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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第39話「選んで来た」

 数日後の夜だった。


 扉が開いて、バルスが入ってきた。


 前と同じ、落ち着いた色の服。護衛もいない。一人だった。


 ただ、前に来た時より、足取りが少しだけ軽かった。


 バルスはカウンターに座ると、しばらく何も言わずに店の中を見回した。それから、意を決したように口を開いた。


 「前に来た時、俺は、あの生き物が幸せかどうかを聞いた」


 「覚えています」零はグラスを磨く手を止めずに答えた。


 「今日も、同じことを聞きたい。……構わないか」


 その言い方は、ずいぶん遠慮がちだった。かつて護衛を引き連れて、力で全てを手に入れようとした男とは、思えなかった。


 零はルナを呼んだ。


 「ルナ、少しいいですか」


 厨房の方から、ルナがシロを抱えて出てきた。バルスを見て、足を止める。少しだけ身構えた。でも、前のように睨みつけることはしなかった。


 「バルスさん、また来たんだ」


 「来た」


 「シロが幸せかどうか、知りたいんでしょ」


 バルスが驚いた顔をした。「……なぜ、わかった」


 「前もそうだったから」ルナはシロを抱え直して、バルスの近くまで歩いてきた。「バルスさん、それを聞きに来る人なんだって、わかってきた」


 ルナはシロの顔を覗き込んだ。


 「シロ、今、幸せ?」


 シロは耳をゆっくりと動かした。ルナがその様子をじっと見て、少しだけ頬を緩めた。


 「……うん。幸せだって。前と、同じ答え」


 「そうか」


 バルスの返事は短かった。けれど、その肩から、ふっと力が抜けるのが、零には見えた。張り詰めていた何かが、ほどけたようだった。


 その時だった。


 シロが、ルナの腕の中で身じろぎした。


 するりと床に降りる。


 そして、まっすぐにバルスの方へ歩き出した。


 店の中が、静かになった。


 ルナが目を見開いた。「シロ……?」


 シロは、バルスの足元まで来ると、ぴたりと止まった。金色の目で、まっすぐにバルスを見上げる。


 バルスは、息を止めていた。身じろぎ一つできずに、シロを見下ろしていた。


 シロが、頭をそっとバルスの足に寄せた。


 触れるか触れないか、それくらいの距離で。


 バルスの体が、固まった。


 「……ルナ」声が、かすかに震えていた。「これは、どういう意味だ」


 ルナはシロを見つめて、その意を汲み取ろうとした。少し首を傾げる。


 「シロが言ってる。『怖くない』って」


 「怖く、ない」


 「うん。バルスさんのこと、怖くないって」


 バルスは、シロを見たまま動けなかった。手を伸ばしたいのに、伸ばせない。そんな様子だった。


 「……触れても、いいのか」


 ルナがシロに目をやる。シロは、ただ静かにそこにいた。


 「いいって」


 バルスは、ゆっくりと手を伸ばした。その手は、大の男のものとは思えないほど、震えていた。シロの頭に、指先がそっと触れる。


 シロは、逃げなかった。


 じっと、触れられるままにしていた。


 バルスの手が、その小さな頭の上で止まった。長い間、止まったままだった。


 零は、何も言わずにその様子を見ていた。布を動かす手だけが、静かに動いていた。


 やがて、バルスがそっと手を離した。シロをもう一度見つめてから、ぽつりと言った。


 「……前に来た時、俺はこの生き物を、奪おうとした」


 「ええ」


 「珍しいから。美しいから。手に入れたかった。それだけの理由でだ」バルスの声は、自分を責めるように低かった。「だが、あの時、こいつは俺から逃げた。当然だ。俺は、奪おうとしたんだから」


 「そうでしたね」


 「それが、今は」バルスは、まだ自分の手のひらを見ていた。「こいつは、自分から俺のところに来た。俺は、何もしていないのに」


 言葉が、そこで途切れた。


 バルスは、しばらく黙ってから、絞り出すように続けた。


 「……何が、違うんだ。あの時と、今と」


 零は、磨いていたグラスを、そっとカウンターに置いた。少し考えてから、静かに答えた。


 「奪われるものと、与えられるものの違いだと思います」


 バルスが、顔を上げた。


 「奪おうとすれば、相手は逃げます。当たり前のことです」零は新しいグラスを手に取りながら、続けた。「でも、あなたが変わったことを、シロは感じ取った。だから、自分から来た。誰かに与えられた信頼は、奪い取った所有とは、まるで違うものなんです」


 バルスは、その言葉を噛みしめるように、黙っていた。


 零は、アイテムボックスから一本のボトルを取り出した。グレンファークラス。前の世界から持ち込んだウイスキーだった。


 「これは何だ」バルスがグラスを覗き込む。琥珀色の液体が、灯りを受けて揺れた。


 「ウイスキーです。前の世界のものですよ」


 「お前は、本当に色々なものを出すな」バルスの声に、もう警戒はなかった。むしろ、どこか楽しんでいるようでもあった。


 「ただ、今日のこれは、珍しさで選んだわけじゃないんです」零はラベルを、バルスに見せた。「この酒を造っている家のことを、あなたに知ってほしくて」


 「家の、こと」


 「ええ。六代続いている家です。二百年、同じ家族が、同じ場所で造り続けている」


 バルスがグラスから顔を上げた。「二百年……」その言葉を、もう一度、噛みしめるように繰り返す。「俺の家でも、そこまでは続いていない」


 「その二百年の間に、何度も大きな商人が買収を持ちかけたそうです。売れば、一生かかっても使いきれない金が手に入った」


 「それを、断ったのか」


 「六代、ずっと」


 バルスは、しばらくグラスを見つめてから、ゆっくりと口を開いた。


 「……なぜだ。なぜ、断った」


 「金で大きくするより、家族の手で続ける方が、いい酒になる。そう信じていたからです」


 バルスは、グラスを手に取った。香りを嗅ぎ、一口、口に含む。


 ゆっくりと、目を細めた。


 「……濃いな。甘い。ぶどうの酒の樽で寝かせた味だ」


 「シェリー樽です。手間も金もかかる。でも、その家は、その方法を二百年変えませんでした」


 バルスは、グラスを見つめたまま、低く呟いた。


 「俺は、金があれば、何でも手に入ると思っていた」


 「そうですか」


 「珍しいものも、美しいものも、全部、金で買えると思っていた。実際、たいていのものは買えた」


 バルスの視線が、ルナの足元に戻ったシロへと向かった。


 「だが、こいつは、金では来なかった。俺が変わったから、来た」バルスは、自嘲するように、少しだけ笑った。「この酒も、そうだな。金で大きくしなかったから、この味がある。金で買えないものを、二百年、守り抜いた」


 「ええ」


 「……俺は、その逆ばかりをやってきた」


 零は、布を手に取りながら、静かに言った。


 「これから、変えていけます」


 バルスは、零をじっと見た。何かを言いかけて、やめた。そして、口の端を、ほんの少しだけ上げた。


 それは、零が初めて見る、バルスの笑顔だった。


 しばらくして、バルスが言った。


 「一つ、聞いてほしいことがある」


 「どうぞ」


 「俺の屋敷には、珍しい生き物がたくさんいる。金で集めた、珍しいだけの生き物たちだ」バルスは、グラスを両手で包んだ。「あいつらを、これからどうすればいいのか、俺にはわからない」


 零は、少し間を置いてから答えた。


 「逃がすこともできます。飼い続けることもできます。どちらが正しいかは、私にはわかりません」


 「では、どうすればいい」


 「あの生き物たちが、何を望んでいるか。それを、あなたが考えるなら……きっと、答えは見つかると思います」


 バルスは、しばらく考え込んでいた。


 「……考えたことが、なかった。あいつらが何を望んでいるかなんて、一度も」


 「これから考えれば、いいんです」


 バルスは、ゆっくりと頷いた。それから、グラスの残りを飲み干して、立ち上がった。


 「また来ていいか」


 「いつでも」


 「次は、屋敷の生き物たちの話を、聞いてくれるか」


 「もちろんです。一杯、飲みながら」


 バルスは、今度ははっきりと笑った。


 「お前は、いつもそれだな」


 「一杯飲んでからの方が、話しやすいでしょう」


 扉が閉まる音を、零は聞いた。


 バルスが帰った後、ルナがシロを抱えて、零の隣に来た。


 「ねえ、おにーさん。シロ、なんで自分からバルスさんのところに行ったの?前は、あんなに嫌がってたのに」


 「シロに、聞いてみたらどうですか」


 ルナはシロの顔を覗き込んだ。「シロ、なんで行ったの?」


 シロが耳を動かす。ルナは、その意味をじっと汲み取って、それから、ふっと笑った。


 「……『変わったから』だって。バルスさんが変わったのが、わかったんだって」


 「シロには、わかるんだと思います。人が変わる瞬間が」


 「シロって、すごいね」


 シロがまた耳を動かした。ルナが、声を上げて笑う。


 「『そうでもない』って。また言ってる、これ」


 零も、つられて少しだけ笑った。


 その夜、店を閉めた後。


 奥の部屋から、老人が静かに出てきた。


 「今夜の客は、面白かったか」


 「奥で、聞いていたんですか」


 「声だけ、な」老人はカウンターの端に腰を下ろした。その動きは、ゆっくりとしていた。「奪おうとした男が、与えられる側になった。三百年生きてきたが、人間が変わる瞬間というのは、何度見ても、不思議なものだ」


 「変われると、思いますか。人は」


 老人は、少し間を置いた。


 「三百年、俺は変わらないものばかりを見てきた。境界も、乱れも、ずっと同じ形でそこにあった。変わらないことが、世界の常だと思っていた」


 老人の目が、零を見た。深い目だった。


 「だが、ここに来てから、俺は変わるものを見ている。人が、変わっていく様を。……悪くない。むしろ、面白いと思うようになった」


 それだけ言うと、老人はまた、ゆっくりと奥の部屋へ戻っていった。


 零は、カウンターを磨いた。


 今夜も、この店は続いている。


≪第39話・了≫


次話――翌朝、訓練を終えたルナが、息を整えながら老人に聞いた。「ねえ、いつ境界を直しに行くの?」老人は、しばらくルナを見つめてから、静かに答えた。「お前の準備が整えば、いつでもだ」「……あたし、もう準備できてる気がする」老人は、長い間、ルナを見ていた。「そうかもしれないな」


【あとがき】


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


「奪われるものと、与えられるものの違い」


バルスが奪おうとした時、シロは逃げました。バルスが変わった時、シロは自分から来ました。


そして、二百年間「金で大きくしなかった」グレンファークラスという酒。金で買えないものを守り続けた家族の話が、バルスの心に届きました。


続きが気になると思っていただけたなら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。


コメントで「バルスの変化、どう感じましたか」を教えてもらえると嬉しいです。


次話もよろしくお願いします。


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