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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第40話「境界の中心へ」

 その朝の訓練は、いつもより静かに終わった。


 ルナは床に座ったまま、しばらく目を閉じていた。やがて、ゆっくりと息を吐いて、目を開けた。


 「ねえ」隣に立っていた老人を見上げる。「いつ、境界を直しに行くの?」


 老人は、すぐには答えなかった。ルナの顔を、長い間、見ていた。何かを確かめるような目だった。


 「お前の準備が整えば、いつでもだ」


 ルナは、自分の手のひらをじっと見た。それから、確かめるように、ぎゅっと握った。


 「……あたし、もう準備できてる気がする。最近、目を閉じなくても、揺れがわかるようになったの。ずっと、そこにあるって」


 老人の表情が、わずかに動いた。


 長い沈黙のあと、彼は静かに言った。


 「そうか。……そうかもしれないな」


 その声には、これまでにない重さがあった。ルナにもそれが伝わったのか、握った手を、もう一度、開いて見つめた。


---


 その夜、店を閉めた後。


 老人は、めずらしく自分から全員をカウンターに集めた。奥の部屋から出てきたその姿は、いつもと違って見えた。背筋が、少しだけ伸びていた。


 「明日の夜、境界を直しに行く」


 その一言で、店の空気が変わった。


 ノアが腕を組んだまま、老人を見た。アリシアが手元のノートを、そっと閉じた。ヴァルドは壁から背を離した。


 「いよいよ、ですか」零が静かに聞いた。


 「ああ。準備は、整った」老人はカウンターに両手を置いた。節くれだった手だった。「説明しておく。今夜は、しっかり聞いてくれ」


 全員が、老人に視線を集めた。


---


 「ゲートを開けると、二つの世界の間に、わずかな隙間が生まれる」老人は、ゆっくりと話し始めた。「これまでは、その隙間を通り抜けて、向こうの世界へ渡った。だが、今度は違う」


 「通り抜けない、ということですか」アリシアが聞いた。


 「そうだ。隙間の、ちょうど真ん中で止まる。そこが、境界の中心だ。三百年前の乱れが、最も濃く残っている場所だ」


 ルナが、ぴくりと反応した。


 「あたしが感じてる揺れって、そこから来てるの?」


 「そうだ。お前は、ずっとその中心の揺れを感じ取ってきた。だから、そこへ辿り着ける」


 ルナは、シロを抱える腕に、少しだけ力を込めた。


 「そこで、何をするの?」


 老人は、零を見た。


 「それは、この男が説明した方がいい」


---


 全員の視線が、零に集まった。


 零は、磨いていたグラスを置いて、少し間を置いてから口を開いた。


 「三百年前、ここにいた文明は、力ずくで境界を越えようとしました。大勢で、一斉に。奪うように、押し通るように」


 「それで、乱れが生まれた」アリシアが続けた。


 「ええ。境界は、無理やりこじ開けられて、傷ついた。その傷が、三百年かけて広がってきた」零は、棚に並ぶグラスを、静かに見渡した。「だから、直す方法は、逆でなければならないと思っています」


 「逆、とは」ヴァルドが低く聞いた。


 「奪うのではなく、捧げる。押し通るのではなく、差し出す」零は、一つのグラスを手に取った。「俺は、境界に、一杯を出します」


 店の中が、静かになった。


 ノアが、訝しげに眉を寄せた。


 「……境界に、酒を出すだと?」


 「はい」


 「相手は、人間じゃない。傷ついた、世界の境目だ。そんなものに、酒が効くのか」


 零は、少し間を置いた。それから、ノアの目を、まっすぐに見た。


 「効くかどうかは、わかりません。でも、俺にできることは、それだけです。来てくれた相手に、必要なものを一杯出す。それが、俺がこの一年半、ずっとやってきたことですから」


 ノアは、しばらく零を見ていた。やがて、ふっと息を吐いて、腕を組み直した。


 「……お前が言うなら、そうなんだろうな」


---


 「ただし」老人が、声の調子を変えた。「危険がある。隠さずに言っておく」


 全員が、再び老人を見た。


 「境界の中心は、二つの世界のどちらでもない場所だ。人間が、長くいていい場所ではない。長く留まれば、意識が境界に溶ける。戻れなくなる」


 ルナが、息を呑んだ。


 「だから、時間は短い。一度きりだ。失敗しても、やり直しはきかない」老人の目が、一人ひとりを順に見ていった。「それでも、行くか」


 最初に口を開いたのは、ルナだった。


 「行く」


 迷いのない声だった。けれど、その手は、シロを強く抱いていた。


 「あたしが揺れを感じなきゃ、誰も中心に辿り着けない。あたしが行かなきゃ、誰も行けない。だから、行く」


 老人は、ルナを見た。長い間、見ていた。それから、ヴァルドに目を移した。


 「俺は、ゲートのこちら側で待つ」ヴァルドが言った。「だが、もし境界が乱れて、誰かが戻れなくなりそうなら――その時は、俺が中へ入る。引きずってでも、連れ戻す」


 「お前は境界を感じ取れない。中で迷うぞ」


 「構わない」ヴァルドは、即答した。「迷おうが、引きずり出す。それが俺の役目だ」


 老人は、わずかに目を細めた。何も言わなかったが、その沈黙は、了承だった。


---


 話が一段落した頃、ノアが厨房に立った。


 「今夜は、ちゃんとした飯を作る。明日が本番なら、今夜は腹を満たして、よく寝ろ」


 誰も「余り物か」とは聞かなかった。今夜は、そういう夜ではなかった。


 料理ができるまでの間、零は老人に近づいた。声を、少し落とした。


 「一つ、聞いていいですか」


 「なんだ」


 「あなたは、明日が終わったら、どうするんですか」


 老人は、すぐには答えなかった。カウンターの木目を、指でなぞった。


 「……三百年だ」やがて、低く言った。「三百年、俺はこの乱れを記録し続けてきた。誰にも頼まれずに。ただ、見届ける者が必要だと思ったからだ」


 「ええ」


 「明日、それが終わる。乱れが直れば、俺の役目は、なくなる」


 零は、何も言わずに、次の言葉を待った。


 老人は、ふっと、息を吐いた。それは、ため息にも、安堵にも聞こえた。


 「ようやく、眠れる。三百年ぶりに、本当の意味で」


 その声には、悲しみはなかった。むしろ、長い旅の終わりを前にした、静かな喜びのようなものがあった。


 零は、しばらく考えてから、言った。


 「眠る前に、もう一杯、出させてください」


 老人が、零を見た。


 「明日の、全部が終わったら。あなたのための、最後の一杯を」


 老人は、少しの間、零を見つめていた。それから、口の端を、ほんのわずかに上げた。


 「……楽しみにしておこう」


---


 その夜、ノアの作った料理を、全員で囲んだ。


 ルナは、よく食べた。よく笑った。緊張を、笑顔で押し隠しているのが、零にはわかった。


 シロは、ルナの膝の上で丸くなっていた。


 アリシアは、いつもより口数が少なかった。代わりに、ルナの皿に、何度も料理を取り分けていた。


 ヴァルドは、黙って食べていた。だが、ルナがふざけて笑った時、その口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 老人は、ゆっくりと、一口ずつ味わっていた。


 明日、世界の終わりを、止めに行く。


 でも今夜は、ただの、温かい食卓だった。


 零は、その光景を、カウンターの内側から見ていた。


 守りたいのは、これだ、と思った。


 大げさな世界ではない。


 この、小さな食卓だった。


---


≪第40話・了≫


**次話――翌日の夜。全員がダンジョンの第三層に降りた。シロが扉の前に座り、紋様が光り始めた。ルナが目を閉じて、静かに言った。「見える。中心が、見える」。老人が一歩、前に出た。「では、行こう。三百年分を、終わらせに」**


---


【あとがき】


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


今話で、老人がついに動き出しました。


「ようやく、眠れる。三百年ぶりに、本当の意味で」


三百年、一人で世界の終わりを記録し続けた人の、長い旅が、もうすぐ終わります。


零が約束した「最後の一杯」が、どんなものになるのか。

続きが気になると思っていただけたなら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。


コメントで「守りたい小さな食卓、あなたにもありますか」を教えてもらえると嬉しいです。



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