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裏路地の隠れ家『BAR ZERO』。下戸の元情報屋が提供する極上の一杯は、追放された者たちを救い、悪党を密かに破滅へ導く  作者: akaike


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第35話「リオが歌った夜」

 リオ・ファーンが来たのは、夜も深まった頃だった。


 扉が開いた瞬間、弦楽器が目に入った。


 同じ楽器だった。


 でも、前に来た時と顔が違った。


 あの時は「確かめに来た」顔だった。


 今夜は「持ってきた」顔をしていた。


 「また来た」


 「お待ちしていました」


 リオはカウンターに座った。


 「歌を持ってきた」


 「聴かせてもらえますか」


 「そのつもりで来た」


---


 「一杯、飲んでからにしてください」


 俺は言った。


 「歌の前に飲むのか」


 「歌う前の方が、出しやすい一杯があります」


 リオは少し考えてから、頷いた。


 「一つだけ聞いていいか」


 「どうぞ」


 「前に飲んだ酒の名前、何だったか」


 「『声が戻る夜の一杯』です」


 「あれを飲んでから、声が出なくなる夢を見なくなった」


 俺は手を止めた。


 「そうですか」


 「一度も見ていない。半年以上」


 「それは良かったです」


 「あの酒のせいかどうかはわからない。でも」


 リオは楽器をカウンターに立てかけた。


 「あの夜、ここで飲んでから、歌いたいものが見えた。それは確かだ」


---


 今夜の一杯を作った。


 歌の前の一杯だ。


 前回と同じものは出さない。


 取り出したのは三つだった。


 「明慧草」——頭の中を整理する薬草。澄んだ思考をもたらす。


 「白桃果」——この世界に自生する白い果実で、清涼感のある甘みを持つ。


 炭酸水。


 明慧草を少量のお湯で煮出して、冷ました。


 白桃果を絞った。


 炭酸水で割った。


 透明に近い、淡い色の一杯だった。


 「どうぞ」


 「名前は」


 「『歌の前の一杯』にします」


 リオが少し笑った。


 「そのままだな」


 「そのままの方が伝わります」


 一口飲んだ。


 「……澄んでいる」


 「そうです。頭の中が整理される薬草が入っています」


 「歌う前に向いているな」


 「そう思いました」


---


 「なぜ、ここの歌を作ったんですか」


 俺は聞いた。


 リオはグラスを持ったまま、少し考えた。


 「各地で、この店の話をする人間に会った。王国の人間も、隣国の人間も」


 「そうですか」


 「みんな、同じことを言う。来た時と帰る時で、顔が違ったと」


 「そうですか」


 「吟遊詩人というのは、言葉と旋律で場所を伝える仕事だ。俺が伝えなければならない場所があると思った」


 「それがここですか」


 「そうだ。ただし」


 リオはグラスをカウンターに置いた。


 「俺自身が来てから、でないと歌えなかった。人から聞いた話を歌にしても、嘘になる」


 「それで、前に来たんですか」


 「そうだ。来て、飲んで、わかった。だから歌にした」


---


 「歌っていいか」


 「もちろんです」


 リオは楽器を手に取った。


 チューニングを確かめた。


 指が弦に触れた。


 低い音が、店内に広がった。


 その場にいた客が、三人いた。


 全員が、静かになった。


 リオが歌い始めた。


 言葉は、この世界の言葉だった。


 裏路地のことを歌っていた。


 扉のことを歌っていた。


 灯りのことを歌っていた。


 特定の誰かの名前は出なかった。


 でも、ルナが俺を見た。


 俺はグラスを磨きながら、前を向いていた。


 ヴァルドが入口で、腕を組んだまま、目を閉じた。


 ノアが厨房から顔を少しだけ出して、また引っ込んだ。


 アリシアが素材の部屋の扉を少し開けたまま、動かなかった。


 シロがカウンターの端に来て、座った。


 リオの声が、続いた。


---


 歌が終わった。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 客の一人が、静かに拍手をした。


 もう一人も続いた。


 リオはグラスの残りを飲んだ。


 「どうだった」


 「いい歌でした」


 「答えになっていない」


 「そうですね」


 俺は少し間を置いてから、続けた。


 「扉のことを歌っていました」


 「そうだ」


 「扉というのは、この店の扉ですか」


 「そうだ。ただし」


 リオは楽器を膝の上に置いた。


 「俺が歌ったのは、特定の扉じゃない。来た人間が、変わって出ていく扉だ。どこにでもある、でも、どこにもない扉だ」


 俺はグラスを磨いた。


 「それは、いい歌ですね」


 「そうだろう」


 「もう一杯、どうぞ」


 「今度は何が来る」


 「歌った後の一杯です。歌の前とは違います」


 「どう違う」


 「飲んでから、わかります」


---


 二杯目を作った。


 白桃果の炭酸ではなく、今度は温かいものにした。


 月蜜と、少量の泉の水。


 お湯で割った。


 ほんのりした甘みと、ダンジョンの泉の純粋な水が合わさった。


 「どうぞ」


 リオが受け取った。


 一口飲んで、目を細めた。


 「……温かい」


 「歌った後の喉に合います」


 「さっきとまるで違う」


 「出す時によって変わります」


 リオはゆっくりと飲んだ。


 「次にここに来るのはいつになるかわからない。旅をしているから」


 「いつでもお待ちしています」


 「次来る時には、また別の歌を持ってくる」


 「楽しみにしています」


 「この店についての歌じゃないかもしれない」


 「それでも聴かせてください」


 リオはグラスを飲み干した。


 「……いい店だ」


 「ありがとうございます」


---


 リオが帰った後、ルナが言った。


 「あの歌、扉のことだってわかった」


 「そうですね」


 「この店の扉だよね、きっと」


 「そうかもしれません」


 「でも、あたしの扉でもある気がした」


 俺は手を止めた。


 「どういう意味ですか」


 「スラムから出てきた時、この店の扉を叩いた。あの扉のことを歌ってくれた気がして」


 「そうですか」


 「……嬉しかった」


 ルナはシロを抱えて、少し笑った。


 泣きそうな笑い方だった。


---


 閉店後、アリシアが俺に言った。


 「今朝の訓練で、ルナさんが三回感じ取れました」


 「三回ですか」


 「先週は一回でした。安定してきています」


 「そうですか」


 「このペースが続けば、もう少しで使えるレベルになるかもしれません」


 「老人には伝えますか」


 「明日の朝、伝えます」


 「わかりました。ありがとうございます」


 アリシアは素材の部屋に戻った。


---


 (SOMA)


 ――リオの歌が広まっている。


 (もう広まっているんですか)


 ――リオは今夜ここを出た後、近くの宿で歌った。宿泊客が聞いた。明日には別の場所に伝わる。


 「早いですね」


 ――吟遊詩人の仕事は速い。それより零、一つ伝えておくことがある。


 (なんだ)


 ――今夜のリオの歌を聞いた人間の中に、「あの店に行きたい」と言った者がいる。


 「どんな人物ですか」


 SOMAが少し間を置いた。


 ――今はまだわからない。ただし、遠くから来る人間だ。


 「そうですか」


 ――お前の店は、少しずつ遠くまで届いている。


 俺はグラスを磨いた。


 扉は、今夜も開いている。


---


≪第35話・了≫


次話――数週間後の朝。アリシアとシロとルナの訓練が続いていた。老人が珍しく、訓練を最初から見ていた。一時間の訓練が終わった後、老人がルナに言った。「次の段階に進める。扉の前に立つ準備ができている」


---




【あとがき】


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


「どこにでもある、でもどこにもない扉」


リオが歌ったのは、BAR ZEROの扉だけじゃないかもしれません。あなたが今まで叩いてきた扉のことかもしれません。


続きが気になると思っていただけたなら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。


コメントで「あなたが叩いたことのある扉はどんな扉ですか」を教えてもらえると嬉しいです。


次話もよろしくお願いします。


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