第33話「練習じゃない」
訓練は、毎朝開店前に始まった。
フロアの真ん中に、三人が座った。
アリシアとルナと、シロ。
一時間だけだった。
それ以上続けると逆効果になる、とアリシアが言った。
「感知は、力で押すものではありません。待つものです。疲れた状態で待っても、何も聞こえません」
ルナは「わかった」と言った。
でも、三日目の朝、俺はルナの顔が違うことに気づいた。
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いつもより早く降りてきた。
シロを抱えて、フロアの椅子に座っていた。
俺はカウンターを磨きながら、ルナを見た。
何も言わなかった。
しばらくして、ルナが言った。
「おにーさん」
「なんですか」
「あたし、感じ取れなかったらどうなる?」
俺はグラスを棚に戻した。
「どうなると思っていますか」
「……世界が終わる」
「百年はあります」
「それでも終わる」
俺は少し間を置いた。
「ルナが感じ取れなくても、老人は別の方法を考えます」
「ないって言ってた」
「そう言っていましたね」
「……だから怖い」
ルナはシロを強く抱いた。
シロが耳を動かした。
「シロが何か言ってる?」
「……ここにいる、って」
「そっか」
ルナは少し間を置いてから、また言った。
「シロはいつもそれしか言わない」
「それが一番大事なことかもしれません」
「どういう意味」
「今日も隣にいる、ということです。それ以上でも以下でもない」
ルナはシロを見た。
シロはルナを見ていた。
「……そっか」
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アリシアが素材の部屋から出てきた。
「始めましょう」
三人がフロアの真ん中に座った。
「今日は、感じようとしないでください」
「感じようとしない?」
「そうです。今まで三日間、感じようとしていた。それが原因かもしれません」
「感じようとしないのに、感じ取れるの?」
「わかりません。ただ、試してみてください。シロの隣にいてください。シロが向いている方向を、一緒に向いているだけでいい。それだけです」
シロが少し動いた。
ダンジョンのある方向を向いた。
ルナもその方向を向いた。
「シロが何か言ってる?」とアリシアが聞いた。
「……あっちを見て、って」
「そちらを見ていてください。それだけでいいです」
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一時間後、訓練が終わった。
ルナは「今日も何もわからなかった」と言った。
「そうですか」とアリシアが答えた。
「ダメだった?」
「ダメではありません。今日のルナさんは、三日前より力が抜けていました」
「力が抜けてたら、ダメじゃないの?」
「感知には、力が要らないと言いました」
「……そっか」
ルナはシロを抱いて、立ち上がった。
「明日もやる」
「そうしましょう」
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奥の扉が開いた。
老人が出てきた。
訓練が終わった頃に、毎朝出てくる。
「今日はどうだった」と老人が俺に聞いた。
「力が抜けてきたそうです」
「そうか」
老人はカウンターの端に座った。
「プレッシャーを感じているか、あの子は」
「感じています」
「そうだろう。すまない」
「謝る必要はありません」
「でも」
「ルナが選んだことです。あなたが謝ることではない」
老人はしばらく何も言わなかった。
「……お前は、不思議な人間だ」
「そうですか」
「怖いものがないのか」
「あります」
「なんだ」
「ルナが無理をすることです。それだけです」
老人は俺を見た。
それから、また静かになった。
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五日目の朝だった。
訓練が始まった。
三人がいつものように座った。
シロがダンジョンの方向を向いた。
ルナも同じ方向を向いた。
アリシアは何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
静かな時間が続いた。
ルナが、動きを止めた。
アリシアが気づいた。
「ルナさん?」
ルナは答えなかった。
目が、少し遠くなっていた。
「ルナさん」
「……何か、揺れてる」
「揺れている?」
「遠くで。ずっと、ずっと、揺れてる」
アリシアの手が止まった。
「それは、今まで感じたことがある揺れですか」
「……ない。全然違う。感情じゃない」
「続けて感じていられますか」
「……うん。消えない」
アリシアは立ち上がった。
「そのままでいてください」
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俺に声をかけた。
「老人を呼んでいただけますか」
奥の扉を叩いた。
「少しいいですか」
「ルナが、何かを感じ取っているようです」
老人の目が変わった。
急いではいなかった。
でも、確かに変わった。
フロアに来て、ルナの前にしゃがんだ。
声をかけなかった。
ルナの様子を、ただ見た。
自分の目で、境界の揺れを確かめているのだとわかった。
しばらくして、立ち上がった。
「合っていた」
「俺には見える。お前が感じていた方向と、一致していた」
ルナは何も言わなかった。
老人も、それ以上言わなかった。
ただ、ルナを見た。
長い間、見た。
その目が、ルナに何かを伝えたのかもしれなかった。
ルナがシロを強く抱いた。
俯いた。
肩が、細かく揺れた。
声は出なかった。
誰も何も言わなかった。
シロがルナの頬に鼻先を近づけた。
触れるか触れないかの距離で。
ルナは深く息を吸って、顔を上げた。
目が赤かった。
「泣かない」
自分に言い聞かせるような声だった。
「まだ終わってないから」
老人はまだルナを見ていた。
それから、静かに立ち上がった。
「続けてくれ」
それだけ言って、奥の部屋に向かった。
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アリシアがルナの隣に座った。
何も言わなかった。
ルナも何も言わなかった。
シロだけが、静かにルナの膝の上で丸くなっていた。
少しして、ルナが言った。
「……なんか、もう練習じゃない気がする」
アリシアは少し間を置いてから、答えた。
「そうですね」
「怖い。でも」
ルナはシロを見た。
「続ける。明日も来る」
「一緒にやります」
ルナは頷いた。
それだけだった。
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夜、店を開けた。
通常の客が来た。
全員に対応した。
老人はカウンターの端に座って、水を飲んでいた。
ある客が老人を見て、俺に小声で聞いた。
「あの方は?」
「常連の方です」
「そうか。なんか、ただ者じゃない雰囲気がするな」
「そうですね」
「お前のところの客は、みんなそうだな」
「ありがとうございます」
客は笑って、また自分のグラスを飲んだ。
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閉店後、全員が集まった時、俺はルナに聞いた。
「今朝のこと、どうでしたか」
ルナは少し考えてから、言った。
「怖かった」
「何が」
「感じた瞬間。あんなに大きいものが、ずっとそこにあったって思ったら」
「そうですか」
「世界って、こんな感じなんだって思った」
「こんな感じ?」
ルナはシロを見た。
「大きくて、遠くて、でもずっとそこにある」
俺は何も言わなかった。
ルナが続けた。
「シロが毎日感じてたものって、こういうものだったんだ」
「そうですね」
「……シロ、すごいな」
シロが耳を動かした。
「シロが何か言ってる?」とアリシアが聞いた。
ルナが少し笑った。
「『そうでもない』って」
全員が少し笑った。
ノアが厨房から出てきた。
皿を持っていた。
「飯にする。食ってから寝ろ」
「余り物ですか」とルナが言った。
「今日は余り物だ」
ルナとアリシアが顔を見合わせた。
「今日は正直ですね」とアリシアが言った。
「毎日正直だ」
ノアは皿を並べた。
今夜の食事が始まった。
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≪第33話・了≫
次話――バルスが来た。扉を開けて、カウンターに座った。「今度は客として来た」。ルナがバルスを見た。バルスがルナを見た。しばらく、何も言わなかった。俺はグラスを一つ選んだ。「一杯、どうぞ」
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【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今話の「泣かない。まだ終わってないから」というルナの言葉は、自分に言い聞かせる声でした。誰かに言ったのではなく、自分に。
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次話もよろしくお願いします。




