第37話「扉の前で」
翌日の夕方、零は全員を呼んだ。
「今夜のことを、整理させてください」
ヴァルドが腕を組んで壁に寄りかかった。
ノアが厨房の扉を開けたまま、入口に立った。
アリシアが素材の部屋から出てきて、椅子に座った。
ルナがシロを抱えて、カウンターの端に腰かけた。
老人がカウンターの向こうに座った。
全員が揃った。
「まず、なぜ今ゲートを開けるのかを話す」と老人が言った。
全員が老人を見た。
「最終的な目的は、境界の乱れを直すことだ。だが、いきなり直すことはできない。まず、ゲートが正しく開くかどうかを確かめる必要がある」
「試すということですか」とアリシアが聞いた。
「そうだ。ゲートが安全に開くか。正しい場所に繋がるか。開いている間、境界が安定しているか。それを一度、確かめなければならない」
アリシアは頷いた。
「確認できたら、次に何をするんですか」
「本番だ。境界の中心に行って、乱れを直す。だが、それは今日ではない。今日は、ゲートを開けて、確認するだけだ」
零が続けた。
「だから今夜は、確認のために、向こうへ行きます。ただし」
ルナが顔を上げた。
「向こうへ行くのは、俺一人です」
「一人?」とルナが言った。
「そうです」
「なんで?あたしも行きたい」
零は少し間を置いた。
「老人さんから、説明してもらいます」
老人がゆっくりと話し始めた。
「ゲートを開けるのに三つの条件が要る。守護者の意志・二つの世界を知る人間・境界を感じ取れる者。この三つが揃って、扉が開く」
ルナが頷いた。
「だが、開けることと、向こうへ行くことは別だ。ゲートが開いている間、境界の流れを見張る者が、こちら側に要る。流れが乱れた瞬間に気づける者だ」
ルナは少し考えた。
「それが、あたし?」
「そうだ。お前は境界を感じ取れる。だからこちら側に残って、流れを見張る役目がある」
ルナはシロを見た。
それから老人を見た。
「あたしが行ったら、誰が見張るの?」
「誰もいない」
ルナはしばらく黙った。
それから、ゆっくりと首を縦に振った。
「……わかった。残る」
「老人さんは行かないんですか」とアリシアが聞いた。
老人は首を横に振った。
「俺は境界を渡れない」
「なぜですか」
「俺は終わりの者だ。境界を観測する存在として三百年生きてきた。境界を完全に渡ると、観測する力を失う」
「失うとどうなりますか」
「乱れを感じ取れなくなる。それでは、ここにいる意味がなくなる」
アリシアは少し間を置いてから、頷いた。
「わかりました。こちら側に留まる必要があるんですね」
「そうだ。俺はここでルナと一緒に、流れを見張る」
ルナが老人を見た。
「二人で見張るんだ」
「そうだ」
ルナは少しだけ、安心した顔をした。
「では、なぜ俺が一人で行くのか」と零が言った。
全員が零を見た。
「俺は、前の世界で死んでいます」
ノアが腕を組んだまま、零を見た。
「死んだ人間が、戻れるのか」
「ゲートは魂ではなく、物理的な空間を繋ぐものだそうです。今の俺の体は、前の世界にいた体ではない。別の体です。だから、通ること自体はできます」
零は少し間を置いた。
「ただし、前の世界では、俺は死んだことになっています。記録も、戸籍も、消えています」
「それが、どういう意味だ」とノアが聞いた。
「もし、俺を知っている人間に見られたら」
零はグラスを磨く手を止めた。
「死んだはずの人間が現れたことになります。大きな混乱が起きます」
全員が静かになった。
「だから、誰にも見られてはいけません。人数が多いほど、目立つ。だから、一人で行きます」
ノアはしばらく零を見た。
「一人で、平気か」
「平気です。前の世界で、俺は人に見られずに動く仕事をしていました。情報屋でした。だから、できます」
ノアは腕を組んだまま、短く言った。
「……気をつけろ」
「ありがとうございます」
「六時間以内に戻ること」と老人が言った。
「ゲートは境界を開いた状態にし続ける。負荷がかかる。六時間を超えると不安定になり、閉じる可能性がある」
「閉じたら、おにーさんが帰れなくなる?」とルナが聞いた。
「そうだ。だから、六時間以内に必ず戻る」
零が頷いた。
「もし、それまでに乱れを感じたら」と老人がルナに言った。「すぐに俺に言え」
「おにーさんがまだ向こうにいたら?」
「その時は、お前が判断する。零を待つか、ゲートを守るか」
ルナが少し青ざめた。
零がルナの前に来て、しゃがんだ。
目線を合わせた。
「ルナ」
「なに」
「乱れを感じたら、迷わずゲートを守ってください」
「でも、おにーさんが」
「俺のことは考えなくていい。守るべきは、ゲートと、こちら側の全員です」
ルナの目が揺れた。
「……置いていけない」
零は少し間を置いた。
「俺は情報屋でした。最悪の状況でも、生き延びる方法を知っています。だから、信じてください」
ルナはしばらく零を見た。
それから、ゆっくりと首を縦に振った。
「……わかった。でも、絶対帰ってきて」
「帰ってきます」
「俺たちはどうする」とノアが言った。
「ノアさんとアリシアさんは、店で待っていてください」
「降りないのか」
「ゲートで役割がありません。お二人は店を開けたまま、戻りを待ってください」
ノアは少し間を置いた。
「……わかった。飯を作って待つ」
アリシアも頷いた。
「私は店で、戻る時間を計っています」
「お願いします」
ノアが零を見た。
「戻ったら、すぐに飯を出す。腹が減っているはずだ」
零は少し笑った。
「ありがとうございます」
夜になった。
店をアリシアとノアに任せた。
零・ルナ・ヴァルド・老人・シロが、地下へ降りた。
第二層をシロが先導した。
魔物が道を空けた。
第三層の封印された扉の前に、全員が立った。
シロが扉の前に座った。
金色の目が、扉を見た。
紋様が光り始めた。
ルナがシロの隣に立った。
目を閉じた。
「……感じる。流れが来てる」
「乱れはあるか」と老人が聞いた。
「ない。今は、まっすぐ」
「では、開ける」
扉が、音を立てずに開いた。
向こうから、橙色の光が漏れてきた。
ネオンの光だった。
東京の夜だった。
ルナが目を開けて、扉の向こうを見た。
「……あれが、前の世界」
「そうです」と零が言った。
ルナは少し間を置いてから、零を見た。
「おにーさんが、死んだ世界」
「そうです」
「怖くない?戻るの」
零は少し間を置いた。
「怖くないと言えば、嘘になります」
「じゃあ、なんで行くの」
零は扉の向こうを見た。
橙色の光を見た。
「俺がいなくなった後も、あの世界がちゃんと続いているか、確かめたいんです」
ルナは零を見た。
何も言わなかった。
ただ、シロを抱える手に、少し力が入った。
ヴァルドが扉の横に立った。
壁に背を向けて、腕を組んだ。
「六時間で戻ってこい」
「戻ります」
「一人で行かせるのは、好きではない」
「わかっています」
「だが、信じる。帰ってこい」
「ありがとうございます」
シロが扉の前で、ゲートを支えていた。
老人とルナが、流れを見張る位置に立った。
全員が、配置についた。
零は扉の前に立った。
一度だけ、振り返った。
ルナが言った。
「おにーさん」
「なんですか」
「お土産、買ってきて」
零は少し笑った。
「何がいいですか」
ルナは少し考えた。
「前に話に聞いた、三角の、米の」
「おにぎりですか」
「それ。それがいい」
「わかりました。買ってきます」
「絶対だよ」
「絶対です」
零は前を向いた。
橙色の光に向かって、一歩踏み出した。
東京の夜の空気が、頬に触れた。
扉を、跨いだ。
石畳の路地に、一人で立った。
遠くでサイレンの音がした。
ネオンが光っていた。
一年以上ぶりの、前の世界だった。
死んだはずの世界だった。
(SOMA)
――周囲を確認する。半径百メートル以内に、人が十一人。
(避けられますか)
――東の路地に進め。そちらは人通りが少ない。大通りには出るな。
(わかりました)
――六時間だ。時間を見失うな。常に経過を伝える。
(頼みます)
零は物陰を選んだ。
人のいない路地を選んだ。
誰にも見られないように、歩き始めた。
前の世界の夜が、静かに続いていた。
≪第37話・了≫
次話――零は人目を避けて歩いた。かつて自分が働いていた店の方へ。角を曲がる手前で、足を止めた。その先に、明かりがあった。「Bar しみず」という看板だった。零はしばらく、その明かりを見ていた。




