第32話「三つの条件」
もう既に深夜だった。
ルナはとっくに二階で寝ていた。
ノアは厨房を片付けて引っ込んでいた。
アリシアも素材の部屋の扉を閉めていた。
ヴァルドだけが、いつものように入口にいた。
カウンターには、俺と老人だけが残っていた。
シロは老人の隣に座っていた。
老人はグラスを両手で持ったまま、少し間を置いてから、口を開いた。
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「一つ目の条件は、始まりの守護者の意志だ」
「シロのことですか」
「そうだ。守護者がゲートを開けることを許可しなければ、何も始まらない。これは絶対の条件だ」
「シロは、どう思っていますか」
「俺には聞けない」
老人はシロを見た。
「守護者の言葉は、守護者が認めた者にしか届かない。俺には届かない」
「明朝、ルナに確認してもらいます」
「そうしてくれ」
老人はグラスを一口飲んだ。
「二つ目の条件は、二つの世界を知る人間だ」
「どういう意味ですか」
「ゲートを開ける時、向こう側に繋ぐ先が必要だ。行ったことのない場所へは、扉を開けられない。前の世界を自分の記憶として持っている人間が、案内役になる」
「そういう人間を、どうやって探すんですか」
「俺には境界の揺れが見える」
老人はグラスを置いた。
「人間が二つの世界の境界を越えた時、わずかな揺れが残る。三百年間、その揺れを記録し続けてきた。あんたが向こう側から来た時の揺れが、俺の記録にある」
「それで、俺だとわかったんですか」
「そうだ。境界を越えてきた人間の揺れは、独特だ。他と混ざらない」
俺は少し間を置いた。
「そうですか」
「二つ目は揃っている」
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「三つ目が、難しい」
老人は少し間を置いた。
「ゲートを開けた時、二つの世界の間に流れが生まれる。その流れが正しい方向に向かっているかを感じ取れる者が必要だ。流れが乱れた瞬間に気づき、止められる者だ」
俺はグラスを磨く手を止めた。
「境界の揺れを感じ取れる者、ということですか」
「そうだ。感情の揺れではない。世界そのものの、もっと遠い揺れだ」
老人は少し間を置いた。
「三百年間、一人だけ見つけた。この店にいる」
「ルナのことですか」
「そうだ。守護者の近くに一年近くいたことで、人間としては異例の感知力が育っている。ただし、今はまだ境界の揺れを感じ取れるレベルにはない」
「今後、できるようになりますか」
「なれると思っている。だから、ここに来た」
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「強制はしない」
老人が言った。
「あの子が選ぶことだ。世界の話を聞いて、それでも嫌だと言えば、別の方法を考える」
「別の方法はありますか」
「ない」
正直な答えだった。
「ただし、あの子に選ばせることが大事だ。強いてやらせれば、途中で折れる。自分で決めた者だけが、最後まで続けられる」
「朝に、全員に話します。ルナにも」
「頼む。怖がらせないように話してくれ」
「わかりました」
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話が一段落した時、窓の外がわずかに明るくなっていた。
老人がグラスを置いた。
「今夜はここまでにする」
「どこかに宿を取りますか」
老人は少し間を置いた。
「……正直に言う」
「どうぞ」
「三百年間、どこにも泊まらなかった。どこかに属したことがなかった。だから、どこに行けばいいかわからない」
俺はグラスを棚に戻した。
「奥に部屋があります。使ってください」
「迷惑ではないか」
「来てくださった方を選びません。この店のルールです」
老人はしばらく俺を見た。
「……三百年間、こういう場所を一度も見たことがなかった」
「そうですか」
「なぜこういう場所が作れる」
「わかりません。ただ」
俺はカウンターを磨きながら、続けた。
「来てくださった方が、一緒に作ってくれたと思っています」
老人は何も言わなかった。
ただ、立ち上がって、奥の部屋に向かった。
扉を開ける前に、一度だけ振り返った。
「ありがとう」
「お休みなさい」
扉が閉まった。
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しばらくして、奥の部屋から静かな寝息が聞こえた。
三百年ぶりの眠りだ、と思った。
シロがカウンターから降りて、奥の扉の前まで歩いた。
少し立ち止まって、また戻ってきた。
俺の足元に座った。
「見ていてくれますか」
シロは耳を一度動かした。
カウンターを磨いた。
夜明けが来た。
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朝になった。
ルナが二階から降りてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「老人さん、まだいる?」
「います。奥の部屋で眠っています」
「眠れたんだ」
「三百年ぶりだそうです」
ルナはシロを抱えながら、奥の扉を見た。
「……よかった」
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一時間後、全員が揃った。
ヴァルドが入口から離れた。
アリシアが素材の部屋から出てきた。
ノアが厨房の扉を少し開けた。
そこへ奥の扉が開いた。
老人が出てきた。
白髪が少し乱れていた。
それでも昨夜より、顔の奥が少し違った。
「話があります」と俺は言った。「全員に、昨夜聞いたことを伝えます」
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順番に話した。
老人が何者か。境界の乱れとは何か。なぜこの店に来たのか。
最後に、三つの条件を話した。
一つ目、二つ目と話して、三つ目の番になった。
「境界を感じ取れる者が必要だと言っています。老人が候補として名前を挙げた人物がいます」
俺はルナを見た。
「ルナです」
ルナが止まった。
シロが腕の中で動いた。
「……あたしが?」
「そうです」
「なんで」
「守護者の近くに一年近くいたことで、感知力が育っているとのことです。ただし、今はまだできない。続ければ届く、と老人は言っています」
ルナは老人を見た。
老人がゆっくりと頷いた。
「本当に、あたしなの」
確認ではなかった。
自分に言い聞かせるような声だった。
シロが耳を動かした。
「シロが何か言ってる」とルナが言った。
「何と」
「……一緒にやる、って」
ルナはしばらく、シロを見ていた。
それから顔を上げた。
「やります」
「理由を聞いていいか」と老人が言った。
ルナは迷わなかった。
「おにーさんのお店が終わったら嫌だから」
それだけだった。
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「危険はあるか」
ヴァルドが言った。
「ある」と老人が答えた。「ゲートを開ける時、境界の流れに触れる。最悪の場合、意識が引き込まれる」
「それをルナに任せるのか」
「守護者が一緒にいれば引き戻せる。ルナ一人ではない」
シロがヴァルドを見た。
ルナが言った。
「シロが『離さない』って言ってる」
ヴァルドはシロを、長い間見た。
「わかった」
それだけだった。
ルナに向かって、一言だけ付け加えた。
「何かあれば、すぐ言え」
「わかった」
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「今夜から訓練の内容を変えます」
アリシアがルナに言った。
「どう変わるの」
「感情の揺れではなく、もっと大きなものを感じ取る練習です。シロに手伝ってもらいます。三人でやります」
「急がなくていい?」
「急いで壊れるより、丁寧に育てる方が確実です。続けることだけを考えてください」
ルナは頷いた。
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ノアが厨房から出てきた。
皿を持っていた。
「飯を作った。全員食え」
アリシアが少し笑いながら言った。
「今日も余り物ですか」
「違う」
「違うんですか」
「今日は作るつもりで作った」
アリシアがルナを見た。
ルナもアリシアを見た。
二人が同時に少し笑った。
ノアは老人の前に皿を置いた。
「あんたも食え」
老人が少し止まった。
「……俺も?」
「泊まったなら客だ。客には飯を出す」
「礼を言う」
「礼はいい。食ってから話せ」
全員の前に皿が並んだ。
今日も、この店は動いている。
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≪第32話・了≫
次話――数日後の朝。訓練が続いていた。アリシアとシロとルナ、三人で毎朝一時間。ある朝、ルナが動きを止めた。「アリシアさん。何か……揺れてる。遠くで、ずっと」。アリシアが老人を呼んだ。老人が来てルナの様子を確認した。それから静かに言った。「こんなに早いとは思っていなかった」
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【あとがき】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今話で一番書きたかったのは、ルナの「やります」でした。
「世界を救うため」でも「人類のため」でもない。「おにーさんのお店が終わったら嫌だから」。
第一章から積み上げてきたルナの感情が、この一言に入っていると思っています。
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コメントで「ルナの『やります』、どう感じましたか」を教えてもらえると嬉しいです。
次話もよろしくお願いします。
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