第31話「差出人」
第2章開幕「世界の終わりは、一杯飲んでから」
一年と一日目の朝。
シロが動いた。
夜明け前から、ずっと扉の方を見ていた。
ルナがシロを抱えて、俺に言った。
「昨夜からずっとこっちを向いてる」
「そうですね」
「誰か来るの?」
「来ると思います」
「昨日の手紙の人?」
「そうです」
ルナはシロを見た。
シロの耳が、扉の方に向いたままだった。
「……シロ、知ってるの?手紙の人のこと」
シロは答えなかった。
でも、耳が少し下を向いた。
ルナが俺を見た。
「怖い人じゃないよね」
「わかりません」
「わからないの!?」
「SOMAでも特定できていない人物です。来るまで、何もわからない」
ルナはシロを抱きしめた。
「……シロが怖がってないから、大丈夫だと思う」
俺はシロを見た。
怖がってはいない。
でも、緊張している。
始まりの守護者のシロが緊張している。
それが何を意味するか、俺にはまだわからなかった。
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ヴァルドに話した。
「今日、特別な客が来ます」
「昨夜の手紙の件か」
「そうです」
「どんな人間だ」
「わかりません」
ヴァルドが少し目を細めた。
「お前がわからないと言う人間は、初めてだ」
「俺もSOMAも、何も把握できていません。来た時の判断で動いてください」
「剣を抜く可能性はあるか」
「今日は抜かなくていいと思います。ただし」
「ただし?」
「シロが判断を下した瞬間に、従ってください」
ヴァルドは少し間を置いた。
「……シロの判断に従うのか」
「この人物については、シロの方が俺より多くを知っている可能性があります」
ヴァルドはシロを見た。
シロは扉の方を向いたままだった。
「……わかった」
ヴァルドは定位置に戻った。
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昼過ぎ、アリシアに声をかけた。
「今日来る人物について、古代語の解読で何かわかることはありますか」
「ダンジョンの文字に、関連する記述があったかということですか」
「そうです」
アリシアはノートを開いた。
三ヶ月かけて解読した記録だ。
「……一箇所だけ、気になっていた文があります」
「教えてください」
「『守護者は一人ではない。始まりがあれば、終わりがある。終わりの者は、境界が乱れる時に現れる』という一文です」
俺は手を止めた。
「終わりの者」
「そうです。始まりの守護者がシロなら」
「終わりの者が、今日来る」
アリシアが静かに言った。
「……可能性として、ということです。確認はできていません」
「ありがとうございます」
俺はシロを見た。
シロが俺を見た。
金色の目が、少し細くなった。
(SOMA)
――聞いていた。
(どう思いますか)
――もし「終わりの者」が実在するなら、俺が特定できない理由がある。「終わり」という概念に近い存在は、情報として記録されない。名前も、来歴も、噂さえも。
(だから特定できなかった)
――そういうことかもしれない。ただし零。
(なんだ)
――怖いか。
俺は少し考えてから、答えた。
「怖くないと言えば嘘になります。でも」
――でも?
「来てくださった方に、一杯出すのがこの店の仕事です。それは変わりません」
SOMAは少し間を置いた。
――……わかった。
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夕方、ノアを呼んだ。
「今夜、特別な客が来ます。一皿お願いできますか」
「どんな客だ」
「世界の終わりについて話しに来る客です」
ノアが俺を見た。
長い間、見た。
「……本気で言っているのか」
「本気です」
「世界の終わりというのは、比喩ではなく」
「比喩ではないと思っています」
ノアはしばらく何も言わなかった。
「……どんな一皿がいい」
「人類が初めて食べるような一皿を」
「注文が大きすぎる」
「ノアさんにしか頼めません」
ノアは腕を組んだ。
「……材料は」
「ダンジョンの第一層で採れた素材を全部使っていいです。泉の水も」
「三百年前の素材か」
「そうです」
「……面白い注文だ」
ノアは厨房に消えた。
包丁の音が始まった。
今夜だけの音がした。
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夜が来た。
店を開けた。
通常の客が数人来た。
全員に対応した。
午後十一時を過ぎた頃。
ルナが言った。
「シロが立った」
シロがルナの足元から立ち上がっていた。
扉の方を向いていた。
耳が、ぴんと立っていた。
「来ますか」
ルナが頷いた。
「来る」
ヴァルドが入口の前に立った。
アリシアが素材の部屋から出てきた。
ノアが厨房の扉を少し開けた。
俺はグラスを一つ、棚から下ろした。
どのグラスを選ぶか、迷った。
迷ったのは久しぶりだった。
結局、いつも通りの、磨き続けてきたグラスを選んだ。
それで十分だと思った。
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扉が開いた。
静かだった。
音がしなかった。
扉が開いたのに、風も音も、何も来なかった。
ただ、人が立っていた。
老人だった。
背が低く、白い髪で、目が深かった。
服は質素だった。旅人の服のようだが、どの国の様式でもなかった。
老人はヴァルドを見た。
ヴァルドは動かなかった。
老人はシロを見た。
シロが、一歩だけ前に出た。
老人が、シロに向かって、静かに頭を下げた。
「久しぶりだ、守護者よ」
シロは何も言わなかった。
でも、耳が少し下がった。
ルナが俺の袖を引いた。
「シロが言ってる」
「何と」
「……知ってる人、って」
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老人がカウンターに向かった。
ヴァルドが視線で俺に確認した。
俺は小さく頷いた。
老人が椅子に座った。
背筋は曲がっていたが、目だけが若かった。
何百年分かの時間を見てきた目だ。
「BAR ZEROの主人か」
「そうです。水無月零と申します。いらっしゃいませ」
「手紙の返事を読んだ。『お待ちしています』と書いてあった」
「お待ちしていました」
老人は少し笑った。
「本当に待っていたのか」
「来てくださった方は、全員お待ちしています」
「……そうか」
老人はカウンターに手を置いた。
節くれだった手だった。
ハロルドの手に似ていた。
長い時間、何かを続けてきた手だ。
「一杯、飲んでから話を聞かせてください」
老人が少し止まった。
「……世界の終わりについて話しに来たのだぞ」
「それでも、どうぞ」
老人はしばらく俺を見た。
それから、静かに言った。
「……わかった」
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老人の体の状態を確認した。
「最近、よく眠れていますか」
「三百年、眠れていない」
俺は手を止めた。
「三百年」
「正確には二百九十七年だ。眠ろうとしたことは何度もある。眠れなかった」
「食事は」
「している。ただ、味がわからなくなって久しい」
「いつ頃からですか」
「境界が乱れ始めた頃から。百五十年ほど前だ」
俺はグラスを磨きながら、整理した。
二百九十七年、眠れていない。
百五十年、味がわからない。
この人物が「終わりの者」かどうかはまだわからない。
でも、今夜出す一杯の方向は、もう決まっていた。
長い時間を生きてきた人間が、久しぶりに何かを「感じる」ための一杯だ。
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取り出したのは四つだった。
ダンジョンの泉の水。
「霜白果」——第一層の奥で見つかった果物で、雪の結晶に似た香りを持つ。アリシアが魔法処理をした素材だ。
「記憶草」——亡くなった人への想いを整理する薬草。アリシアが処理していた。
そして最後に、山崎12年を一滴だけ。
泉の水をグラスの底に注いだ。
霜白果を静かに絞った。
白い果汁が、水と混ざった。
記憶草のエキスを数滴。
最後に、山崎12年を一滴だけ落とした。
十二年という時間が、一滴になって沈んでいった。
「どうぞ」
グラスを老人の前に置いた。
「名前は」
「まだありません。飲んでから決めます」
老人はグラスを手に取った。
両手で、包むように。
ハロルドと同じ持ち方だった。
一口、飲んだ。
目が、閉じた。
何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
シロがカウンターの端に来て、老人の隣に静かに座った。
ルナが小さく息を呑んだ。
老人の目から、一筋だけ、涙が落ちた。
「……味がする」
小さな声だった。
「百五十年ぶりに、味がする」
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しばらく、老人は何も言わなかった。
グラスを両手で持ったまま、動かなかった。
ノアが厨房から静かに皿を持って出てきた。
ダンジョンの素材で作った一皿だ。
音もなく、老人の前に置いた。
老人が皿を見た。
「……これは」
「三百年前にあなたと同じ時代の素材で作りました」
ノアが言った。
「当時の味かどうかは、わかりませんが」
老人は一口、食べた。
長い間、止まっていた。
「……懐かしい」
ただそれだけだった。
でも、その一言に、三百年分が入っていた。
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グラスが空になった頃、老人が口を開いた。
「このお酒の名前を聞いてもいいか」
「それでは…あなたのお名前を教えていただけますか」
「俺には名前がない。三百年間、名前を持たなかった」
「そうですか」
「あなたたちに何と呼ばれるかは、任せる」
俺は少し考えてから、言った。
「今夜の一杯に名前をつけます。その名前が、あなたの名前にもなります」
老人が俺を見た。
「……どういう意味だ」
「来てくださった方の、最初の一杯の名前が、その方を表すことがある。今夜の一杯は」
俺はグラスを見た。
霜白果の白と、記憶草の緑と、泉の水の透明と、山崎12年の琥珀が混ざり合っている。
「『百五十年ぶりの味』にしようと思います」
老人は少し間を置いてから、言った。
「……では俺は、百五十年ぶりの味だ」
「そうです」
「長い名前だな」
「そうですね」
老人はまた少し笑った。
今夜二度目の笑顔だった。
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「世界の終わりの話を、聞かせてください」
俺は言った。
老人が頷いた。
「三百年前、この地下に文明があった」
「知っています」
「その文明が、ゲートを通じて別の世界に大量に渡ろうとした」
「知っています。境界が乱れて、文明が滅びた」
老人が俺を見た。
「知っているのか」
「ダンジョンの古代文字を解読しました。三ヶ月かけて」
老人は少し止まった。
それから、続けた。
「境界が乱れた。だが、完全には閉じなかった」
「それも、聞いています」
「では、次を聞け」といった。
老人は声を低くした。
「三百年かけて、境界の乱れが広がっている。今、その乱れが臨界点に近づいている。あと百年もすれば、境界は自壊する」
「自壊するとどうなりますか」
「二つの世界が、一つになる」
俺は手を止めた。
「一つに」
「そうだ。混ざり合う。それが何を意味するか、想像できるか」
「……両方の世界が、消える」
「正確ではない。消えるのではない。変質する。どちらの世界でもない何かになる。それが生物にとって何を意味するか」
俺は何も言わなかった。
老人が続けた。
「俺はその乱れを三百年間、記録し続けてきた。防ぐ力はない。ただ記録するだけだった。でも今、防げる可能性がある場所を見つけた」
「ここですか」
「そうだ」
「なぜここが」
老人はシロを見た。
「始まりの守護者がいるからだ」
シロが、老人を見た。
「シロが、境界の乱れを修正できると」
「できる。ただし」
老人は俺を見た。
「その方法は、シロ一人では不可能だ。人間の助けが必要だ」
「どんな助けですか」
「ゲートを、正しく開くことだ」
俺は少し間を置いた。
(SOMA)
――聞いていた。
(どう思いますか)
――この人物の言っていることは、古代文字の記録と一致している。嘘ではないと思う。ただし。
(ただし?)
――「正しく開く」の意味が、まだわからない。
俺は老人に聞いた。
「もう少し、話を聞かせてください」
老人は頷いた。
「長い話になる」
「かまいません」
俺はグラスを一つ手に取った。
「もう一杯、どうぞ」
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≪第31話・了≫
次話――老人が言った。「ゲートを正しく開くには、三つの条件がある」。「教えてください」。「一つ目は、始まりの守護者の意志。二つ目は、二つの世界を知る人間。三つ目は」。老人がルナを見た。「境界を感じ取れる者だ」。ルナが少し止まった。「……あたし、のこと?」




