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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第42話「最後の休息」

 店に戻った頃には、もう夜明けが近かった。


 全員、疲れ果てていた。けれど、誰一人、欠けていなかった。


 ルナは、椅子に座るなり、シロを抱きしめて、しばらく動かなかった。アリシアが、その隣で、そっと背中をさすっていた。ノアは何も言わずに厨房へ立ち、湯を沸かし始めた。ヴァルドは、いつもの入口の位置に戻って、ようやく、剣の柄から手を離した。


 老人は、カウンターの、いつもの端の席に座った。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて、老人が、静かに言った。


 「零」


 「はい」


 「約束の、一杯をもらえるか」


 零は、カウンターの内側で、ゆっくりと頷いた。


 「最後の一杯、ですね」


 「ああ」老人は、穏やかに微笑んだ。「最後の、一杯だ」


---


 零は、棚から、一つのグラスを選んだ。


 いちばん長く、磨き続けてきたグラスだった。


 何を出すかは、もう決まっていた。


 老人が、初めてこの店に来た夜。零は「百五十年ぶりの味」を出した。三百年間、何も感じなくなっていた老人に、味を、取り戻させた一杯だった。


 その次の夜。零は「最初の休息」を出した。三百年間、眠れなかった老人に、初めての眠りを、もたらした一杯だった。


 ならば、最後の一杯は。


 零は、アイテムボックスから、泉の水を取り出した。境界の傷を癒した、あの水だ。鍋に移し、静月草を、ほんの少し加える。月蜜を、一匙。ゆっくりと、温めた。


 湯気が、立ち上った。


 甘く、優しい香りが、店に広がった。


 零は、それをグラスに注いで、老人の前に置いた。


 「どうぞ」


 「名前は」


 零は、少し間を置いてから、答えた。


 「『最後の休息』にしました」


 老人は、その名を聞いて、目を細めた。


 「最初の休息から、最後の休息か」


 「はい」


 「……粋なことを、するな」


---


 老人は、グラスを両手で包んだ。


 節くれだった、長い時間を生きてきた手だった。


 一口、飲んだ。


 目を、閉じた。


 長い間、何も言わなかった。


 「……温かいな」やがて、低く言った。「腹の底まで、温かい」


 「眠る前に、体を温めた方がいいと思いまして」


 「気が利く」老人は、もう一口、ゆっくりと飲んだ。「三百年、こんな風に、誰かに何かを出してもらったことは、なかった」


 零は、何も言わずに、次の言葉を待った。


 「三百年、ずっと一人だった」老人は、グラスの湯気を見つめていた。「境界が乱れていくのを、ただ、記録し続けた。誰にも頼まれず、誰にも知られず。見届ける者が、必要だと思ったからだ。だが」


 言葉が、少し途切れた。


 「だが、ずっと、思っていた。これは、何のためなんだ、と。記録しても、止められない。ただ、世界が壊れていくのを、書き留めるだけ。……それに、何の意味があるのか、と」


 ルナが、シロを抱えたまま、老人を見ていた。


---


 「意味は、ありましたよ」零が、静かに言った。


 老人が、顔を上げた。


 「あなたが三百年、記録し続けたから、何が起きているかがわかった。どこを直せばいいかがわかった。あなたがいなければ、俺たちは、何も知らないまま、世界が終わるのを待つだけでした」


 零は、グラスを磨きながら、続けた。


 「あなたの三百年は、今夜のためにありました。無駄だったことなんて、一つもありません」


 老人は、しばらく、零を見ていた。


 それから、ふっと、息を吐いた。長い、長い息だった。三百年分の何かを、吐き出すような息だった。


 「……そう言ってもらえると、報われた気がするな」


 その時、ルナが、椅子から降りた。


 シロを抱えたまま、老人の隣まで、とことこと歩いてきた。


 「老人さん」


 「なんだ、嬢ちゃん」


 「眠ったら、もう、起きないの?」


 店が、静かになった。


 老人は、ルナを見下ろした。優しい目だった。


 「……ああ。もう、起きない」


 ルナの顔が、くしゃりと歪んだ。


 「やだ」小さな声だった。「せっかく、仲良くなったのに。やだよ」


---


 老人は、ゆっくりと、ルナの頭に手を置いた。


 「嬢ちゃん」


 「なに」


 「俺はな、三百年、眠りたくても眠れなかった。眠ることが、許されなかった。役目があったからだ」老人の声は、穏やかだった。「だが、その役目は、お前たちが、終わらせてくれた。だから、今、俺はようやく、眠れる。これは、悲しいことじゃない。ずっと、待っていたことなんだ」


 「でも」ルナの目に、涙が溜まっていた。「でも、寂しい」


 「ああ。俺も、少し、寂しい」老人は、微笑んだ。「だが、寂しいと思えるのは、いいことだ。三百年、俺は、寂しいとすら、思わなかった。一人でいることに、慣れすぎていたからな」


 老人は、ルナの頭を、そっと撫でた。


 「お前たちと過ごした、この短い間に、俺は、寂しいと思えるようになった。それは、お前たちがくれたものだ。だから、礼を言う。ありがとう」


 ルナは、こらえきれずに、声を上げて泣いた。


 シロが、ルナの腕の中から、老人を見上げていた。


 老人は、シロにも、視線を向けた。


 「守護者よ。長い間、世界を守ってくれた。お前も、もう、少し肩の力を抜いていい」


 シロが、耳を、ゆっくりと動かした。


 ルナが、涙の合間に、その言葉を伝えた。


 「シロが……『あなたも、おつかれさま』って」


 老人は、声を立てずに、笑った。


---


 老人は、最後の一口を、飲み干した。


 グラスを、そっとカウンターに置いた。


 「うまかった」静かに言った。「百五十年ぶりに味を取り戻して、よかった。最後に、こんなにうまいものを、味わえた」


 「ありがとうございます」零は、深く、頭を下げた。


 老人は、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。


 「奥の部屋を、借りるぞ。最後に、ゆっくり眠りたい」


 「どうぞ」


 老人は、奥の部屋へと、歩いていった。


 その途中で、一度だけ、立ち止まった。


 振り返らずに、言った。


 「いい店だ。三百年生きて、こんな場所には、出会ったことがなかった」


 少し、間があった。


 「……来た時と、帰る時で、顔が違う。お前の店は、本当に、そういう店だな」


 零は、静かに答えた。


 「ありがとうございます」


 老人は、奥の部屋の扉を開けて、中へ入った。


 扉が、静かに閉まった。


---


 翌朝。


 零が奥の部屋の扉を開けると、そこには、誰もいなかった。


 布団は、きれいに整えられていた。


 眠った跡だけが、わずかに残っていた。


 老人は、いなかった。


 争った様子も、苦しんだ様子も、何もなかった。


 ただ、静かに、いなくなっていた。


 「終わりの者」が、役目を終えて、本当の眠りについた。


 それだけのことだった。


 零は、しばらく、その部屋に立っていた。


 それから、静かに、扉を閉めた。


---


 ルナが、二階から降りてきた。


 奥の部屋の扉の前に立つ零を見て、すべてを察したようだった。


 「……いっちゃった?」


 「はい」


 ルナは、しばらく俯いていた。


 それから、顔を上げた。涙の跡があったが、もう、泣いていなかった。


 「老人さん、ちゃんと、眠れたかな」


 「眠れたと思います」零は、穏やかに答えた。「三百年ぶりの、本当の眠りです。きっと、いい夢を見ています」


 ルナは、頷いた。


 それから、ぽつりと、言った。


 「あたし、忘れないよ。あの人のこと」


 「俺もです」


 シロが、ルナの足元に来て、奥の部屋の扉を、じっと見ていた。


 やがて、シロは、ルナを見上げて、耳を動かした。


 ルナが、その言葉を、そっと伝えた。


 「シロが……『いってらっしゃい、じゃなくて、おやすみなさい、だね』って」


 零は、少しだけ、笑った。


 「そうですね。おやすみなさい、です」


 朝の光が、店に差し込んでいた。


 今日も、この店は、続いていく。


 一人、見送って。


 でも、続いていく。


---


≪第42話・了≫


次話――境界が直り、老人が旅立ち、店に、穏やかな日々が戻ってきた。ある夜、ダリウスが来て、一通の書類を差し出した。「ルナのことで、わかったことがある」。零は、その書類を受け取った。ずっと保留にしていた、ルナの過去についての記録だった。


---


【あとがき】


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


「最初の休息」から、「最後の休息」へ。


三百年、眠れなかった人が、ようやく眠れる夜を書きました。


「寂しいと思えるのは、いいことだ。お前たちが、くれたものだ」


別れは寂しいけれど、寂しいと思えること自体が、彼が受け取った贈り物でした。


百五十年ぶりの味さん、おやすみなさい。


続きが気になると思っていただけたなら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。


コメントで「百五十年ぶりの味さんへ、一言」をいただけると嬉しいです。


次話から、第三幕。穏やかな日々と、残された伏線へ向かいます。



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