第41話「境界の修復」
翌日の夜、全員がダンジョンの第三層に降りた。
封印された扉の前に、シロが座った。金色の目が、扉を見据える。やがて、紋様が、ゆっくりと光を帯び始めた。
ルナは、扉の前で目を閉じていた。両手を、胸の前で軽く握っている。
「……見える」かすかな声だった。「中心が、見える。揺れの、いちばん濃いところ」
老人が、一歩前に出た。これまでの彼とは、まるで違う佇まいだった。背筋が、まっすぐに伸びていた。
「では、行こう」その声は、低く、しかし揺るぎなかった。「三百年分を、終わらせに」
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扉が、音もなく開いた。
だが今夜は、東京の橙色の光は見えなかった。代わりに、扉の向こうには、白でも黒でもない、奇妙な空間が広がっていた。色がなく、上下もなく、ただ、何かが絶え間なく流れているのが感じられた。
「これが……」ノアが、思わず低く呟いた。「世界の、間か」
「足を踏み入れたら、後戻りは難しい」老人が、全員を振り返った。「ここから先は、急ぐ。時間は、ほとんどない」
ルナが、先頭に立った。
その肩が、小さく震えていた。怖いのだ、と零にはわかった。それでも、ルナは前に出た。
「あたしじゃないと、道がわからないから」ルナは、自分に言い聞かせるように言った。「だから、あたしが先に行く」
「ルナ」零が、その小さな背中に声をかけた。「すぐ後ろにいます」
ルナは、振り返らずに頷いた。
「おにーさん、ずっと喋ってて。あたし、おにーさんの声がしないと、怖いから」
「わかりました。ずっと喋っています」
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ルナを先頭に、五人と一匹が、白い空間に足を踏み入れた。
奇妙な感覚だった。地面があるのに、ないようだった。自分の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
零は、約束通り、喋り続けた。
「ルナ、この間のおにぎり、どれが一番好きでしたか」
「……昆布」ルナの声が、前から返ってきた。少し、落ち着いたようだった。「鮭も、おいしかったけど。やっぱり、昆布」
「次に行けたら、また買ってきます」
「ほんと?」
「ほんとです」
他愛のない会話だった。けれど、その声のやり取りが、二人を、この曖昧な空間につなぎとめていた。
アリシアが、ルナの肩に手を置いていた。ヴァルドが、最後尾で周囲を睨んでいた。斬る相手などいないのに、それでも、警戒を解かなかった。
しばらく進むと、ルナの足が、止まった。
「ここ」声が、震えていた。「ここが、いちばん濃い。傷が、ここにある」
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老人が、ルナの隣に立った。何もない空間を、じっと見つめる。三百年、観測し続けてきた者の目だった。
「……ああ。間違いない」老人が、静かに言った。「ここだ。三百年前、文明が無理やりこじ開けた場所。傷が、いちばん深い」
零は、その「何もない場所」を見た。
ルナと老人には見えているらしい傷が、零には見えなかった。ただ、そこに、苦しいものがあるのは、感じられた。
「零」老人が言った。「お前の出番だ。だが、急げ。もう、長くは保たない」
零は、アイテムボックスから、水筒を取り出した。中身は、ダンジョンの泉の水だった。グラスに、静かに注ぐ。
白い空間の中で、水だけが、確かな輪郭を持っていた。
だが、老人が、首を横に振った。
「待て。ただの水では、届かない」
零が、手を止めた。
「届かない、とは」
「相手は、傷ついた境界だ。物には、反応しない」老人は、シロを見た。「だが、守護者の力が宿った水なら、別だ。境界は、守護者を、知っている。守護者の力だけが、あれに触れられる」
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シロが、ゆっくりとグラスの前に歩み出た。
金色の目が、水を見つめる。
シロが、鼻先を、そっと水面に近づけた。
その瞬間、グラスの水が、淡く光り始めた。白い空間の中で、ひときわ強く、確かに。守護者の力が、水に宿ったのが、誰の目にもわかった。
ルナが、息を呑んだ。
「……水が、シロと同じ光になった」
「これでいい」老人が言った。「零。それを、境界に」
零は、光る水の入ったグラスを、両手で持った。
そして、目の前の「傷」に向かって、静かに語りかけた。
「あなたは、奪われたんですね」
声が、白い空間に、溶けていった。
「三百年前、大勢の人間が、あなたを無理やりこじ開けて、向こうへ行こうとした。あなたの都合なんて、誰も考えなかった。ただ、通り道として、踏みにじられた」
ルナが、零を見た。震えながら、それでも、じっと見ていた。
「俺は、何も奪いに来ていません。向こうへ行きたいわけでもない」零は、グラスを傷の方へ傾けた。「この水には、あなたを守ってきた守護者の力が宿っています。あなた自身の、力です。それを、返しに来ました」
グラスの水が、守護者の光を湛えて、揺れた。
「どうぞ。あなたの、一杯です」
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光る水が、グラスの縁から、空間へと、ゆっくり流れ出した。
最初は、何も起きなかった。
白い空間は、相変わらず、ささくれ立つように流れ続けていた。
ヴァルドの手に、力がこもった。
だが、零は、グラスを傾けたまま、動かなかった。急がなかった。
ルナが、ふいに、息を呑んだ。
「揺れが……変わった」目を、大きく見開いた。「さっきまでの、痛がってる揺れじゃない。守護者の力に、気づいた。……こっちを、見てる」
守護者の光をまとった水が、空間へと、吸い込まれ始めた。
まるで、長い間、傷を放っておかれた何かが、おそるおそる、差し出された自分自身の力を、受け取るように。
「もう少しだ」老人の声に、わずかな震えがあった。「三百年、誰もこいつに、何も返さなかった。奪うだけだった。……だが、今、初めて、力が、帰っていく」
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ルナの目から、涙がこぼれた。
「受け取ってる」震える声で言った。「境界が、自分の力を、受け取ってる」
白い空間の流れが、穏やかになっていく。引き裂かれて、ささくれ立っていた何かが、少しずつ、整っていく。三百年分の痛みが、ゆっくりと、ほどけていく。
零は、グラスを傾けたまま、静かに言った。
「ゆっくりで、いいですよ。急がなくていい。三百年、待ったんです。あと少しくらい、どうってことない」
その声は、店で客にかける時と、同じだった。
グラスの水が、完全に空になった。
その時――白い空間が、一度、大きく、脈を打った。
光が、満ちた。
痛みの色ではない。穏やかで、暖かい、整った光だった。
「直った……」ルナが、呟いた。「揺れが、まっすぐになった。もう、痛がってない」
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零は、空になったグラスを、しまった。
老人が、長い間、その光を見ていた。
三百年、記録し続けた乱れが、今、目の前で、整っていく。
零は、隣に立つ老人を見た。
老人は、泣いてはいなかった。ただ、これ以上ないほど、静かな表情をしていた。長い、長い旅の終わりを、見届ける顔だった。
「……終わった」老人が、呟いた。「三百年だ。ようやく、終わった」
「全員、戻るぞ」ヴァルドが、鋭く言った。「ここに長くいるなと言われている。喜ぶのは、外に出てからだ。早く」
その言葉で、全員が我に返った。
ルナが、先頭に戻った。
「うん。戻ろう。みんな、あたしの声、聞いてて。来た時と、同じ。離れないで」
まだ、気を抜く場所ではなかった。
ルナは、自分の足元を確かめながら、一歩ずつ、来た道を戻り始めた。
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扉を抜けて、第三層に戻った。
固い石の床の感触が、足の裏に戻ってきた。
その瞬間、ルナの体から、力が抜けた。
「……あっ」
膝が、折れた。
アリシアが、すぐに支えた。
「ルナさん!」
「だい、じょうぶ」ルナは、アリシアの腕の中で、荒い息をついた。「もう、外だから。力、抜けても、平気だから」
その顔は、真っ青だった。けれど、その口元は、確かに笑っていた。
「おにーさん」ルナが、零を見上げた。「直った、よね。あたしたち、ちゃんと、直したよね」
零は、ルナの前に膝をついて、目線を合わせた。
「直しました。ルナがいなければ、誰も中心に辿り着けなかった。あなたのおかげです」
ルナは、それを聞いて、ようやく、安心したように、目を閉じた。
シロが、ルナの頬に、そっと鼻先を寄せた。
その小さな体も、疲れているように見えた。けれど、確かに、満ち足りた様子だった。
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**≪第41話・了≫**
**次話――店に戻った。全員、生きて帰ってきた。老人が、カウンターに座って、静かに言った。「約束の、一杯をもらえるか」。零は頷いた。「最後の一杯ですね」。それは、三百年の旅を終えた老人を、見送るための一杯だった。**
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【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「この水には、あなたを守ってきた守護者の力が宿っています。あなた自身の、力です。それを、返しに来ました」
奪うのではなく、返す。
世界の終わりを止めたのは、力ずくの何かではなく、「あなた自身のものを、返しに来た」という一杯でした。
次話、いよいよ老人を見送ります。
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次話もよろしくお願いします。




