第34話「また来ていいか」
バルスが来たのは、夜の早い時間だった。
扉が開いた瞬間、ルナが固まった。
シロがルナの腕の中で耳をぴんと立てた。
ヴァルドの右手が、反射的に腰の方へ動いた。
バルスが入ってきた。
いつもの派手な外套ではなかった。
落ち着いた色の服だった。
護衛もいなかった。
一人だった。
カウンターに近づいて、椅子に座った。
「今度は客として来た」
ルナがバルスを見た。
バルスがルナを見た。
シロがバルスを見た。
バルスがシロを見た。
しばらく、誰も何も言わなかった。
俺はグラスを一つ棚から選んだ。
「いらっしゃいませ。一杯、どうぞ」
---
ヴァルドが入口から低く言った。
「手は見えるところに」
バルスが少し止まった。
両手をカウンターの上に置いた。
「……そのつもりだ」
「最初からそうしていろ」
バルスは何も言わなかった。
ヴァルドは定位置に戻った。
ルナが俺の隣に来た。
小声で言った。
「おにーさん、なんであの人を入れたの」
「来てくださった方を選びません」
「……あの人だよ」
「知っています」
「シロを狙った人だよ」
「知っています。ただし、今日は客として来た、と言いました。それを信じます」
ルナはしばらく俺を見た。
それからバルスを見た。
バルスは視線に気づいて、ルナを見た。
ルナは目を逸らさなかった。
バルスが先に、視線を落とした。
---
シロが、ルナの腕から降りた。
床を歩いた。
バルスの方向へ。
全員が止まった。
バルスも止まった。
シロはバルスの前まで来て、止まった。
バルスを見上げた。
金色の目で。
バルスはシロを見た。
動かなかった。
前に来た時とは違った。
あの時は「欲しい」という目だった。
今は、ただ見ていた。
シロも、ただバルスを見ていた。
しばらくして、シロはまたルナの元に戻った。
ルナが小声で「シロ?」と聞いた。
シロは耳を一度動かしただけだった。
バルスはその様子を見ていた。
「……なんと言っていたんだ」
ルナは少し間を置いてから、答えた。
「まだわからない、って」
バルスは何も言わなかった。
でも、少し肩の力が抜けた。
---
俺はグラスに向かった。
バルスへの一杯を考えた。
前に来た時とは、立場が違う。
あの時は「力で奪う」人間だった。
今日は「座って飲む」人間として来た。
変化の途中にいる人間への一杯だ。
アイテムボックスから取り出したのは、タンカレーだった。
前の世界から持ち込んだジンだ。
「これは」とバルスが言った。
「ジンという種類の酒です。前の世界から持ち込みました」
「珍しい酒か」
「珍しいです。ジュニパーベリーという植物が主役の酒です。独特の松に似た香りを持ちます」
バルスの目が少し変わった。
「植物が主役の酒か」
「そうです。チャールズ・タンカレーという若者が、若くして蒸留所を作りました。数多くの植物を試して、最終的に四種類だけを選びました」
「四種類だけか」
「それ以外は全部捨てました。いくら珍しい植物でも、この酒の味を邪魔するなら使わなかった」
バルスは少し間を置いた。
「……俺とは逆だな」
「どういう意味ですか」
「俺は珍しいものを集める。価値があるから持つ。それだけだった」
「この男は違いました。珍しいかどうかより、必要かどうかで選んだ」
バルスはグラスを受け取った。
---
一口、飲んだ。
目が細くなった。
「……松の香りがする。それから清涼感がある」
「ジュニパーベリーの特徴です」
「こういう香りの植物が、実在するのか」
「実在します。山の斜面に自生します」
バルスはもう一口飲んだ。
しばらく、何も言わなかった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
バルスはシロを見た。
バルスはグラスを見たまま、言った。
「あの生き物は、幸せなのか」
ルナがバルスを見た。
それからシロを見た。
「……シロ、どうしてるって聞いてる」
シロは耳を動かした。
ルナが少し考えてから言った。
「ここにいる、って。それだけ」
バルスはシロを見たまま、短く言った。
「……そうか」
グラスの残りを飲み干した。
---
カウンターにお金を置いた。
「今日の代金だ」
「ありがとうございます」
バルスは立ち上がった。
外套を手に取った。
扉に向かって歩いた。
ヴァルドが無言で横を向いた。
バルスがヴァルドを見た。
「……邪魔をしてすまなかった。あの時は」
ヴァルドは何も言わなかった。
バルスは扉を開けた。
それから振り返った。
「また来ていいか」
俺は答えた。
「いつでも」
「条件はあるか」
「一杯、飲んでいただければ」
バルスは少し間を置いてから、また前を向いた。
「……わかった」
扉が閉まった。
---
ルナがため息をついた。
「……思ってたのと違った」
「どう違いましたか」
「もっと怖い感じかと思ってた」
「そうですか」
「シロのこと、今どうしてるかって聞いてた」
「そうですね」
「好きだから欲しかったのか、あの人」
「そうかもしれません」
「好きでも、奪ったらだめだよね」
「そうですね」
ルナはしばらく扉を見た。
「また来るって言ってた。来たら、あたしが水を持っていく」
「そうしてください」
「バルスさんって呼ぼうか、次から」
「いいと思います」
---
閉店後、ヴァルドが言った。
「次も通すのか」
「来てくださった方を選びません」
「あいつはシロを狙った」
「そうです。でも今日、シロを見てどうしているか聞きました」
ヴァルドは少し間を置いた。
「それだけで変わったとは言えない」
「そうですね。だからこそ、次も来てもらいます。一杯ずつ、見ていきます」
ヴァルドはしばらく俺を見た。
「……ただし危険が及びそうな時は、俺が動く」
「お願いします。その判断は、ヴァルドさんに委ねます」
ヴァルドは頷いて、入口に戻った。
---
**≪第34話・了≫**
次話――リオ・ファーンが戻ってきた。背中の弦楽器は同じだったが、顔が違った。「歌を持ってきた」と言った。「聴かせてもらえますか」。リオが弦をはじいた。BAR ZEROについての歌が、静かな店内に広がった。
---
【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
「また来ていいか」という一言を書くために、この話を用意していました。
敵として来た人間が、客として「また来ていいか」と言った。それだけの話ですが、それだけで十分だと思っています。
続きが気になると思っていただけたなら、ブックマーク・★評価をいただけると大変励みになります。
コメントで「バルスへの印象、変わりましたか」を教えてもらえると嬉しいです。
次話もよろしくお願いします。




