第38話「Bar しみず」
零は人目を避けて歩いた。
大通りには出なかった。
路地から路地へ、影を選んで進んだ。
向かう先は決まっていた。
かつて自分が働いていた店だ。
角を曲がる手前で、足を止めた。
その先に、明かりがあった。
看板が出ていた。
「Bar しみず」
零はしばらく、その明かりを見ていた。
(SOMA)
――この店の場所は、お前がいた店と同じだ。ゲートは、正しい場所に繋がった。位置の確認は完了した。
(じゃあ、目的の一つは終わったんですね)
――そうだ。もう一つは、前の世界が続いているかどうか。それは、お前が自分で確かめることだ。
零は明かりを見た。
中から、かすかに光が漏れていた。
誰かが、あの場所で店を開けていた。
(中の様子を確認できますか)
――確認する。
少し間があった。
――客が二人。カウンターの中に一人。三人とも、お前の記憶にある人物とは一致しない。お前を知る人間は、中にいない。
(入っても、大丈夫ですか)
――断定はできない。リスクは低い。判断はお前がしろ。
零は扉を見た。
長い間、見た。
それから、一歩前に出た。
扉に手をかけた。
扉を開けた。
暖かい光が、零を迎えた。
磨かれたカウンターがあった。
棚にグラスが並んでいた。
かつて自分がいた場所だった。
でも、別の店になっていた。
カウンターの中に、三十代の男が立っていた。
穏やかな顔の男だった。
「いらっしゃいませ」と男が言った。
「一人です」と零が答えた。
「どうぞ」
男はカウンターの端の席を、手で示した。
零はそこに座った。
扉に近い席だった。
すぐに出られる席だった。
情報屋の頃からの、癖だった。
「何をお飲みになりますか」と男が聞いた。
零は少し間を置いた。
「実は、酒が飲めないんです」
男が、少し動きを止めた。
「飲めない、というのは」
「体質です。一滴も飲めません。昔からです」
男は少し考えるような顔をした。
「では、ソフトドリンクをお出ししましょうか」
零は少し首を振った。
「いえ。一つ、お願いがあります」
「なんでしょう」
「香りだけ、楽しませてもらえませんか。ウイスキーの香りを。飲まずに、嗅ぐだけで」
男はしばらく零を見た。
それから、少し笑った。
「珍しいお客様ですね」
「よく言われます」
「いいでしょう。香りのいいものを、お選びします」
男は棚を見た。
一本を選んだ。
グラスに、少しだけ注いだ。
零の前に置いた。
「どうぞ。お代は結構です。飲まないのでしたら」
「ありがとうございます」
零はグラスを手に取った。
香りを、嗅いだ。
ピートの香りがした。
潮の香りもした。
いい香りだった。
「……いい香りですね」
「先代が好んでいたボトルです」と男が言った。
零は手を止めた。
「先代を、ご存知ですか」
「直接は、存じません。私が継いだ時には、もういませんでしたから」
男はグラスを磨きながら、続けた。
「ただ、不思議なことに」
「なんですか」
男は少し考えてから、言った。
「先代も、酒が飲めない方だったと聞いています」
零の手が、グラスの上で止まった。
「飲めないのに、バーをやっていたんですか」と零は聞いた。
声が、少しだけ低くなった。
「ええ」と男が答えた。「常連のお客様が、よくおっしゃいます。飲めないからこそ、客の話をよく聞いてくれたと」
零は何も言わなかった。
グラスを持ったまま、動かなかった。
「酔わない人間が、酔った人間の話を聞く」と男は続けた。「だから、安心して話せたと。皆さん、そうおっしゃいます」
零はグラスを見た。
香りが、まだ立っていた。
飲めない人間が、バーをやっていた。
飲めないからこそ、人の話を聞けた。
それは、自分のことだった。
そして今、別の人間が、その話を覚えていた。
別の名前の店で。
別の人間の口から。
でも、残っていた。
「……いい先代ですね」と零は言った。
「会ったことはありませんが」と男は答えた。「そう思います」
「一つ、聞いていいですか」と零が言った。
「どうぞ」
「あなたは、なぜこの店を続けているんですか」
男はグラスを磨く手を止めた。
少し考えてから、答えた。
「先代が大切にしていた場所だと、聞いたからです」
「それだけで?」
「それだけです。会ったこともない先代ですが」
男は少し笑った。
「この場所には、何かが残っている気がして。だから、続けています」
零はグラスを、そっとカウンターに戻した。
飲まなかった。
でも、香りは、確かに受け取った。
「残っていますよ」と零は言った。
「え?」
「何かが、ここに残っています。確かに」
男は少し不思議そうな顔をした。
「そうですか」
「そうです」
零は立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「もうお帰りですか」
「ええ。少し、急いでいるので」
扉の前で、一度だけ振り返った。
磨かれたカウンターがあった。
グラスが並んでいた。
男が、次の客のために、グラスを拭いていた。
飲めないバーテンダーが、確かにいた。
その場所が、続いていた。
別の人間の手で。
「またいつか」と男が言った。
零は少し間を置いた。
「ええ。いつか、また」
扉を開けた。
夜の空気が入ってきた。
零は外に出た。
扉が、静かに閉まった。
路地に出た。
零はしばらく、その場に立っていた。
(SOMA)
――確認は、終わったか。
(終わりました)
――前の世界は、続いていたか。
零は少し間を置いた。
(続いていました。俺がいなくても)
――どう感じた。
零は夜空を見上げた。
星は見えなかった。
街が、明るすぎて。
(少し、寂しいです。でも)
――でも?
(飲めない人間がやっていた店だと、覚えてくれていました。それで、十分です)
SOMAは、何も言わなかった。
しばらく、静かだった。
――零。
(なんですか)
――残り時間は、まだある。ルナとの約束があっただろう。
零は少し笑った。
(おにぎりですね)
――そうだ。
零はコンビニに入った。
明るい店内だった。
誰も零を気にしなかった。
ここでは、零はただの客の一人だった。
死んだ人間でも、異世界から来た人間でもなかった。
ただ、夜にコンビニに来た、一人の客だった。
おにぎりの棚の前に立った。
たくさんの種類があった。
零は少し考えた。
ルナのためだけではない。
帰ったら、みんなで食べることになる。
ルナがいて、ヴァルドがいて、ノアがいて、アリシアがいて、老人がいる。
六人だ。
零は、一人ひとりの顔を思い浮かべた。
ルナには、昆布。前に話に聞いた時、それが気になっていた。
ヴァルドには、しっかりした鮭。
ノアは料理人だから、いろいろな味を試したいだろう。
アリシアには、さっぱりした梅。
老人には、優しい味のもの。
零は、種類を選びながら、たくさん手に取った。
全員が、好きなものを選べるように。
余るくらいでちょうどいい、と思った。
バーテンダーの考え方だった。
足りないより、少し多い方がいい。
レジで会計をした。
店員は、零の顔を見なかった。
ただ、商品をスキャンして、袋に入れた。
二つの袋が、いっぱいになった。
「ありがとうございました」
零は袋を受け取った。
外に出た。
(SOMA)
――時間を伝える。ゲートを通ってから、三時間が経過した。
(半分ですね)
――まだ余裕はある。だが、戻り始めた方がいい。
(そうします)
零はゲートの方へ歩き始めた。
路地を選んで。
人目を避けて。
二つの袋を、両手に持って。
歩きながら、零は思った。
前の世界は、続いていた。
自分の店は、別の名前になっていた。
でも、そこには何かが残っていた。
飲めないバーテンダーが、人の話を聞いていた。
その記憶が、残っていた。
そして今、自分には、別の場所がある。
裏路地の、小さなバー。
ルナがいて、シロがいて、全員がいる場所。
帰る場所だった。
ゲートの場所に戻った。
扉が、まだ開いていた。
向こうから、異世界の光が差していた。
零は扉の前に立った。
一度だけ、後ろを振り返った。
東京の夜が、続いていた。
自分がいなくても、続いていく夜だった。
零は前を向いた。
二つの袋を、抱え直した。
扉を、跨いだ。
ダンジョンの第三層に戻った。
ルナが、真っ先に駆け寄ってきた。
「おにーさん!」
「ただいまです」
ルナは零の前で止まった。
零の顔を見た。
「……無事だった?」
「無事です」
「誰にも見られなかった?」
「見られませんでした」
ルナは少し間を置いた。
それから、零の手の袋を見た。
二つとも、いっぱいだった。
「それ、何?」
「おにぎりです。買ってきました」
ルナの目が、丸くなった。
「そんなに?」
「みんなの分です。帰ったら、一緒に食べましょう」
ルナはしばらく袋を見た。
それから、零を見た。
目が、少し赤くなっていた。
でも、泣かなかった。
「……ありがとう」
「礼はいいです」
ルナは少し笑った。
「それ、ノアさんのセリフ」
「使ってみました」
ルナは声を出して笑った。
久しぶりに聞く、笑い声だった。
ヴァルドが扉の横から離れた。
「戻ったか」
「ただいま戻りました」
「時間内だな」
「三時間半でした」
ヴァルドは少し頷いた。
「無理は、しなかったか」
「しませんでした」
「そうか」
ヴァルドはそれだけ言って、扉を見た。
シロが、まだ扉の前でゲートを支えていた。
「老人さん、ゲートを閉じてください」と零が言った。
老人が頷いた。
扉を見た。
「戻ったな」
それだけ言って、ゲートに手を向けた。
シロが、扉から離れた。
ルナの足元に来た。
扉が、ゆっくりと閉じ始めた。
異世界の光が、少しずつ細くなった。
やがて、完全に閉じた。
石の扉が、元の姿に戻った。
紋様の光も、消えた。
ダンジョンに、静けさが戻った。
地上に戻った。
ノアとアリシアが、待っていた。
「戻ったか」とノアが言った。
「戻りました」
ノアは零の顔を見た。
それから、零の手の袋を見た。
「ずいぶん買ったな」
「みんなで食べようと思って」
ノアは少し間を置いた。
「……わかった。皿を出す」
ノアは厨房に向かった。
アリシアが零に近づいた。
「向こうは、どうでしたか」
零は少し間を置いた。
「続いていました。俺がいなくても」
アリシアは少し考えてから、頷いた。
「それは、いいことですね」
「そうですね」
ルナが袋をカウンターに置いた。
中身を出した。
昆布、鮭、梅、いろいろな種類が並んだ。
「みんな、好きなの選んでいいよ」とルナが言った。
全員が、カウンターに集まった。
ノアが皿を出した。
おにぎりが、皿の上に並んだ。
ルナが昆布のおにぎりを手に取った。
ラップを外した。
一口、食べた。
止まった。
もう一口、食べた。
「……なにこれ」
「おにぎりです」と零が言った。
「知ってる。でも、なにこれ。おいしい」
ルナの口の端が、上がっていた。
ヴァルドが鮭のおにぎりを手に取った。
一口食べた。
目が、少し細くなった。
「……悪くない」
ノアが一つ手に取って、裏の包みを見た。
「この包み方は、よくできている」と低く言った。
「食べてください」と零が言った。
「食べる。だが、作り方も見ている」
アリシアが梅のおにぎりを食べた。
「酸味がいいですね。さっぱりします」
老人が、優しい味のおにぎりを、ゆっくりと食べた。
何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと、味わっていた。
全員が、おにぎりを食べていた。
今夜も、この店は続いている。
≪第38話・了≫
次話――数日後の夜、バルスが再来店した。カウンターに座って、少し間を置いてから言った。「前に来た時、あの生き物が幸せか聞いた」「そうですね」「今日も、聞いていいか」零はグラスを磨きながら、ルナを呼んだ。
【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「先代も、酒が飲めない方だったと聞いています」
このセリフを書くために、零を下戸という設定にしてきました。
飲めないからこそ、人の話を聞ける。
それが、別の名前の店で、別の人間の口から、語り継がれていました。
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