと思う日まで。
その日が来るのか、来ないのか。
それは、ルナが決めることだった。
零は、カウンターを磨いた。
ふと、奥の部屋に、目をやった。
老人がいた部屋だ。
あの人なら、今の話を、どう聞いただろうか。
「知ることだけが、答えじゃない」
きっと、そんなことを、言ったかもしれない。
零は、少しだけ笑って、また手を動かした。
今夜も、この店は、続いている。
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≪第43話・了≫
**次話――数日後の夜。一人の女が、店の扉を開けた。やつれた、年老いた女だった。カウンターに座ると、震える声で言った。「探している子がいる。十年前、わたしが、手放してしまった子を」。零は、その顔に、どこか見覚えのある面影を感じた。**
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【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「あたし、ルナって名前、自分でつけたんだ。月が、きれいだったから」
スラムにいた頃、自分で自分に名前をつけた女の子。
本当の名前があっても、ルナはルナでいたいと言いました。
知ることだけが、答えじゃない。知らないことを選ぶのも、一つの強さです。
でも――過去の方から、近づいてくることも、あります。
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次話もよろしくお願いします。




